第26話 王の立たない朝
潮帳――崖の上で、王女が名乗った夕方を、失くした。
七日目の朝、崖の上には、太鼓が鳴らなかった。
祭りの一日目の朝と同じ場所だった。潮司庁の旗が並び、群臣が並び、その後ろに、王都の民が崖の縁までひしめいていた。陸の国の使節が、高い襟の中で首をすくめていた。
一日目の朝と違うのは、誰も、何も始まるのを待っていないことだった。
崖の下で、淵が満ちきろうとしていた。
あの朝、屋根の街が濡れ光っていたところは、青い水の下だった。神殿区も、市場も、王宮の壁も。
淵の真ん中に、尖塔の先だけが、ほんの少し、水から突き出していた。
誰も、口をきかなかった。
風が、潮司庁の旗を鳴らしていた。
わたしたちが見ている前で、水が、尖塔の先を越えた。
小さな白い波が、一つ、立った。
それで、終わりだった。
都は、また沈んだ。
王は、立たなかった。
◇
群臣の列の中から、ざわめきが起きた。
潮司庁の役人たちが、互いの顔を見合わせていた。誰かが、大潮司さまの名を呼んだ。誰かが、第一王子の名を。
列の真ん中が、割れた。
父上だった。
仮王。わたしの父。
灰色の髭を短く刈った、背の丸い人だった。王の衣を着ていたけれど、衣の方が、少し大きく見えた。この七日のあいだ、崖の上の天幕で、ずっと待っていたのだと聞いた。
父上は、崖の縁まで歩いて、淵を見下ろした。
長いこと、そうしていた。
「......わしは、仮の者だった」
父上は、誰にともなく言った。
大きな声ではなかった。けれど、崖の上は静かで、その声は、民の列の後ろまで届いた。
「三十年、仮のまま、王の衣を着ておった。いつか真の王がお立ちになる、その日までと思って。......お立ちにならなかったな」
父上は、衣の襟に指をかけて、首のところを少し緩めた。
首が絞まる、とイサナが言ったときと、同じ仕草だった。
「わしは、退く。仮の者が、仮のまま続けても、何も決まらん」
群臣が、どよめいた。
父上は、それには答えずに、わたしの方を振り向いた。
「ミオ。お前が持っているものを、皆に見せてやりなさい。......カイリから聞いた」
◇
カイリ兄さまが、わたしの前に、外套でくるんだ包みを置いた。
ほどくと、油紙の包みが出てきた。一滴も、濡れていなかった。
二十三人分の、潮記。
全部、わたしの字だった。
わたしは、崖の縁の、少し高くなった岩の上に立った。
群臣が見ていた。民が見ていた。使節が見ていた。大潮司さまが、毛布を肩にかけたまま、ユラ姉さまに支えられて、列の端から見ていた。
イサナは、いちばん後ろにいた。
民の列の、さらに後ろの、崖の上の草の中に。潮帳を、膝の上に開いて。
わたしは、一枚目を開いた。
「これは、潮司庁の証言録ではありません」
声が、崖の風に負けないように、腹から出した。
「旧い都ウナサカで、三百年前に溺れた人たちが、最後に何を見たか。四日目の夜、王宮の井戸の底から、潮読みイサナが読み、わたしが、見たとおりに書きました。考えたことは、一字も書いていません」
それから、読んだ。
◇
厨の女。坊やを探しながら、水が王宮の奥から来るのを見ていた。
衛兵の女房。堤の方から、石の落ちる音を数えていた。
「ひと月前に、触れ書きの下書きを書かされた。王宮の役人に言われて。海神の御怒りを鎮めんと、王は御身を捧げ給う。......都が沈む、ひと月前に」
年寄りの書記。
一枚読むごとに、崖の上が、静かになっていった。
風の音しか、しなくなった。
庭師。
それから、石工の見習い。堤の番の衛兵。厨の坊や。
二十三人目を読み終えて、わたしは、紙の束を下ろした。
誰も、何も言わなかった。
民の列の前の方で、年寄りの漁師が一人、帽子を脱いで、胸に当てていた。
「......うちの爺さまから聞いた話とは、違う」
漁師が、呟いた。
それから、帽子を胸に当てたまま、淵の方を向いた。
陸の国の使節が、高い襟の中で、手帳に何かを書きつけていた。
◇
大潮司さまが、ユラ姉さまの腕を離れて、前に出た。
毛布が、肩から落ちた。灰色の衣に、潮の白い染みが残っていた。
群臣が、道を開けた。
大潮司さまは、わたしの立つ岩の下まで来て、止まった。わたしを見上げた。小柄な人だった。
「摂政の職を、お返しいたします」
穏やかな声だった。
宴の夜と、同じ声。広間の隅々まで届いた、あの声。
「潮司庁の長も、退きます。あのお方がお還りにならない国に、わたくしの知恵は、もう役に立ちません」
大潮司さまは、目尻に皺を寄せた。
笑ったのではなかった。
「ミオ。国が割れたら、あなたの責任です」
「はい」
わたしは、答えた。
それ以外の答えを、持っていなかった。
大潮司さまは、しばらくわたしを見ていた。
それから、深く頭を下げた。摂政が、泳げぬ姫に。
「......潮試しの日、あなたに尋ねられたことがありましたね。水はどこから来るのか、と」
頭を下げたまま、大潮司さまは言った。
「今も、わたくしには、答えられません。......あなたが、いつか答えてください」
◇
「それで」
群臣の列から、年かさの臣が声を上げた。
「王は、誰が立つのです。真王は立たず、仮王は退かれた。この国は、明日から誰が」
「俺は、降りた」
カイリ兄さまが言った。
端的に。いつものように。
「降りた者が推すのもおかしな話だが、俺は、ミオを推す。......あいつは、玉座の前で、断った。俺には、それができなかった。トモにやらせた」
ユラ姉さまが、兄さまの隣に進み出た。
淡い水色の衣の裾が、崖の上の草を擦った。
「わたくしは、ずっと、誰かの影であろうとしてまいりました」
姉さまは、胸の前で指を組まなかった。
両手を、体の横に下ろしていた。
「影は、日向を選べません。......けれど、ミオに、影ではないと言われました。ですから、今日は、わたくしが自分で選びます。ミオを」
最後に、群臣の列の端で、潮の染みた上衣の男が、面倒くさそうに手を挙げた。
ハヤテ兄さまだった。
「千尋屋は、蔵が空になった」
兄さまは、指輪の光る手で、頭を搔いた。
「潮瓶は、もう作れない。商会は、一から商いをやり直す。そのためには、話の通じる相手が玉座にいてくれないと困る。......勘定を、払わせた方がつけるって言う姫さんだ。商人としちゃ、悪くない取引相手だよ」
兄さまは、わたしを見上げて、にやりと笑った。
「泳げなくても、あの水で沈まなかったんだろ。なら、この先も沈みゃしないさ」
◇
年かさの臣が、口を開けたまま、わたしを見た。
群臣が、わたしを見た。崖の縁までひしめいた民が、わたしを見た。
わたしは、岩の上に立っていた。
膝は、笑っていなかった。
「第七王女ミオ」
わたしは、名乗った。
あの夕方、崖の上で、頭巾を下ろして名乗ったときと、同じように。
あのとき、それを聞いた人は、もう覚えていないけれど。
「仮王として、この国を、お引き受けします」
真王、とは言わなかった。
わたしは、始祖王さまの加護を持っていない。持っているのは、泳げない体と、擦り切れた帳面と、二十三人分の潮記だけだった。
崖の上で、誰かが手を叩いた。
一人。それから、民の列のあちこちで。拍手は、大きくはならなかった。けれど、途切れもしなかった。
◇
岩から下りると、イサナが、草の上から立ち上がったところだった。
潮帳を閉じて、懐にしまっていた。
「何を書いてたの」
「見たとおりのことだ」
イサナは、崖の下の、何もない青い水面を見た。
「七日目。王は立たなかった。......それから、あんたが立った」
わたしは、自分の帳面を開いた。
彼の一行を、写した。見たとおりに。
写し終えて、顔を上げると、イサナが、わたしを見ていた。
半分だけ覚えている人を見る目で。
「で、仮王様」
イサナは言った。皮肉の混じった、いつもの声で。
「最初の仕事は、何だ」
わたしは、帳面を閉じた。
崖の上の、潮司庁の建物の方を見た。その奥に、奥院がある。三年前から、書く人のいない人が住んでいるところ。
「奥院へ行くわ」
わたしは言った。
「姉さまに、会いに」