第22話 瓶口の堰
潮帳――読むかどうかは、俺が決める。
石の道は、崖の切れ目の手前で終わっていた。
そこから先は、岩を削った段が、下へ続いていた。段の下に、瓶口があった。
崖と崖のあいだの、細い水道だった。
幅は、港の防波堤ほどもなかった。両側の崖が、夜明け前の空に黒くそそり立って、上の方で互いに寄りかかるように迫っていた。
その水道を、横に切って、石の壁が立っていた。
堰だった。
一つ一つが牛ほどもある石を、隙間なく組み上げた壁。三百年の海に磨かれて、表面は黒く濡れ光っていた。高さは、大人の背丈の三倍ほど。上は、人が二人並んで歩けるほどの幅の、平らな石の道になっていた。
堰の向こう側、外の海の側で、波が砕けていた。
白い飛沫が、堰の上まで跳ね上がっていた。満ち始めの外の海が、戸を叩いていた。どん。どん。一つ打つたびに、足の下の岩が震えた。
堰のこちら側は、干上がった泥だった。
四日かけて引いた淵の底が、堰の根もとまで続いていた。外の海と、淵の底と。堰を挟んで、水の高さが、家一軒ぶんも違っていた。
淵の底は、ここから北へ、ゆるく下っていた。いちばん深いところに王宮があり、玉座の淵がある。干底の日にも、あそこだけは水が残っていた。戸が開けば、外の海は、まずあそこへ落ちていく。
「......これを、止めてたのか」
カイリが、低く言った。
イサナは、答えなかった。
舌の奥が、痺れていた。崖を吹き下ろす風に、塩の破片が混じっていた。市場よりも、神殿区よりも、玉座の間よりも濃かった。舌に触れたとたんに、誰かの手首に縄が食いこむ感触が滲んで、消えた。
◇
段を下りきると、堰の根もとの泥の上に、人が立っていた。
一人ではなかった。
十。二十。三十。泥の上に、堰の上に、水でできた人の形が、びっしりと並んでいた。どれも、背を丸めていた。どれも、両手を後ろに回していた。手首のところで、水の縄が、形だけ結ばれていた。
顔のない顔が、一斉に、こちらを向いた。
「石工たちだ」
イサナは言った。
ハルが物見から見た列だった。松明の間を、一人ずつ、堰の縁から落とされていった人たち。
潮霊たちは、動かなかった。
こちらを向いたまま、堰の前に立ち並んでいた。守っているのか、待っているのか、分からなかった。
「来るのが、遅かったね」
声は、堰の上からした。
◇
堰の上の平らな石の道に、提灯が一つ揺れていた。
その下に、派手な上衣の男が、足を組んで座っていた。指輪が、灯りに光った。
ハヤテだった。
堰の外の海の側に、平底の小舟が一艘、岩に舫ってあった。舟の上で、頭巾の者が一人、膝を抱えていた。
「姫さんは?」
ハヤテが、提灯を少し持ち上げた。
「......ああ、いないのか。玉座の方か。なら、いよいよ満ち始めの儀ってわけだ。それで、君たちはこっちに来た。カイリ殿下まで連れて」
ハヤテは、立ち上がった。
足元の石を、靴の先で軽く叩いた。
「千尋屋じゃ、この堰を、何て呼んでるか知ってるかい」
誰も、答えなかった。
「蔵の戸、さ」
ハヤテは、笑った。いつもの、屈託のない笑いだった。
「三百年、千尋屋の蔵の戸だ。淵の潮が濃いのは、この戸が閉まってるから。濃い潮があるから、潮瓶が作れる。潮瓶を作るから、千尋屋がある。うちの爺さまの爺さまの代から、商会の帳場じゃ、そう教わる。......だから、儀の前の晩にいちばん危ないのは、玉座じゃない。蔵の戸だ。商人の勘だよ」
イサナは、腰の瓢箪に手をかけた。
「王が立とうが立つまいが、俺は知ったこっちゃない。カイリ殿下が降りたのも、聞いた。どうぞご勝手に」
ハヤテは、石の道の上を、ゆっくりと歩いた。
「でもね、舐め師くん。この戸が開いたら、淵の潮は薄まる。潮瓶は作れなくなる。潮瓶の金で回ってるものが、この国にどれだけあると思う? 港の網元。潮読みの日銭。白潮院の干物代。君が毎月届けてる、あの干物の代金も、元をたどれば、潮瓶の金だ」
ハヤテは、足を止めた。
「潮読みは消耗品だ、と俺は言ったね。今度は、国を消耗品にする気かい」
◇
イサナは、堰の上を見上げていた。
ハヤテの言っていることは、嘘ではなかった。港の網元の婆さまは、潮瓶の口銭で網を買い替えていた。潮読みの日銭の半分は、潮瓶の仕事だった。
白潮院の干物代も。
「......あんたの蔵の戸の向こうに、何が溶けてるか、知ってるか」
イサナは言った。
「この連中だ」
泥の上に並んだ、縛られた手の潮霊たちを、顎で示した。
「三百年、この戸の前に並ばされてる。戸を閉めた奴らに、口封じに沈められて。あんたの潮瓶の濃さは、こいつらの重さだ」
「知ってるさ」
ハヤテは、肩をすくめた。
「知ってて、売ってる。死んだ連中の記憶で、生きてる連中が飯を食う。それの何が悪い? 死んだ連中は、腹が減らない」
カイリが、一歩前に出た。
「降りてこい、ハヤテ」
カイリの声は、静かだった。
「祭りの七日、ここには王の法が届かない。お前が何を守ろうと、俺が何をしようと、罪にはならん。......俺が相手をする。イサナには、手を出すな」
「殿下と取っ組み合い? 冗談だろ」
ハヤテは、上衣の懐から、細い瓶を出した。
千尋屋の印の入った、真水の小瓶だった。北の塀の下で、ハヤテが指に挟んで振ってみせたのと同じもの。
「俺は、商人だ。腕っぷしじゃ勝てない。だから、商人のやり方でやる」
ハヤテは、小瓶の栓を抜いた。
それを、堰の上から、自分の足元の石の道に沿って、細く撒いた。
堰の上の、端から端まで。一本の線を引くように。
泥の上の潮霊たちが、揺れた。
堰の上に立っていた潮霊が、足元の真水に触れて、ほどけた。一つ。二つ。堰の上から、潮霊が消えた。
けれど、泥の上の潮霊たちは、残った。
堰の根もとに、びっしりと。イサナとカイリの前に。
「これで、堰の上は俺のものだ。そっちの下は、君たちのもの」
ハヤテは、空になった小瓶を、外の海へ放り投げた。
「潮霊に触られながら、戸を開けられるなら、どうぞ。何を持っていかれるかは、選べないけどね」
◇
イサナは、腰の瓢箪を外した。
振った。半分の水が、揺れた。
ミオが置いていった水だった。
二つ目の瓢箪。几帳面な字の札は、もうなかった。
「カイリ」
「なんだ」
「こいつで、道を一本だけ作る。堰の根もとまで。潮霊を左右に分ける。......あんたは、その道を通って、堰の上に上がれ。ハヤテを、戸から引き離せ」
「お前は」
「俺は、下だ」
イサナは、堰の根もとを見た。
泥の上に、水が溜まっていた。堰の石の隙間から、外の海が細く染み出して、根もとに黒い溜まりを作っていた。
「戸の開け方を知ってるのは、戸を作った男だけだ。そいつは、あの溜まりの底にいる」
イサナは、瓢箪の栓を抜いた。
泥の上に、真水を細く撒きながら、歩きはじめた。
潮霊たちが、揺れた。
真水の線の手前で、水の足が止まった。左右に、割れた。縛られた手の人たちが、道の両側に並んで、顔のない顔でイサナを見送った。
カイリが、その後ろを走った。
背中の外套の包みを、片手で押さえながら。堰の根もとに着くと、石の継ぎ目に指をかけて、堰の壁を登りはじめた。
「おいおい」
堰の上で、ハヤテが後ずさった。
「本気かい、殿下」
「本気だ」
カイリの手が、堰の縁にかかった。
◇
イサナは、瓢箪の最後のひと振りを、溜まりのまわりに撒いた。
真水の輪が、溜まりを囲んだ。潮霊たちは、輪の外で止まった。
瓢箪は、空になった。
軽い音がした。
イサナは、瓢箪を泥の上に置いた。
上衣を脱いだ。腰に縄を巻こうとして、縄の端を渡す相手がいないことに気づいた。
堰の上では、カイリがハヤテの手首をつかんでいた。ハヤテが、何かわめいていた。
縄は、巻かなかった。
溜まりを、見下ろした。
黒い水だった。玉座の淵と同じくらい、底が見えなかった。溜まりの縁の水が、細かく震えていた。
外の海が、堰を打った。
どん。
足の下の泥が、跳ねた。堰の石の隙間から染み出す水が、少しずつ太くなっていた。
東の崖の肩が、白くなっていた。
夜明けだった。
玉座の間では、大潮司が、封を切る支度をしているだろう。あいつは、段のいちばん下に座って、瓶を見ているだろう。
イサナは、溜まりの縁に膝をついた。
そのとき、溜まりの水面が、盛り上がった。
潮霊だった。
輪の内側から。溜まりそのものから。
ほかの潮霊より、一回り大きかった。肩が、広かった。頭のところに、水が一筋、帯のように巻いていた。鉢巻の形だった。
両手は、縛られていなかった。
右の手に、何か小さなものを握っている形をしていた。指の間から、細い歯のようなものが、いくつも覗いていた。
櫛だった。
石工の町の土間で見た櫛と、同じ形だった。ただ、歯は一本も欠けていなかった。削ったばかりの櫛の形だった。
顔のない顔が、イサナを見下ろした。