第20話 ひとりの満ち始め
潮帳――誰かに名前を呼ばれて振り向いた朝を、失くした。
紙は、一枚だけ残っていた。
潮記の束を包むときに、端の方からはみ出した一枚だった。わたしは、それを膝の上に置いて、筆を取った。
提灯の火は、もう小さくなっていた。
井戸の縁で、イサナは眠っていた。座ったまま、首を落として。夜半に一度だけ、何かをつかむように指が動いた。それきり、動かなかった。
何を書くかは、決めていた。
決めていたのに、筆が紙に下りるまで、時間がかかった。
瓶口には、行かないで。
一行目は、それだけだった。
二行目を書こうとして、筆が止まった。何を書いても、言い訳になる気がした。
あなたが白くなったら、わたしが読んで聞かせても、それを聞く人がいなくなる。
わたしは、自分で決めました。
三行目は、書かなかった。
名前も、書かなかった。字を見れば、分かるはずだった。分からなくても、彼が井戸の縁で読んだ、わたしの帳面の字と、同じ字だった。
紙を二つに折って、潮記の油紙の包みの上に置いた。
その横に、瓢箪を置いた。二つ目の瓢箪。真水が、まだ半分残っていた。
わたしの帳面だけは、背負い袋に戻した。
これは、わたしが持っていく。
◇
夜番の通路は、行きよりも短く感じた。
壁の中の暗がりを、手で探りながら歩いた。覗き窓の向こうの広間も回廊も、月の光で白く乾いていた。
垂れ幕の端から、灯りが漏れていた。
玉座の間には、提灯が四つ灯っていた。
柱の間に、光と影が交互に並んでいた。天井の穴から、遅い月が斜めに差しこんでいた。
大潮司さまは、玉座の段のいちばん下に座っていた。
昼と同じ場所だった。膝の前で、手を重ねていた。その横の段の上に、空の潮瓶が置いてあった。カイリ兄さまが置いていった、素焼きの瓶。
祭壇の代わりに、玉座の前で、ユラ姉さまが跪いて祈っていた。
その少し後ろに、ウツロが膝を揃えて座っていた。胸に、小さな帳面を抱えて。
淵の縁には、神官が二人、縄を持って立っていた。
垂れ幕をくぐると、大潮司さまが顔を上げた。
驚いた顔ではなかった。来るだろうと思っていた、という顔だった。カイリ兄さまと、同じ顔だった。
「ミオ」
わたしは、段の前まで歩いた。
膝が、笑っていなかった。自分でも、不思議だった。
「決めました」
◇
「条件は、二つです」
わたしは言った。
大潮司さまが、目で先を促した。
「一つ。イサナには、読ませない。玉座の淵にも、ほかのどこにも。この先ずっと、あの人に、わたしのための読みをさせない」
「承りました」
「二つ。潮送りを、やめて」
大潮司さまの手が、膝の上で、少しだけ動いた。
「わたしが器になったら、もう予備は要らないはずです。わたしのあとも、誰も潮送りにしないで。奥院にいる人たちも、今のまま、大事にして」
大潮司さまは、しばらく黙っていた。
それから、段から立ち上がって、わたしの前に来た。
「お約束します」
乾いた、温かい手が、わたしの両手を包んだ。
「あなたのお言葉で、条件をおっしゃいました。わたくしは、それを守ります。......あのお方にも、そうお伝えします」
わたしは、手を引かなかった。
自分で決めた。自分の言葉で言った。
それだけを、胸の中で繰り返していた。
◇
「では、読み手を」
大潮司さまが、神官たちの方を振り向いた。
「潮司庁の潮読みを、崖の上から呼びましょう。夜明けまでには」
「私が読む」
平らな声がした。
ウツロが、立ち上がっていた。
ユラ姉さまが、祈りの手をほどいて、振り向いた。
「ウツロ。あなたは」
「ナズナ」
ウツロは言った。
姉さまの方を見ずに。
「私の名前。ナズナ」
姉さまは、口を開けたまま、何も言わなかった。
ナズナは、わたしの前まで歩いてきた。
音のない足取りだった。宴の夜と同じ。けれど、灰色の目は、ちゃんとわたしを見ていた。
「崖の上の潮読みを呼べば、夜明けに間に合わない。間に合わなければ、あの人が呼ばれる。......大潮司さまは、約束を守る人。国のためなら、守らなくていい理由も、見つける人。あなたの潮読みは、腕がいい。大潮司さまは、それを知ってる」
わたしは、息を止めた。
「だめ」
「あなたは、自分で決めた」
ナズナは、少しも声の調子を変えなかった。
「私も、自分で決める」
彼女は、胸の帳面を開いた。
最初の頁。細くて、まっすぐな字。ナズナ。その頁に、紙の舟が一つ、挟まっていた。
「あの人は、私に、名前を返した。覚えてないのに。手が覚えてる、って」
ナズナは、帳面を閉じた。
「今度は、私が、あの人の分を読む。......名前は、書いてある。白くなっても、ここにある」
◇
神官が、ナズナの腰に縄を巻いた。
ナズナは、淵の縁に腰を下ろした。足を、黒い水に入れた。
水面が、動いた。
ナズナの足のまわりではなかった。わたしの立っている側の縁で、黒い水が、細かく震えはじめた。昼と同じように。わたしの方へ、わたしの方へと、小さな皺が寄ってきた。
わたしは、下がらなかった。
下がる理由が、もうなかった。
ナズナの白い半分の髪が、水面の下へ消えた。
神官が、縄を握っていた。
わたしは、数えなかった。数えたら、百で引き上げろ、と言いたくなる気がした。
ユラ姉さまが、また祈りはじめていた。
大潮司さまは、段の前に立ったまま、黒い水面を見ていた。重ねた手が、膝の前で、少しも動かなかった。
縄が、引かれた。
◇
神官たちが、ナズナを引き上げた。
ナズナは、石の床に膝をついた。咳をしなかった。
長い、深い息をしていた。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。一つの息に、ひどく時間がかかった。
ナズナの右手が、持ち上がった。
細い、少女の指が、空の中で、ゆっくりと何かをつかもうとしていた。わたしの方へ。
ナズナは、その手を、自分の左手でつかんで押さえた。
トモと同じように。
大潮司さまが、段の上の潮瓶を取って、ナズナの前にしゃがんだ。
栓を抜いて、口元へ差し出した。
ナズナは、瓶を押しのけなかった。
唇を、瓶の口に当てた。
黒い水が、細い糸を引いて、素焼きの瓶の中へ落ちていった。一筋。また一筋。ナズナの喉が、何度も動いた。吐き戻すたびに、あの長い息が、少しずつ短くなっていった。
最後の一筋を吐き終えると、ナズナは、床に手をついた。
大潮司さまが、瓶に栓をした。蝋で、封をした。両手で抱えて、立ち上がった。
「ありがとう、ウツロ」
大潮司さまは言った。心からの声だった。
ナズナは、答えなかった。
床に手をついたまま、自分の胸の帳面を見下ろしていた。
◇
どれくらい経ったのか、分からなかった。
天井の穴の月が、柱一本ぶん、傾いていた。
ナズナが、顔を上げた。
灰色の目が、柱を見た。提灯を見た。わたしを見た。
どこにも、止まらなかった。
髪は、もう半分ではなかった。
根元から毛先まで、白かった。
ナズナは、胸に抱えた帳面に気づいて、それを開いた。
最初の頁を、長いこと見ていた。
「......ナズナ」
彼女は、読み上げた。
平らな声だった。初めて見る字を、一字ずつ確かめるように。
「私の、名前?」
「そうよ」
わたしは、彼女の前にしゃがんだ。
「あなたの名前。あなたが、自分で書いたの」
ナズナは、頁に挟まった紙の舟を、指でつまみ上げた。
しばらく眺めていた。それから、帳面の最後の頁を一枚、破り取って、指を動かしはじめた。二つに。それを斜めに。端を立てて。
指は、迷わなかった。
小さな紙の舟が、もう一つ、床の上にできた。
◇
大潮司さまは、封をした瓶を、玉座の段の上に置いた。
その前に、ユラ姉さまが、また跪いた。
「満ち始めの潮どきは、夜明けのすぐあとです」
大潮司さまが、わたしに言った。
「それまで、お休みなさい。......よく、お決めになりましたね」
わたしは、段のいちばん下に腰を下ろした。
昼に、大潮司さまが座っていた場所だった。
目の前に、封をした瓶があった。
素焼きの肌が、提灯の灯りで、鈍く光っていた。この中に、あの人がいる。六つの年に、わたしの手を、わたしの手でなくした人。
夜明けのすぐあとに、わたしは、これを飲む。
イサナは、読まなくていい。
誰も、潮送りにならない。
わたしが、自分で決めた。
わたしは、自分で選んだ。
背負い袋から、帳面を出した。
膝の上で、開いた。一頁目。読むかどうかは、俺が決める。玉座の淵には、潜らない。
彼は、玉座の淵に潜らない。
わたしは、その約束を、守らせた。
最後の頁を、開いた。
塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。
その下に、わたしの字で、一行だけ書き足した。
五日目の未明。わたしは、自分で決めた。
書き終えてから、筆を置いた。
字は、震えていなかった。
◇
足元で、音がした。
玉座の間の床の、石と石の継ぎ目だった。
細い、細い水の筋が、継ぎ目に沿って、柱の方から流れてきていた。
乾いていたはずの石が、黒く濡れていった。一本。また一本。
外で、淵が、戻る支度をはじめていた。
わたしは、帳面を胸に抱えて、封をした瓶を見ていた。
満ち始めまで、あと数刻だった。