ホーム›【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—›第19話 潮記を書く夜
← 次の話目次前の話 →

第19話 潮記を書く夜

潮帳しおちょう――塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。

 ハルの中庭に戻ったのは、日が沈んでからだった。
 割りかけの石に腰を下ろして、わたしは、玉座の間で聞いたことを、全部話した。

 始祖王しそおうさまが都を沈めたことを、大潮司おおしおつかささまが知っていたこと。
 国が割れるから、と言ったこと。
 縁談を止めていたこと。泳げぬ姫と、陰で言わせていたこと。
 二つの瓢箪。開いた扉。名簿の写し。
 潮送りしおおくりの本当の意味。
 サヨ姉さまのこと。空蝉うつせみ、という言葉。

 話しているあいだ、イサナは一度も口を挟まなかった。
 井戸の縁に背中を預けて、わたしの顔ではなく、わたしの手元を見ていた。帳面を握りしめている指の方を。

 最後に、わたしは言った。

「瓶に汲む読み手は、こちらで用意する。あなたの潮読みしおよみは、腕がよいそうですね、って」

 イサナは、少しだけ顎を上げた。

「......俺か」
「たぶん」
「玉座の淵には、潜らねえ。......あんたの帳面に、そう書いてあるんだろ」
「わたしの帳面にはね」

 わたしは言った。

「大潮司さまの帳面には、書いてないわ」

 イサナは、鼻から短く息を吐いた。
 笑ったのではなかった。


◇


 月は、まだ昇っていなかった。
 中庭の石畳の上に、提灯を一つだけ灯した。玉座の間から、神官が置いていったものだった。潮司庁しおつかさちょうの紋が、灯りの中で黒く浮いていた。

 イサナは、潮帳を膝に開いていた。
 その横に、ウツロの潮記しおふみの束。油紙の包みが、ほどいてあった。

「瓶口かめぐちだ」

 長い沈黙のあとで、イサナが言った。

「トモ爺が言ってた。淵の水は、外と混ざらねえ。瓶口の内っ側と外っ側で、壁があるみてえに分かれてる、と」

 彼は、指を一本立てた。

「ハルの親父が言ってた。あの堰は、海を閉じるためのもんだ。水を通す口がひとつもねえ図面だった、と」

 二本目。

「こいつに書いてある」

 潮記の束を、指で叩いた。

「親父は、堰の組み方を、石ひとつまで知ってた男だ。それから、始祖王は、堰を築いて、淵を閉じた瓶にして、そのあとで都を沈めた」

 三本目の指を立てて、イサナは、わたしを見た。

「......なんで、閉じたと思う」

 わたしは、帳面を開いた。
 書庫で写した一行が、そこにあった。始祖王、瓶口に堰を築き、淵を鎮む。

「潮瓶しおがめと、同じ」

 わたしは言った。自分で言いながら、背中が冷たくなっていった。

「読んだ記憶を残すときは、瓶に吐き戻して、封をする。封をしなければ、薄まって、なくなる。......外の海は、記憶を薄めて、遠くへ運ぶ。だから、始祖王さまは、淵に封をした。自分が、薄まらないように」
「そうだ」

 イサナは、潮記の束を閉じた。

「なら、封を外せばいい」

 提灯の火が、揺れた。

「明日の朝は、満ち始めだ。四日かけて引いた淵に、外の海が戻ってくる。......けど、堰があるうちは、堰の頭を越えてくるのは、軽い上澄みだけだ。濃い淵の潮は重くて、底に溜まったまま動かねえ。堰は、その底の口を塞いでる。いちばん強く押し寄せるのが、満ち始めの最初の潮だ。そのとき、瓶口の堰が壊れてりゃ、外の海は、底から淵の中まで入ってくる。淵の水は、外と混ざる。......混ざれば、玉座の淵の爺も、薄まる」
「薄まったら」
「形を、保てねえ。たぶんな」

 たぶん、と彼は言った。
 誰も確かめたことがない。それでも、彼の声には、迷いがなかった。


◇


「代わりに、何が散るの」

 わたしは聞いた。
 聞かなくても、分かっていた。

 イサナは、中庭の井戸を見た。
 それから、塀の上の暗い空を見た。その向こうに、干上がった都が広がっているはずだった。屋根の街。市場。神殿区。

「全部だ」

 彼は言った。

「淵に溶けてるもんは、全部、外の海に出て、薄まる。スズも、市場の塩問屋も、ハルも、ハルの親父も。......この都で溺れた連中が、何を見たか。もう、誰にも読めなくなる」

 彼は、そこで一度、言葉を切った。

「それから、北の岩場に、まだ残ってるもんも」

 わたしは、彼の顔を見た。
 灯りの中で、何も浮かんでいない顔だった。

 岩場の潮には、ほどけた端しか残っていない。
 ウツロの潮記の、はじめの方の一行。残りは、淵のどこかに散っているはずだった。
 十の彼が消した、お母さんの声と、顔と、最初の一字。いつか、誰かに読んでもらえるかもしれなかったもの。

「......それでも、やるの」
「あんたが器にならずに済む方法を、ほかに知ってるか」

 わたしは、答えられなかった。


◇


「なら、残しましょう」

 わたしは、背負い袋を開けた。
 紙の束を出した。書庫で写しものをするために持ってきた、上等な紙。ウツロに渡した残りだった。まだ、指の厚み二つ分はあった。

「散る前に、書くの。この都の人たちが、実際に何を見たか」

 イサナが、わたしを見た。

「書庫の証言録は、潮司庁が書き直してた。三十人が、三十人とも、同じ言い回しで。......だから、書き直されてない潮記を、一冊作るの。今夜のうちに。淵が混ざったら、残るのは、字になったものだけでしょう」
「一晩で、何人読めると思ってる」
「読めるだけ」

 わたしは、筆を取った。墨を磨った。

「あなたが読んで、口で言う。わたしが書く。見たとおりにだけ。考えたことは書かない。......あなたが、門楼で教えてくれたやり方よ」

 イサナは、長いこと黙っていた。
 それから、立ち上がって、上衣を脱いだ。腰に縄を巻いて、その端を、わたしに渡した。

「井戸の底には、まだ何人もいる。夜番の衛兵と、その女房と、厨の連中と。......朝まで、潜っては上がる。上がったら、しゃべる。しゃべり終わったら、また潜る」
「百数えたら、引き上げる」
「引っ張らなくてもな」


◇


 一人目は、厨の女だった。

「鍋が、ひっくり返ってる。湯が足にかかって、熱い。熱いのに、足元から冷たい水が来る。坊やはどこ。坊やは、裏の井戸で水を汲んでたはず。......水は、表からじゃない。王宮の奥から来る。なんで奥から。奥には、王さましかいないのに」

 わたしは、書いた。
 坊やはどこ。王宮の奥から来る。なんで奥から。

 二人目は、夜番の衛兵の女房だった。

「あの人は、今夜は堤の番だった。夕方、手を振って出ていった。......堤の方から、音がする。石が落ちる音。一つ。二つ。数えてしまう。あの人は、あそこにいる」

 三人目は、年寄りの書記だった。
 イサナは、井戸から上がると、しばらく口をきかなかった。それから、言った。

「こいつは、ひと月前に、触れ書きの下書きを書かされてる。王宮の役人に言われて。海神の御怒りを鎮めんと、王は御身を捧げ給う。......都が沈む、ひと月前にだ」

 わたしの筆が、止まった。
 書庫で、三十人が同じ言い回しで言っていた一行。

「書け」

 イサナが言った。濡れた髪から、水が垂れていた。

「見たとおりに。こいつが、それを書かされたところを、見たとおりに」

 わたしは、書いた。
 手が、震えなかった。震えさせなかった。


◇


 夜が、更けていった。
 井戸の縁の石が、イサナの濡れた体で黒く染まっていった。紙が、一枚ずつ、墨で埋まっていった。

 何人目だったか、分からなくなった。
 堤の番の衛兵。厨の坊や。王宮の庭師。石工の組の、見習い。
 みんな、祭りのあとの夜に溺れていた。みんな、最後に空を見ていた。

 そのあいだに、彼の潮帳に二行増えた。わたしは、それを写した。
 ミオの名を、初めて口にした晩を、失くした。
 門楼で、屋根の上から都を見た朝を、失くした。

「月がふたつ出てる」

 庭師を読んだあとで、イサナは言った。

「祭りの夜みてえな月だ。白いのと、青いでかいの。......並んで、同じ高さに。水が、その月の方から来る」

 わたしは、書いた。
 月がふたつ。同じ高さに。

 イサナは、井戸の縁に座りこんで、干し飯ほしいいの包みを開けた。
 ひと口噛んで、手を止めた。

 包みの中の干し飯を、見下ろしていた。
 半分に割った、干し飯の欠片を。

「......前にも、こうやって」

 彼は言った。

「干し飯を、半分。誰かに、膝に置かれた。水門の、石の縁で。月がふたつ......」

 言葉が、途中で途切れた。
 イサナは、干し飯を見ていた。見ているうちに、目の中から、何かが引いていくのが分かった。潮が、岩を離れていくように。塩の白い線だけを残して。

「......なんだっけな」

 彼は、首を傾げた。

「今、何か、思い出しかけてた」

 わたしは、筆を持ったまま、動けなかった。

 塩田の水門。濡れ鼠の少年。半分軽くなった瓢箪。上等な囮だったな、と彼は言った。四つは浮けるわ、とわたしは言った。明日の朝飯は、どこで食うかな、と彼は言った。わたしは答えるかわりに、干し飯を半分、彼の膝に置いた。
 ふたつの月が、塩田の水の上に、二本の道を並べて敷いていた。

 目の前で、それが溶けていった。
 わたしは、見ていた。何もできなかった。


◇


 イサナは、目を閉じた。
 いつもの点検だった。唇が動いた。今日の中庭。玉座の間。トモ。浜。崖の段。杏。
 港。塩田。

 塩田、で、唇が止まった。

「......塩田の水門に、俺はいたか」
「いたわ」

 わたしは言った。声が、自分のものではないようだった。

「祭りの前の晩。ハヤテ兄さまの人たちに追われて、港の下の水路を潜って。塩田の水門の脇に、上がってきた。わたしが見つけたの。それから、ふたりで、月が昇るのを見た」

 イサナは、黙って聞いていた。
 知らない二人の話を、聞く顔だった。

「......今夜の連中は、みんな、ふたつの月の下で溺れてた」

 彼は、潮帳を開いて、筆を取った。

「似てたんだな」

――塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。

 書き終えて、筆の尻で、一行を叩いた。
 それから、もう一度、井戸の縁に手をかけた。

「あと、何人いける」
「......もう、いいわ」
「よくねえ。まだ、書けるだろ」
「書けるわ。でも」

 イサナは、わたしの言葉を待たなかった。
 縄を腰に確かめて、井戸の中へ下りていった。


◇


 夜半を過ぎたころ、イサナは、井戸の縁で眠っていた。
 座ったまま、首を落として。濡れた髪が、額に張りついていた。

 わたしの膝の上には、紙の束があった。
 二十三人分の、潮記だった。ウツロの潮記と同じくらいの厚みになっていた。

 わたしは、自分の帳面を開いた。
 彼の一行を、写した。

 塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。

 写し終えて、前の頁をめくった。今夜の、ほかの二行。
 その前。浜木綿はまゆうで、あんたと約束した晩を、失くした。
 その前。港の入り江で、明日も来いと言った朝を、失くした。
 その前。白潮院しらしおいんの潮溜まりで、あんたが四つ浮いた日を、失くした。彼が、彼の字で書き直した一行。

 わたしの頁が、増えていくほど、彼の中から、わたしが減っていく。

 眠る前に、彼が言ったことを、思い出していた。
 二十三人目を書き終えて、筆を置いたときだった。

 堰のどこを、どう外せばいいかは、ハルの親父しか知らねえ。
 十の俺が読んで、消した男だ。
 明日の朝、瓶口で、もう一度、丸ごと読む。

 丸ごと、読んだら。
 わたしが聞くと、彼は、干し飯の欠片を口に放りこんで、言った。

 トモ爺みてえになるかもな。

 何でもないことのように。明日の朝飯の話をするように。


◇


 わたしは、帳面を閉じた。
 紙の束を、油紙で包んだ。二十三人分の潮記を、イサナの膝の横に、そっと置いた。

 それから、髪の紐をほどいた。
 七つ編みを、一本ずつ、ほどいて、編み直した。指が、少しも迷わなかった。王宮の侍女に、六つの年から毎朝編ませていた髪を、今夜初めて、自分の手だけで編んだ。

 編み終えて、紐を固く結んだ。

 塀の上に、遅い月が、ようやく昇ってきた。
 白い月と、遠月とおづき。今夜は、遠月の方が、少しだけ高かった。

 イサナは、眠っていた。
 わたしは、その寝顔を、しばらく見ていた。
シェア
前の話 →
第18話 器
← 次の話
第20話 ひとりの満ち始め
【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
目次を見る
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません

第19話 潮記を書く夜

潮帳しおちょう――塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。

 ハルの中庭に戻ったのは、日が沈んでからだった。
 割りかけの石に腰を下ろして、わたしは、玉座の間で聞いたことを、全部話した。

 始祖王しそおうさまが都を沈めたことを、大潮司おおしおつかささまが知っていたこと。
 国が割れるから、と言ったこと。
 縁談を止めていたこと。泳げぬ姫と、陰で言わせていたこと。
 二つの瓢箪。開いた扉。名簿の写し。
 潮送りしおおくりの本当の意味。
 サヨ姉さまのこと。空蝉うつせみ、という言葉。

 話しているあいだ、イサナは一度も口を挟まなかった。
 井戸の縁に背中を預けて、わたしの顔ではなく、わたしの手元を見ていた。帳面を握りしめている指の方を。

 最後に、わたしは言った。

「瓶に汲む読み手は、こちらで用意する。あなたの潮読みしおよみは、腕がよいそうですね、って」

 イサナは、少しだけ顎を上げた。

「......俺か」
「たぶん」
「玉座の淵には、潜らねえ。......あんたの帳面に、そう書いてあるんだろ」
「わたしの帳面にはね」

 わたしは言った。

「大潮司さまの帳面には、書いてないわ」

 イサナは、鼻から短く息を吐いた。
 笑ったのではなかった。


◇


 月は、まだ昇っていなかった。
 中庭の石畳の上に、提灯を一つだけ灯した。玉座の間から、神官が置いていったものだった。潮司庁しおつかさちょうの紋が、灯りの中で黒く浮いていた。

 イサナは、潮帳を膝に開いていた。
 その横に、ウツロの潮記しおふみの束。油紙の包みが、ほどいてあった。

「瓶口かめぐちだ」

 長い沈黙のあとで、イサナが言った。

「トモ爺が言ってた。淵の水は、外と混ざらねえ。瓶口の内っ側と外っ側で、壁があるみてえに分かれてる、と」

 彼は、指を一本立てた。

「ハルの親父が言ってた。あの堰は、海を閉じるためのもんだ。水を通す口がひとつもねえ図面だった、と」

 二本目。

「こいつに書いてある」

 潮記の束を、指で叩いた。

「親父は、堰の組み方を、石ひとつまで知ってた男だ。それから、始祖王は、堰を築いて、淵を閉じた瓶にして、そのあとで都を沈めた」

 三本目の指を立てて、イサナは、わたしを見た。

「......なんで、閉じたと思う」

 わたしは、帳面を開いた。
 書庫で写した一行が、そこにあった。始祖王、瓶口に堰を築き、淵を鎮む。

「潮瓶しおがめと、同じ」

 わたしは言った。自分で言いながら、背中が冷たくなっていった。

「読んだ記憶を残すときは、瓶に吐き戻して、封をする。封をしなければ、薄まって、なくなる。......外の海は、記憶を薄めて、遠くへ運ぶ。だから、始祖王さまは、淵に封をした。自分が、薄まらないように」
「そうだ」

 イサナは、潮記の束を閉じた。

「なら、封を外せばいい」

 提灯の火が、揺れた。

「明日の朝は、満ち始めだ。四日かけて引いた淵に、外の海が戻ってくる。......けど、堰があるうちは、堰の頭を越えてくるのは、軽い上澄みだけだ。濃い淵の潮は重くて、底に溜まったまま動かねえ。堰は、その底の口を塞いでる。いちばん強く押し寄せるのが、満ち始めの最初の潮だ。そのとき、瓶口の堰が壊れてりゃ、外の海は、底から淵の中まで入ってくる。淵の水は、外と混ざる。......混ざれば、玉座の淵の爺も、薄まる」
「薄まったら」
「形を、保てねえ。たぶんな」

 たぶん、と彼は言った。
 誰も確かめたことがない。それでも、彼の声には、迷いがなかった。


◇


「代わりに、何が散るの」

 わたしは聞いた。
 聞かなくても、分かっていた。

 イサナは、中庭の井戸を見た。
 それから、塀の上の暗い空を見た。その向こうに、干上がった都が広がっているはずだった。屋根の街。市場。神殿区。

「全部だ」

 彼は言った。

「淵に溶けてるもんは、全部、外の海に出て、薄まる。スズも、市場の塩問屋も、ハルも、ハルの親父も。......この都で溺れた連中が、何を見たか。もう、誰にも読めなくなる」

 彼は、そこで一度、言葉を切った。

「それから、北の岩場に、まだ残ってるもんも」

 わたしは、彼の顔を見た。
 灯りの中で、何も浮かんでいない顔だった。

 岩場の潮には、ほどけた端しか残っていない。
 ウツロの潮記の、はじめの方の一行。残りは、淵のどこかに散っているはずだった。
 十の彼が消した、お母さんの声と、顔と、最初の一字。いつか、誰かに読んでもらえるかもしれなかったもの。

「......それでも、やるの」
「あんたが器にならずに済む方法を、ほかに知ってるか」

 わたしは、答えられなかった。


◇


「なら、残しましょう」

 わたしは、背負い袋を開けた。
 紙の束を出した。書庫で写しものをするために持ってきた、上等な紙。ウツロに渡した残りだった。まだ、指の厚み二つ分はあった。

「散る前に、書くの。この都の人たちが、実際に何を見たか」

 イサナが、わたしを見た。

「書庫の証言録は、潮司庁が書き直してた。三十人が、三十人とも、同じ言い回しで。......だから、書き直されてない潮記を、一冊作るの。今夜のうちに。淵が混ざったら、残るのは、字になったものだけでしょう」
「一晩で、何人読めると思ってる」
「読めるだけ」

 わたしは、筆を取った。墨を磨った。

「あなたが読んで、口で言う。わたしが書く。見たとおりにだけ。考えたことは書かない。......あなたが、門楼で教えてくれたやり方よ」

 イサナは、長いこと黙っていた。
 それから、立ち上がって、上衣を脱いだ。腰に縄を巻いて、その端を、わたしに渡した。

「井戸の底には、まだ何人もいる。夜番の衛兵と、その女房と、厨の連中と。......朝まで、潜っては上がる。上がったら、しゃべる。しゃべり終わったら、また潜る」
「百数えたら、引き上げる」
「引っ張らなくてもな」


◇


 一人目は、厨の女だった。

「鍋が、ひっくり返ってる。湯が足にかかって、熱い。熱いのに、足元から冷たい水が来る。坊やはどこ。坊やは、裏の井戸で水を汲んでたはず。......水は、表からじゃない。王宮の奥から来る。なんで奥から。奥には、王さましかいないのに」

 わたしは、書いた。
 坊やはどこ。王宮の奥から来る。なんで奥から。

 二人目は、夜番の衛兵の女房だった。

「あの人は、今夜は堤の番だった。夕方、手を振って出ていった。......堤の方から、音がする。石が落ちる音。一つ。二つ。数えてしまう。あの人は、あそこにいる」

 三人目は、年寄りの書記だった。
 イサナは、井戸から上がると、しばらく口をきかなかった。それから、言った。

「こいつは、ひと月前に、触れ書きの下書きを書かされてる。王宮の役人に言われて。海神の御怒りを鎮めんと、王は御身を捧げ給う。......都が沈む、ひと月前にだ」

 わたしの筆が、止まった。
 書庫で、三十人が同じ言い回しで言っていた一行。

「書け」

 イサナが言った。濡れた髪から、水が垂れていた。

「見たとおりに。こいつが、それを書かされたところを、見たとおりに」

 わたしは、書いた。
 手が、震えなかった。震えさせなかった。


◇


 夜が、更けていった。
 井戸の縁の石が、イサナの濡れた体で黒く染まっていった。紙が、一枚ずつ、墨で埋まっていった。

 何人目だったか、分からなくなった。
 堤の番の衛兵。厨の坊や。王宮の庭師。石工の組の、見習い。
 みんな、祭りのあとの夜に溺れていた。みんな、最後に空を見ていた。

 そのあいだに、彼の潮帳に二行増えた。わたしは、それを写した。
 ミオの名を、初めて口にした晩を、失くした。
 門楼で、屋根の上から都を見た朝を、失くした。

「月がふたつ出てる」

 庭師を読んだあとで、イサナは言った。

「祭りの夜みてえな月だ。白いのと、青いでかいの。......並んで、同じ高さに。水が、その月の方から来る」

 わたしは、書いた。
 月がふたつ。同じ高さに。

 イサナは、井戸の縁に座りこんで、干し飯ほしいいの包みを開けた。
 ひと口噛んで、手を止めた。

 包みの中の干し飯を、見下ろしていた。
 半分に割った、干し飯の欠片を。

「......前にも、こうやって」

 彼は言った。

「干し飯を、半分。誰かに、膝に置かれた。水門の、石の縁で。月がふたつ......」

 言葉が、途中で途切れた。
 イサナは、干し飯を見ていた。見ているうちに、目の中から、何かが引いていくのが分かった。潮が、岩を離れていくように。塩の白い線だけを残して。

「......なんだっけな」

 彼は、首を傾げた。

「今、何か、思い出しかけてた」

 わたしは、筆を持ったまま、動けなかった。

 塩田の水門。濡れ鼠の少年。半分軽くなった瓢箪。上等な囮だったな、と彼は言った。四つは浮けるわ、とわたしは言った。明日の朝飯は、どこで食うかな、と彼は言った。わたしは答えるかわりに、干し飯を半分、彼の膝に置いた。
 ふたつの月が、塩田の水の上に、二本の道を並べて敷いていた。

 目の前で、それが溶けていった。
 わたしは、見ていた。何もできなかった。


◇


 イサナは、目を閉じた。
 いつもの点検だった。唇が動いた。今日の中庭。玉座の間。トモ。浜。崖の段。杏。
 港。塩田。

 塩田、で、唇が止まった。

「......塩田の水門に、俺はいたか」
「いたわ」

 わたしは言った。声が、自分のものではないようだった。

「祭りの前の晩。ハヤテ兄さまの人たちに追われて、港の下の水路を潜って。塩田の水門の脇に、上がってきた。わたしが見つけたの。それから、ふたりで、月が昇るのを見た」

 イサナは、黙って聞いていた。
 知らない二人の話を、聞く顔だった。

「......今夜の連中は、みんな、ふたつの月の下で溺れてた」

 彼は、潮帳を開いて、筆を取った。

「似てたんだな」

――塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。

 書き終えて、筆の尻で、一行を叩いた。
 それから、もう一度、井戸の縁に手をかけた。

「あと、何人いける」
「......もう、いいわ」
「よくねえ。まだ、書けるだろ」
「書けるわ。でも」

 イサナは、わたしの言葉を待たなかった。
 縄を腰に確かめて、井戸の中へ下りていった。


◇


 夜半を過ぎたころ、イサナは、井戸の縁で眠っていた。
 座ったまま、首を落として。濡れた髪が、額に張りついていた。

 わたしの膝の上には、紙の束があった。
 二十三人分の、潮記だった。ウツロの潮記と同じくらいの厚みになっていた。

 わたしは、自分の帳面を開いた。
 彼の一行を、写した。

 塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。

 写し終えて、前の頁をめくった。今夜の、ほかの二行。
 その前。浜木綿はまゆうで、あんたと約束した晩を、失くした。
 その前。港の入り江で、明日も来いと言った朝を、失くした。
 その前。白潮院しらしおいんの潮溜まりで、あんたが四つ浮いた日を、失くした。彼が、彼の字で書き直した一行。

 わたしの頁が、増えていくほど、彼の中から、わたしが減っていく。

 眠る前に、彼が言ったことを、思い出していた。
 二十三人目を書き終えて、筆を置いたときだった。

 堰のどこを、どう外せばいいかは、ハルの親父しか知らねえ。
 十の俺が読んで、消した男だ。
 明日の朝、瓶口で、もう一度、丸ごと読む。

 丸ごと、読んだら。
 わたしが聞くと、彼は、干し飯の欠片を口に放りこんで、言った。

 トモ爺みてえになるかもな。

 何でもないことのように。明日の朝飯の話をするように。


◇


 わたしは、帳面を閉じた。
 紙の束を、油紙で包んだ。二十三人分の潮記を、イサナの膝の横に、そっと置いた。

 それから、髪の紐をほどいた。
 七つ編みを、一本ずつ、ほどいて、編み直した。指が、少しも迷わなかった。王宮の侍女に、六つの年から毎朝編ませていた髪を、今夜初めて、自分の手だけで編んだ。

 編み終えて、紐を固く結んだ。

 塀の上に、遅い月が、ようやく昇ってきた。
 白い月と、遠月とおづき。今夜は、遠月の方が、少しだけ高かった。

 イサナは、眠っていた。
 わたしは、その寝顔を、しばらく見ていた。
シェア
次の話第20話 ひとりの満ち始め
【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
目次
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません