第27話 仮王の最初の仕事
潮帳――十の年より前のことを、失くした。
奥院の鍵は、大潮司さまが自分で持ってきた。
崖の上の天幕の前で、毛布を肩にかけたまま、鉄の輪に通した鍵の束を、わたしの手のひらに載せた。
何も言わなかった。
鍵は、冷たくて、思っていたより軽かった。
潮司庁の建物の、いちばん奥。
長い回廊の突き当たりに、黒い扉があった。神官が一人、提灯を持って先を歩いた。イサナは、わたしの半歩うしろにいた。
扉を開けると、匂いがした。
潮の匂いではなかった。乾いた布と、線香と、よく掃除された板の間の匂い。
◇
奥院は、静かだった。
廊下の両側に、小さな部屋が並んでいた。どの部屋も、戸が半分開いていて、中に人が一人ずつ座っていた。
白い衣を着た人たちだった。
年寄りもいた。若い人もいた。王族の顔立ちをした人が、何人も。
誰も、わたしたちの方を見なかった。
窓の方を向いて、膝の上に手を置いて、座っていた。一人は、同じ手つきで、何度も何度も衣の袖を撫でていた。一人は、口の中で何かを数えていた。一、二、三、と。四の前で、また一に戻った。
白潮院とは、違った。
白潮院の人たちは、あんた誰だい、と聞いてきた。杏は、と聞いてきた。干物が臭いと文句を言った。
ここの人たちは、何も聞かなかった。
「......空蝉」
イサナが、低く呟いた。
わたしは、答えなかった。
◇
サヨ姉さまの部屋は、廊下のいちばん奥だった。
神官が戸を開けて、一礼して下がった。
部屋の中は、小ぎれいに片づいていた。小さな文机。その上に、硯と筆と、何も書かれていない紙。窓の外に、淵が見えた。満ちきって、何もなかったように青かった。
姉さまは、窓の前に座っていた。
二十三になっているはずだった。三年前と、同じ顔だった。少しだけ痩せて、少しだけ白くなっていた。
髪は、ほどかれたまま、背中に流れていた。
「姉さま」
わたしは、部屋に入った。
姉さまは、窓の外を見ていた。
「サヨ姉さま。ミオです」
姉さまの前に、膝をついた。
姉さまの目が、わたしの方へ動いた。
動いて、通り過ぎた。
わたしの顔の上に、止まらなかった。わたしの後ろの壁を、壁の向こうを見ているようだった。
わたしは、姉さまの手を取った。
冷たくはなかった。温かくもなかった。
姉さまの手が、わたしの手から、するりと抜けた。
払いのけたのではなかった。水が指の間から抜けるように。それから、また膝の上に戻った。
◇
イサナは、戸口に立っていた。
中へは、入ってこなかった。
わたしは、長いこと、姉さまの前に座っていた。
姉さまは、窓の外を見ていた。一度も、わたしを見なかった。
泣かないこと。泳げなくても、あなたは溺れない子だから。
あの手紙を書いた人は、ここにいなかった。
ここにいるのは、その人の体だった。
わたしは、文机の上の櫛を取った。
姉さまの背中に回って、髪を梳いた。上から下へ。ゆっくりと。
姉さまは、されるままになっていた。
嫌がりもしなかった。喜びもしなかった。
梳き終えて、髪を分けた。
七つに。
一本ずつ、編んだ。王家の娘だけが結う、七つ編み。六つの年から、侍女に毎朝編ませていた髪を、祭りの四日目の夜、わたしは初めて自分の手で編んだ。今は、姉さまの髪を、編んでいた。
指が、少しも迷わなかった。
編み終えて、紐で結んだ。
姉さまは、窓の外を見ていた。
「明日も来るわ」
わたしは言った。
姉さまは、答えなかった。
「明日も、明後日も。髪を編みに来る。......姉さまが、わたしを分からなくても」
戸口で、イサナが、わたしを見ていた。
何も言わなかった。
◇
仮王の最初の布告は、その三日後に出た。
一つ。潮送りを、廃する。祭りのあとも、二十になった王女にも、今後いっさい行わない。
一つ。奥院にいる者は、国が養う。家族の訪いを許す。
一つ。潮読み一人が一日に読む量に、上限を定める。
一つ。潮読みの繰り上げ登録と、養い所への借りの肩代わりによる売り買いを、禁ずる。継ぎ読みを、禁ずる。
一つ。白潮院の費えは、国が持つ。
書いたのは、わたしだった。
王宮の文房で、いちばん上等な紙に。祭りの前に、自分の帳面を綴じたのと同じ紙に。
布告は、潮見の港にも、島々にも、読み上げられた。
それから、国が揺れた。
◇
淵の潮は、薄くなっていた。
満ち潮と引き潮のたびに、外の海が瓶口の崩れた堰を越えて、淵の水を入れ替えていった。潮読みたちが淵の水を舐めて、首を振った。ただの海だ、と。
潮瓶は、もう作れなかった。
千尋屋の蔵は、空のままだった。ハヤテ兄さまは、商会の番頭たちと、毎晩のように王宮へ来て、わたしの前で帳面を広げた。潮瓶の口銭で食べていた港の網元たち。潮瓶の運び手。潮瓶の格付けで食べていた潮司庁の役人。
「勘定は、払わせた方がつけるんだろ、姫さん」
ハヤテ兄さまは、帳面の数字を指で叩いた。
「ほら。これが、払わせた分だ」
わたしは、その数字を、自分の帳面に写した。
一つ残らず。
北の島が、潮司庁の役人を追い返した。
南の島が、港の税を納めないと言ってきた。
陸の国の使節は、手帳を閉じて、船で帰っていった。潮瓶のない国には、もう用がないとでも言うように。
国が割れたら、あなたの責任です。
夜、文房で一人になると、その声が聞こえた。
わたしは、はい、と答えた。声に出して。誰もいない文房で。
◇
最初の布告から、十日が過ぎた日だった。
わたしは、二つ目の布告を出した。
短い布告だった。
潮司庁の封は、仮王の名をもって開く。
潮司庁の名簿には、封がかかった記録が、何百とあった。
潮読みの。白潮の。養い所の子どもたちの。
わたしが王になれば、あなたの封を開けられる。祭りの前、わたしはそう言った。浜木綿で。四つに折った名簿の写しを、イサナの前に置いて。
王は、もう立たない。
だから、仮王が開ける。
◇
潮司庁の書庫の奥に、封の棚があった。
書庫番の老人は、わたしの布告を三度読み直してから、黙って棚の鍵を開けた。
イサナの記録は、すぐに見つかった。
紙の綴りの、端の一冊。表紙に、朱の封印が押してあった。
わたしは、それをイサナに渡した。
「あなたが開けて」
イサナは、綴りを受け取った。
朱の封印を、指でなぞった。一度。二度。浜木綿で、名簿の写しの朱の線をなぞったのと、同じ手つきだった。彼は、あの晩のことを、もう覚えていないけれど。
封を、切った。
表紙をめくった。
一頁目に、名前があった。
イサナ。生年不詳。
十歳、鏡の淵にて保護。記憶欠落。封。
名簿の写しと、同じだった。
その下に、一行だけ、別の字で書き足してあった。
記憶欠落。監視を続ける。
イサナは、頁をめくった。
二頁目は、白かった。
三頁目も。四頁目も。綴りの最後まで、白かった。
◇
書庫の窓から、午後の光が斜めに差していた。
埃が、その中でゆっくりと回っていた。祭りの前、王家の書庫で、同じ光を見た気がした。
イサナは、綴りを閉じた。
「......空だな」
わたしは、何も言えなかった。
十の年に、何があったのか。母親のことも、養い所のことも、ナズナのことも。封の先には、何もなかった。
あるのは、見張っていろ、という一行だけだった。
封が守っていたのは、彼の過去ではなかった。彼が、それを思い出さないことだった。
「わたしを王にしなさい」
口が、勝手に動いていた。
「代わりに、あなたが失くしたものを返してあげる。......わたし、そう言ったのよ。あなたは、もう覚えてないけど」
「聞いた。屋根の上で」
イサナは、綴りを書庫番の老人に返した。
「王は立たなかった。封の中身は、空だった。......あんたは、何ひとつ、約束を守れてねえな」
わたしは、唇を噛んだ。
イサナは、懐から潮帳を出した。
油紙を解いて、最初の頁を開いた。
家族を思い出そうとするな。
十の彼の、震えた字。
その次の頁から、彼の喪失が、何十行も続いていた。嵐の夜。屋台の朝。港の路地。浜木綿の晩。ミオと初めて会った日。
「けど、返ってきたもんは、ある」
イサナは、潮帳をめくった。
頁の途中で、指が止まった。
チグサ。杏が好き。夕方の潮溜まりが好き。尻尾をやっている。
わたしが、一度も写したことのない一行だった。失くしたものでは、なかったから。
「封の中には、なかった。......あんたと淵に降りたら、崖の上にあった」
イサナは、潮帳を閉じた。
「差し引きで、損はしてねえよ。たぶんな」
◇
書庫を出ると、回廊の窓の向こうに、淵が見えた。
満ち潮だった。青い水が、崖の下まで来ていた。
遠月は、祭りの夜より、ひとまわり小さくなっていた。
これから百年かけて、遠ざかっていく。
「明日、白潮院に行く」
イサナが言った。
「干物の配達だ。......杏を、倍、買っとかなきゃならねえ」
「倍?」
「あの人に言われた。崖の途中の段で。新しい坊やの分もだ、と」
わたしは、自分の帳面を開いた。
白い頁に、一行書いた。
明日、白潮院。杏を倍。
書いてから、少し考えて、もう一行足した。
わたしも行く。