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第28話 杏と潮帳

潮帳しおちょう――嵐の夜のことを、失くした。見習い小屋の屋根。

 崖の道は、背負い籠を担いだ者のために、段が低く刻んであった。
 イサナの籠には、干した鯖と鯵と鰯が、藁で束ねて詰めこまれていた。わたしの手には、布袋が二つ。干し杏が、二十粒ずつ入っていた。

「仮王かりおうが、干物屋の荷運びか」
「見習いよ。えらく細い見習い」
「誰が言った、それ」
「世話役さん。......あなたは、覚えてないでしょうけど」

 イサナは、振り返らなかった。
 籠の紐を肩にかけ直して、少しだけ足を緩めた。わたしが追いつける速さに。

 崖の下の淵は、秋の色をしていた。
 祭りから、半月が過ぎていた。朝晩の風が、冷たくなっていた。昼の空の端に、遠月とおづきが、薄い貝殻のように白く浮かんでいた。祭りの夜より、また少し小さかった。


◇


 白潮院しらしおいんの門をくぐると、世話役の男が出てきて、籠を受け取った。
 代金の銅貨を数えながら、男はわたしの方を見た。頭巾は、かぶっていなかった。七つ編みを、一本にまとめて背中に垂らしていた。

「......仮王様が、何の用で」
「荷運びの見習いです」

 男は、しばらくわたしを見ていた。
 それから、鼻で笑って、銅貨を数えるのに戻った。

「布告は、読んだよ。院の費えを国が持つってやつ。......干物代が払えなくなる心配だけは、しなくて済みそうだ」

 板張りの広い部屋に、人がいた。
 前に来たときより、少し多かった。

 縁側で、日なたぼっこをしている老人がいた。
 イサナが通りかかると、老人は顔を上げた。

「あんた、誰だい」
「イサナ。干物を届けに来た」
「そうかい。ご苦労さん」

 その隣に、もう一人、白い頭の老人が座っていた。
 背中が丸く、盃を持つような形に指を曲げて、膝の上に置いていた。

「あんた、誰だい」

 トモだった。
 イサナは、少しも声の調子を変えなかった。

「イサナ。干物屋だ」
「そうかい。ご苦労さん。......いい顔してんな、若えの」

 トモの向こうに、背の高い人が、胡座をかいて座っていた。
 カイリ兄さまだった。刀は、差していなかった。

「三日に一度、来ている」

 兄さまは、わたしに言った。

「名前を呼びに。......覚えてはいないが、呼ぶと、少し笑う」

 兄さまは、トモの方を向いた。

「トモ」

 トモは、兄さまを見た。
 誰なのか分からない顔で、それでも、口の端が、少しだけ持ち上がった。

「ああ。いい名前だ」


◇


「あら、干物の子」

 奥の間から、よく通る声がした。
 女の人が、裾をからげて歩いてきた。日に焼けた丸い顔。真っ白な髪。若い娘のように弾む声。

「また来たのね」

 イサナの足が、一瞬だけ止まった。
 わたしにだけ、分かるくらいに。

「今日も臭いわねえ。あんた、魚の匂いしかしないんだから。杏は?」
「ある」

 イサナは、わたしの手から布袋を一つ取って、差し出した。
 女の人は、それをひったくるように受け取って、中を覗いた。

「あら。倍ある」
「倍って言われた」
「誰に?」
「......あんたに」

 女の人は、きょとんとした顔をした。
 それから、声を立てて笑った。

「言いそうねえ、あたし」

 女の人は、杏を一粒つまんで、口に放りこんだ。
 頬が、片方だけふくらんだ。

 その後ろから、小さな白い頭が、ひょいと覗いた。
 十二か十三の、男の子だった。

 コチだった。
 女の人の袖を引いて、手のひらを上にして差し出していた。

「はいはい。坊やにもね」

 女の人が、杏を一粒、コチの手のひらに載せた。
 コチは、それを口に入れて、ゆっくりと噛んだ。それから、また手を出した。

 イサナが、懐から、干した鯵を一尾出した。
 頭から齧った。骨ごと噛む音がした。
 残りを、コチの手に押しつけた。

 コチは、それを当たり前のように受け取って、尻尾まで食べた。


◇


 院の裏手から、崖の外側の磯へ下りる段が刻まれていた。
 その途中の、岩をくり抜いた潮溜まりの縁に、ナズナが座っていた。

 膝の上に、帳面を開いていた。
 最初の頁。細くて、まっすぐな字。ナズナ。
 その横に、紙の舟が、いくつも並んでいた。潮溜まりの水の上にも、二つ、三つ、浮かんでいた。

「ナズナ」

 わたしが呼ぶと、ナズナは顔を上げた。
 灰色の目が、わたしを見た。止まらずに、通り過ぎた。

 それから、帳面に目を落とした。
 最初の頁の字を、指でなぞった。

「......ナズナ。私の、名前」

 平らな声だった。
 毎朝、そうしているのだと、世話役の男が言っていた。起きると、まず帳面を開いて、自分の名前を読む。それから、舟を折る。

 イサナが、潮溜まりの縁にしゃがんだ。
 ナズナの足元の砂を、指でならした。
 一画ずつ、書いた。

 ナ。ズ。ナ。

 ナズナは、砂の上の三文字と、帳面の三文字を、見比べた。
 それから、紙の舟を一つ、イサナの手のひらに載せた。

 何も言わなかった。
 イサナも、何も言わなかった。


◇


 日が、傾いてきた。
 崖の外側は、外の海だった。水平線の上に、太陽が、ゆっくりと下りていった。

 女の人が、段を下りてきた。
 裾をからげたまま、潮溜まりの中へ入っていった。

 入っていって、そのまま、仰向けに倒れた。
 水しぶきは、ほとんど立たなかった。

 女の人は、水の上に寝ていた。
 両腕を広げて、足先を少しだけ水面に出して、空を見ていた。白い髪が、水の中で、海草のように広がっていた。

 潮溜まりの水が、橙色だった。
 夕日が、水面を、全部、橙色に染めていた。女の人も、橙色だった。杏みたいに。

 わたしは、潮溜まりの縁に膝をついた。

「あの」

 女の人が、目だけでこちらを見た。

「前に、ここで、浮き方を教えていただきました」
「あたしが?」
「息を吸って、海に任せるの、って」

 女の人は、水の上で、首を傾げた。

「覚えてないわねえ」
「その浮き方で、助かりました。......溺れるところだったんです。大きな水の中で」

 女の人は、しばらくわたしを見ていた。
 それから、水の上で、にっこりと笑った。

「そう。よかったわね」

 それだけだった。
 それだけで、十分だった。

「あんたも、入んなさいよ。夕方がいちばんいいのよ。自分も、橙色になった気がするの」


◇


 わたしは、潮溜まりに入った。
 一歩。二歩。三歩。水が、胸の下まで来た。
 日に温められて、ぬるかった。

 息を、吸った。
 背中を、倒した。

 耳が、水に浸かった。
 世界の音が、ふっと遠くなった。こぽ、こぽ、と自分の鼓動だけが聞こえた。

 背中の下で、水が、わたしを押し上げていた。
 わたしの手は、わたしの手のままだった。

 空が見えた。
 橙色の空の端に、遠月が、白く小さく浮かんでいた。

 隣で、女の人が、水の上に寝ていた。
 二人で、橙色になっていた。

 わたしは、数えなかった。


◇


 潮溜まりから上がると、イサナが、縁の石に座っていた。
 膝の上に、潮帳を開いていた。

 最初の頁ではなかった。
 いちばん新しい頁。まだ何も書かれていない、白い頁だった。

「見てた?」
「見てた」

 イサナは、筆を持っていた。
 筆の先が、白い頁の上で、止まっていた。

「何を書くの」
「分からねえ」

 イサナは言った。

「この帳面には、失くしたもんばっかり書いてきた。十の年から、ずっと。......今日は、何も失くしてねえ」

 わたしは、濡れた髪から水を絞りながら、彼の隣に座った。

「門楼の夜に、わたし、言ったでしょう」
「覚えてる」

 イサナは、すぐに答えた。

「あんたが失くしたことさえ忘れたとき、わたしが読んで聞かせる、だろ」
「だったら、失くす前のものも、書いておきましょう」

 わたしは、自分の帳面を膝に置いた。
 表紙の角が擦り切れて、頁が水を吸って波打っていた。最初の頁に、契約の写し。その次から、何十行もの、彼の喪失。

「いつか、あなたがこれを失くしたら。わたしが、読んで聞かせるから」

 イサナは、しばらく、わたしを見ていた。
 半分だけ覚えている人を見る目で。

 それから、白い頁に、筆を置いた。

 白潮院の潮溜まりで、

 そこで、筆が止まった。
 イサナは、筆をわたしに差し出した。

 わたしは、受け取った。
 彼の字の続きに、わたしの字で、書いた。

 ミオが浮いた。数えるのを、やめた。


◇


 イサナは、その一行を、長いこと見ていた。
 彼の字と、わたしの字が、一行の中で、つながっていた。

「......前にも、こんな一行があったな」
「あったわ」

 白潮院の潮溜まりで、あんたが四つ浮いた日を、失くした。
 大干おおひの二日目の夜に、わたしが書いて、干底ひぞこの井戸の縁で、彼が書き直した一行。

「今度のは、失くしたもんじゃねえ」
「そうよ」

 わたしは、自分の帳面を開いた。
 彼の喪失の、最後の行の下に、今の一行を写した。

 失くしたものを写すための帳面に、初めて、二人の字でできた一行を写した。


◇


 段の上から、女の人の声がした。

「あんたたち、晩ご飯、食べてくの? 干物しかないけど」

 イサナが、振り返った。

「干物は、嫌いなんじゃなかったのか」
「嫌いよ。でも、あんたが持ってきたんでしょう」

 女の人は、段の途中で立ち止まった。
 濡れた白い髪を、手ぬぐいで拭きながら。

「あんた、名前、なんだっけ」

 イサナは、見上げていた。

「イサナ。干物屋だ」
「イサナ。......たぶん、また忘れるわね。ごめんなさいね」
「いい」

 イサナは言った。

「また言う。何度でも」

 女の人は、ひらひらと手を振って、段を上がっていった。
 コチが、その袖を引いて、ついていった。

 イサナは、潮帳を閉じた。
 油紙で包んで、懐にしまった。紙の舟が一つ、潮帳と一緒に、そこにあった。

 崖の外の海に、日が沈んでいった。
 潮溜まりの水の上で、ナズナの紙の舟が、橙色に光っていた。

「行くぞ」

 イサナが、立ち上がった。
 振り返って、わたしに手を差し出した。

 わたしは、その手を取った。
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【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
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第28話 杏と潮帳

潮帳しおちょう――嵐の夜のことを、失くした。見習い小屋の屋根。

 崖の道は、背負い籠を担いだ者のために、段が低く刻んであった。
 イサナの籠には、干した鯖と鯵と鰯が、藁で束ねて詰めこまれていた。わたしの手には、布袋が二つ。干し杏が、二十粒ずつ入っていた。

「仮王かりおうが、干物屋の荷運びか」
「見習いよ。えらく細い見習い」
「誰が言った、それ」
「世話役さん。......あなたは、覚えてないでしょうけど」

 イサナは、振り返らなかった。
 籠の紐を肩にかけ直して、少しだけ足を緩めた。わたしが追いつける速さに。

 崖の下の淵は、秋の色をしていた。
 祭りから、半月が過ぎていた。朝晩の風が、冷たくなっていた。昼の空の端に、遠月とおづきが、薄い貝殻のように白く浮かんでいた。祭りの夜より、また少し小さかった。


◇


 白潮院しらしおいんの門をくぐると、世話役の男が出てきて、籠を受け取った。
 代金の銅貨を数えながら、男はわたしの方を見た。頭巾は、かぶっていなかった。七つ編みを、一本にまとめて背中に垂らしていた。

「......仮王様が、何の用で」
「荷運びの見習いです」

 男は、しばらくわたしを見ていた。
 それから、鼻で笑って、銅貨を数えるのに戻った。

「布告は、読んだよ。院の費えを国が持つってやつ。......干物代が払えなくなる心配だけは、しなくて済みそうだ」

 板張りの広い部屋に、人がいた。
 前に来たときより、少し多かった。

 縁側で、日なたぼっこをしている老人がいた。
 イサナが通りかかると、老人は顔を上げた。

「あんた、誰だい」
「イサナ。干物を届けに来た」
「そうかい。ご苦労さん」

 その隣に、もう一人、白い頭の老人が座っていた。
 背中が丸く、盃を持つような形に指を曲げて、膝の上に置いていた。

「あんた、誰だい」

 トモだった。
 イサナは、少しも声の調子を変えなかった。

「イサナ。干物屋だ」
「そうかい。ご苦労さん。......いい顔してんな、若えの」

 トモの向こうに、背の高い人が、胡座をかいて座っていた。
 カイリ兄さまだった。刀は、差していなかった。

「三日に一度、来ている」

 兄さまは、わたしに言った。

「名前を呼びに。......覚えてはいないが、呼ぶと、少し笑う」

 兄さまは、トモの方を向いた。

「トモ」

 トモは、兄さまを見た。
 誰なのか分からない顔で、それでも、口の端が、少しだけ持ち上がった。

「ああ。いい名前だ」


◇


「あら、干物の子」

 奥の間から、よく通る声がした。
 女の人が、裾をからげて歩いてきた。日に焼けた丸い顔。真っ白な髪。若い娘のように弾む声。

「また来たのね」

 イサナの足が、一瞬だけ止まった。
 わたしにだけ、分かるくらいに。

「今日も臭いわねえ。あんた、魚の匂いしかしないんだから。杏は?」
「ある」

 イサナは、わたしの手から布袋を一つ取って、差し出した。
 女の人は、それをひったくるように受け取って、中を覗いた。

「あら。倍ある」
「倍って言われた」
「誰に?」
「......あんたに」

 女の人は、きょとんとした顔をした。
 それから、声を立てて笑った。

「言いそうねえ、あたし」

 女の人は、杏を一粒つまんで、口に放りこんだ。
 頬が、片方だけふくらんだ。

 その後ろから、小さな白い頭が、ひょいと覗いた。
 十二か十三の、男の子だった。

 コチだった。
 女の人の袖を引いて、手のひらを上にして差し出していた。

「はいはい。坊やにもね」

 女の人が、杏を一粒、コチの手のひらに載せた。
 コチは、それを口に入れて、ゆっくりと噛んだ。それから、また手を出した。

 イサナが、懐から、干した鯵を一尾出した。
 頭から齧った。骨ごと噛む音がした。
 残りを、コチの手に押しつけた。

 コチは、それを当たり前のように受け取って、尻尾まで食べた。


◇


 院の裏手から、崖の外側の磯へ下りる段が刻まれていた。
 その途中の、岩をくり抜いた潮溜まりの縁に、ナズナが座っていた。

 膝の上に、帳面を開いていた。
 最初の頁。細くて、まっすぐな字。ナズナ。
 その横に、紙の舟が、いくつも並んでいた。潮溜まりの水の上にも、二つ、三つ、浮かんでいた。

「ナズナ」

 わたしが呼ぶと、ナズナは顔を上げた。
 灰色の目が、わたしを見た。止まらずに、通り過ぎた。

 それから、帳面に目を落とした。
 最初の頁の字を、指でなぞった。

「......ナズナ。私の、名前」

 平らな声だった。
 毎朝、そうしているのだと、世話役の男が言っていた。起きると、まず帳面を開いて、自分の名前を読む。それから、舟を折る。

 イサナが、潮溜まりの縁にしゃがんだ。
 ナズナの足元の砂を、指でならした。
 一画ずつ、書いた。

 ナ。ズ。ナ。

 ナズナは、砂の上の三文字と、帳面の三文字を、見比べた。
 それから、紙の舟を一つ、イサナの手のひらに載せた。

 何も言わなかった。
 イサナも、何も言わなかった。


◇


 日が、傾いてきた。
 崖の外側は、外の海だった。水平線の上に、太陽が、ゆっくりと下りていった。

 女の人が、段を下りてきた。
 裾をからげたまま、潮溜まりの中へ入っていった。

 入っていって、そのまま、仰向けに倒れた。
 水しぶきは、ほとんど立たなかった。

 女の人は、水の上に寝ていた。
 両腕を広げて、足先を少しだけ水面に出して、空を見ていた。白い髪が、水の中で、海草のように広がっていた。

 潮溜まりの水が、橙色だった。
 夕日が、水面を、全部、橙色に染めていた。女の人も、橙色だった。杏みたいに。

 わたしは、潮溜まりの縁に膝をついた。

「あの」

 女の人が、目だけでこちらを見た。

「前に、ここで、浮き方を教えていただきました」
「あたしが?」
「息を吸って、海に任せるの、って」

 女の人は、水の上で、首を傾げた。

「覚えてないわねえ」
「その浮き方で、助かりました。......溺れるところだったんです。大きな水の中で」

 女の人は、しばらくわたしを見ていた。
 それから、水の上で、にっこりと笑った。

「そう。よかったわね」

 それだけだった。
 それだけで、十分だった。

「あんたも、入んなさいよ。夕方がいちばんいいのよ。自分も、橙色になった気がするの」


◇


 わたしは、潮溜まりに入った。
 一歩。二歩。三歩。水が、胸の下まで来た。
 日に温められて、ぬるかった。

 息を、吸った。
 背中を、倒した。

 耳が、水に浸かった。
 世界の音が、ふっと遠くなった。こぽ、こぽ、と自分の鼓動だけが聞こえた。

 背中の下で、水が、わたしを押し上げていた。
 わたしの手は、わたしの手のままだった。

 空が見えた。
 橙色の空の端に、遠月が、白く小さく浮かんでいた。

 隣で、女の人が、水の上に寝ていた。
 二人で、橙色になっていた。

 わたしは、数えなかった。


◇


 潮溜まりから上がると、イサナが、縁の石に座っていた。
 膝の上に、潮帳を開いていた。

 最初の頁ではなかった。
 いちばん新しい頁。まだ何も書かれていない、白い頁だった。

「見てた?」
「見てた」

 イサナは、筆を持っていた。
 筆の先が、白い頁の上で、止まっていた。

「何を書くの」
「分からねえ」

 イサナは言った。

「この帳面には、失くしたもんばっかり書いてきた。十の年から、ずっと。......今日は、何も失くしてねえ」

 わたしは、濡れた髪から水を絞りながら、彼の隣に座った。

「門楼の夜に、わたし、言ったでしょう」
「覚えてる」

 イサナは、すぐに答えた。

「あんたが失くしたことさえ忘れたとき、わたしが読んで聞かせる、だろ」
「だったら、失くす前のものも、書いておきましょう」

 わたしは、自分の帳面を膝に置いた。
 表紙の角が擦り切れて、頁が水を吸って波打っていた。最初の頁に、契約の写し。その次から、何十行もの、彼の喪失。

「いつか、あなたがこれを失くしたら。わたしが、読んで聞かせるから」

 イサナは、しばらく、わたしを見ていた。
 半分だけ覚えている人を見る目で。

 それから、白い頁に、筆を置いた。

 白潮院の潮溜まりで、

 そこで、筆が止まった。
 イサナは、筆をわたしに差し出した。

 わたしは、受け取った。
 彼の字の続きに、わたしの字で、書いた。

 ミオが浮いた。数えるのを、やめた。


◇


 イサナは、その一行を、長いこと見ていた。
 彼の字と、わたしの字が、一行の中で、つながっていた。

「......前にも、こんな一行があったな」
「あったわ」

 白潮院の潮溜まりで、あんたが四つ浮いた日を、失くした。
 大干おおひの二日目の夜に、わたしが書いて、干底ひぞこの井戸の縁で、彼が書き直した一行。

「今度のは、失くしたもんじゃねえ」
「そうよ」

 わたしは、自分の帳面を開いた。
 彼の喪失の、最後の行の下に、今の一行を写した。

 失くしたものを写すための帳面に、初めて、二人の字でできた一行を写した。


◇


 段の上から、女の人の声がした。

「あんたたち、晩ご飯、食べてくの? 干物しかないけど」

 イサナが、振り返った。

「干物は、嫌いなんじゃなかったのか」
「嫌いよ。でも、あんたが持ってきたんでしょう」

 女の人は、段の途中で立ち止まった。
 濡れた白い髪を、手ぬぐいで拭きながら。

「あんた、名前、なんだっけ」

 イサナは、見上げていた。

「イサナ。干物屋だ」
「イサナ。......たぶん、また忘れるわね。ごめんなさいね」
「いい」

 イサナは言った。

「また言う。何度でも」

 女の人は、ひらひらと手を振って、段を上がっていった。
 コチが、その袖を引いて、ついていった。

 イサナは、潮帳を閉じた。
 油紙で包んで、懐にしまった。紙の舟が一つ、潮帳と一緒に、そこにあった。

 崖の外の海に、日が沈んでいった。
 潮溜まりの水の上で、ナズナの紙の舟が、橙色に光っていた。

「行くぞ」

 イサナが、立ち上がった。
 振り返って、わたしに手を差し出した。

 わたしは、その手を取った。
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