第21話 二つの場所
潮帳――ミオを信じろ。ミオが誰か忘れても。
足が、冷たかった。
それで、イサナは目を覚ました。
井戸の縁に背中を預けたまま、眠っていた。提灯は消えていた。中庭の石畳が、うっすらと灰色に見えた。夜明けには、まだ間があった。
足首の下の石が、濡れていた。
石と石の継ぎ目に沿って、細い水の筋が這っていた。乾いていたはずの中庭に、一本。また一本。
淵が、戻りはじめている。
イサナは、体を起こした。
膝の横に、油紙の包みが二つ並んでいた。ウツロの潮記と、昨夜の二十三人分。その上に、二つに折った紙が一枚、載っていた。横に、瓢箪。
中庭に、ミオはいなかった。
◇
紙を開いた。
暗がりで、目を近づけた。
瓶口には、行かないで。
あなたが白くなったら、わたしが読んで聞かせても、それを聞く人がいなくなる。
わたしは、自分で決めました。
名前は、なかった。
なくても、分かった。昨夜、この井戸の縁で、夜半まで紙を埋めていった字だった。二十三人分の、見たとおりの字。筆を押しつけずに、一字ずつ置いていく字。
イサナは、紙を膝に置いた。
瓢箪を持ち上げた。振ると、半分ほどの水が揺れた。
読ませないつもりだ。
あいつは、たぶん、そう条件を出したのだ。大潮司に。自分が飲む代わりに。
トモ爺みてえになるかもな。
昨夜、自分がそう言ったのを、イサナは覚えていた。干し飯を口に放りこみながら。何でもないことのように。
何でもないことでは、なかったのだ。あいつにとっては。
◇
潮帳を出した。
油紙を解いて、昨夜の頁を開いた。自分の字が並んでいた。
ミオの名を、初めて口にした晩を、失くした。
門楼で、屋根の上から都を見た朝を、失くした。
塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。
一枚、前へめくった。
浜木綿で、あんたと約束した晩を、失くした。
白潮院の潮溜まりで、あんたが四つ浮いた日を、失くした。
もう一枚。
港の入り江で、明日も来いと言った朝を、失くした。
どの行も、ミオだった。
読むたびに、あいつが減っていく。自分で書いた字が、それを数えていた。
今、自分の中に残っているミオを、イサナは数えた。
干底の朝の坑道。井戸の縁で、帳面を読み上げた声。玉座の間の柱の陰で、膝が笑っていた姿。昨夜の筆の音。
ここ数日のことばかりだった。
最初にどこで会ったのかは、まだ覚えている。港だ。防波堤だ。鼠、と自分は呼んだ。
それも、あといくつ読めば消えるのか。
◇
あなたは十歳のとき、たいへん賢い選択をしました。
これからも、思い出さないでいなさい。
大潮司の声が、耳の奥で鳴った。祭りの前の朝、潮司庁の奥の部屋で聞いた、穏やかな声。
あの声なら、今、こう言うだろう。
十歳のあなたは、忘れることを選んだ。今度も、そうしなさい。
あの子は、自分で選んだのです。あなたが邪魔をしてはいけません。
イサナは、目を閉じた。
行ける場所は、二つあった。
玉座の間へ走る。夜番の通路を抜ければ、すぐだ。瓶を叩き落として、ミオの腕をつかんで、引きずって帰る。
今のミオは、助かる。
けれど、瓶の中身は残る。封をし直せば、それで済む。祭りのあとで、ミオは潮送りになる。空蝉にされた体に、あの爺が注がれる。ミオでなければ、ユラが。ユラでなければ、次の百年の誰かが。
それに、あいつが自分の言葉で決めたことを、俺が踏みにじることになる。
瓶口へ行く。堰を壊す。
外の海を入れて、淵ごと、あの爺を薄める。仕組みそのものを、終わらせる。
けれど、そのためには、ハルの親父を丸ごと読まなければならない。十の自分が読んで、消した男を。
読めば、何が溶けるか分からない。ミオの残りが、全部持っていかれるかもしれない。
それに、堰が壊れたとき、北の岩場のほどけた端も、淵に溶けている全部と一緒に散る。
母さんの声と、顔と、最初の一字。いつか誰かに読んでもらえたかもしれない、最後の残り。
そして、何より。
堰が壊れて、外の海が玉座の間に届いたとき、あいつが瓶を飲まずにいてくれなければ、何もかも無駄になる。
あいつが、自分で拒まなければ。
◇
足音がした。
坑道の方からだった。濡れた石を踏む、重い足音。
イサナは、瓢箪をつかんで立ち上がった。
坂の口から、背の高い影が現れた。腰に刀。肩に、潮で汚れた外套。
カイリだった。
「ここにいたか」
カイリは、中庭を見回した。井戸。油紙の包み。イサナの手の紙。
「浜から、下りてきた。トモは、白潮院の世話役に預けてきた。......玉座の間を覗いた。ミオが、段に座っていた。封をした瓶の前に」
イサナは、何も言わなかった。
「ウツロが、白くなっていた。大潮司は、夜明けのすぐあとに儀をやると言っていた。......お前は、ここで何をしている」
「考えてる」
「考える暇は、たいしてないぞ」
カイリは、外套の前を払った。
「もう一つ、知らせがある。トモを院へ上げたとき、崖の上から、千尋屋の舟の灯りが見えた。外の海を、南へ回っていった。ハヤテの舟だ。浜に詰めている神官の口から、俺が降りたことも、儀が夜明けだということも、聞いていたらしい」
「南」
「瓶口の方だ。......商人の考えることは、俺には分からん。王が立つかどうかなら、玉座へ来るはずだろう」
イサナは、瓢箪を握っていた。
淵が閉じているから、潮が濃い。
潮が濃いから、潮瓶が売れる。
ハヤテの舟の舳先で、指を舐めていた頭巾の者たち。忘れ魚を放った甕。
「......あいつは、王なんかどうでもいいんだ」
イサナは言った。
「守りてえのは、堰だ。淵が閉じてりゃ、千尋屋の商いは続く。儀の前の晩にいちばん危ねえのは、瓶口だと踏んだんだろ。商人の勘で」
「堰を、壊す者がいると?」
「いる」
カイリの目が、イサナを見た。
◇
イサナは、潮帳の新しい頁を開いた。
筆を取った。
書くのに、迷わなかった。
ミオを信じろ。ミオが誰か忘れても。
書き終えて、しばらくその一行を見ていた。
それから、その下に、もう一行書いた。浜木綿の晩は、もう覚えていない。けれど、干底の井戸の縁で、あいつが読み上げた声は、まだ残っていた。
読むかどうかは、俺が決める。
あいつの帳面の、一頁目の字。
イサナには読ませない、とあいつは大潮司に言ったのだろう。けれど、その前に、あいつの帳面に、この一行がある。俺の言葉として。
「......順番を、間違えるなよ」
誰に言うともなく呟いて、イサナは潮帳を閉じた。
油紙で包み直して、懐の奥にしまった。
◇
「瓶口へ行く」
イサナは言った。
「堰を壊す。外の海を、淵に入れる。あの爺を、薄める」
「ミオは」
「あいつが、自分で断る」
言ってから、それが祈りのように聞こえるのが、自分でも分かった。
「断らなかったら」
「全部、無駄になる」
カイリは、しばらく黙っていた。
それから、外套を脱いで、足元の油紙の包みを二つとも、その中にくるんだ。
「潮記だな、これは」
「都の連中が、見たとおりのことだ。ミオが、一晩で書いた。......濡らすな。堰が壊れたら、こいつしか残らねえ」
「預かる」
カイリは、包みを背中にくくりつけた。
刀の位置を、確かめた。
「俺も行く」
「あんたは、降りたんだろ」
「王位はな」
カイリは、坑道の方を向いた。
「トモが言っていた。最後の仕事くらい、名前で呼ぶ人のためにやりたいと。......あいつは、白くなる前に、俺の名前を呼ばせてくれた。俺も、名前を呼ばれた者のために、一つくらい仕事をしたい」
「......道は」
「王宮の南の水門から、瓶口まで、石を運んだ堤道が一本、まっすぐ通っている。神殿の壁画に、荷車の列が描いてあったろう。あの道だ。ゆうべ、崖の上から見た。淵の底から一段高く、乾いていた」
イサナは、瓢箪の紐を腰に結んだ。
最後に、ミオの置き手紙を、潮帳と一緒に懐へ入れた。
中庭の石畳の水は、もう足の甲を越えていた。
◇
王宮の南の水門をくぐると、東の空が白みかけていた。
石の道が、干上がった淵の底を、南へまっすぐに伸びていた。両側は、まだ濡れた泥の原だった。その泥の上を、細い水の筋が、何本も北へ這い上がってきていた。
走った。
カイリが、半歩先を走った。背中の外套の包みが、跳ねた。
振り返ると、王宮の尖塔が、まだ明けきらない空に黒く立っていた。
その下に、玉座の間がある。段のいちばん下に、あいつが座っている。
イサナは、前を向いた。
道の先、崖と崖の切れ目の向こうから、低い音が響いていた。
外の海が、閉じた戸を叩いている音だった。