第19話 潮記を書く夜
潮帳――塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。
ハルの中庭に戻ったのは、日が沈んでからだった。
割りかけの石に腰を下ろして、わたしは、玉座の間で聞いたことを、全部話した。
始祖王さまが都を沈めたことを、大潮司さまが知っていたこと。
国が割れるから、と言ったこと。
縁談を止めていたこと。泳げぬ姫と、陰で言わせていたこと。
二つの瓢箪。開いた扉。名簿の写し。
潮送りの本当の意味。
サヨ姉さまのこと。空蝉、という言葉。
話しているあいだ、イサナは一度も口を挟まなかった。
井戸の縁に背中を預けて、わたしの顔ではなく、わたしの手元を見ていた。帳面を握りしめている指の方を。
最後に、わたしは言った。
「瓶に汲む読み手は、こちらで用意する。あなたの潮読みは、腕がよいそうですね、って」
イサナは、少しだけ顎を上げた。
「......俺か」
「たぶん」
「玉座の淵には、潜らねえ。......あんたの帳面に、そう書いてあるんだろ」
「わたしの帳面にはね」
わたしは言った。
「大潮司さまの帳面には、書いてないわ」
イサナは、鼻から短く息を吐いた。
笑ったのではなかった。
◇
月は、まだ昇っていなかった。
中庭の石畳の上に、提灯を一つだけ灯した。玉座の間から、神官が置いていったものだった。潮司庁の紋が、灯りの中で黒く浮いていた。
イサナは、潮帳を膝に開いていた。
その横に、ウツロの潮記の束。油紙の包みが、ほどいてあった。
「瓶口だ」
長い沈黙のあとで、イサナが言った。
「トモ爺が言ってた。淵の水は、外と混ざらねえ。瓶口の内っ側と外っ側で、壁があるみてえに分かれてる、と」
彼は、指を一本立てた。
「ハルの親父が言ってた。あの堰は、海を閉じるためのもんだ。水を通す口がひとつもねえ図面だった、と」
二本目。
「こいつに書いてある」
潮記の束を、指で叩いた。
「親父は、堰の組み方を、石ひとつまで知ってた男だ。それから、始祖王は、堰を築いて、淵を閉じた瓶にして、そのあとで都を沈めた」
三本目の指を立てて、イサナは、わたしを見た。
「......なんで、閉じたと思う」
わたしは、帳面を開いた。
書庫で写した一行が、そこにあった。始祖王、瓶口に堰を築き、淵を鎮む。
「潮瓶と、同じ」
わたしは言った。自分で言いながら、背中が冷たくなっていった。
「読んだ記憶を残すときは、瓶に吐き戻して、封をする。封をしなければ、薄まって、なくなる。......外の海は、記憶を薄めて、遠くへ運ぶ。だから、始祖王さまは、淵に封をした。自分が、薄まらないように」
「そうだ」
イサナは、潮記の束を閉じた。
「なら、封を外せばいい」
提灯の火が、揺れた。
「明日の朝は、満ち始めだ。四日かけて引いた淵に、外の海が戻ってくる。......けど、堰があるうちは、堰の頭を越えてくるのは、軽い上澄みだけだ。濃い淵の潮は重くて、底に溜まったまま動かねえ。堰は、その底の口を塞いでる。いちばん強く押し寄せるのが、満ち始めの最初の潮だ。そのとき、瓶口の堰が壊れてりゃ、外の海は、底から淵の中まで入ってくる。淵の水は、外と混ざる。......混ざれば、玉座の淵の爺も、薄まる」
「薄まったら」
「形を、保てねえ。たぶんな」
たぶん、と彼は言った。
誰も確かめたことがない。それでも、彼の声には、迷いがなかった。
◇
「代わりに、何が散るの」
わたしは聞いた。
聞かなくても、分かっていた。
イサナは、中庭の井戸を見た。
それから、塀の上の暗い空を見た。その向こうに、干上がった都が広がっているはずだった。屋根の街。市場。神殿区。
「全部だ」
彼は言った。
「淵に溶けてるもんは、全部、外の海に出て、薄まる。スズも、市場の塩問屋も、ハルも、ハルの親父も。......この都で溺れた連中が、何を見たか。もう、誰にも読めなくなる」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「それから、北の岩場に、まだ残ってるもんも」
わたしは、彼の顔を見た。
灯りの中で、何も浮かんでいない顔だった。
岩場の潮には、ほどけた端しか残っていない。
ウツロの潮記の、はじめの方の一行。残りは、淵のどこかに散っているはずだった。
十の彼が消した、お母さんの声と、顔と、最初の一字。いつか、誰かに読んでもらえるかもしれなかったもの。
「......それでも、やるの」
「あんたが器にならずに済む方法を、ほかに知ってるか」
わたしは、答えられなかった。
◇
「なら、残しましょう」
わたしは、背負い袋を開けた。
紙の束を出した。書庫で写しものをするために持ってきた、上等な紙。ウツロに渡した残りだった。まだ、指の厚み二つ分はあった。
「散る前に、書くの。この都の人たちが、実際に何を見たか」
イサナが、わたしを見た。
「書庫の証言録は、潮司庁が書き直してた。三十人が、三十人とも、同じ言い回しで。......だから、書き直されてない潮記を、一冊作るの。今夜のうちに。淵が混ざったら、残るのは、字になったものだけでしょう」
「一晩で、何人読めると思ってる」
「読めるだけ」
わたしは、筆を取った。墨を磨った。
「あなたが読んで、口で言う。わたしが書く。見たとおりにだけ。考えたことは書かない。......あなたが、門楼で教えてくれたやり方よ」
イサナは、長いこと黙っていた。
それから、立ち上がって、上衣を脱いだ。腰に縄を巻いて、その端を、わたしに渡した。
「井戸の底には、まだ何人もいる。夜番の衛兵と、その女房と、厨の連中と。......朝まで、潜っては上がる。上がったら、しゃべる。しゃべり終わったら、また潜る」
「百数えたら、引き上げる」
「引っ張らなくてもな」
◇
一人目は、厨の女だった。
「鍋が、ひっくり返ってる。湯が足にかかって、熱い。熱いのに、足元から冷たい水が来る。坊やはどこ。坊やは、裏の井戸で水を汲んでたはず。......水は、表からじゃない。王宮の奥から来る。なんで奥から。奥には、王さましかいないのに」
わたしは、書いた。
坊やはどこ。王宮の奥から来る。なんで奥から。
二人目は、夜番の衛兵の女房だった。
「あの人は、今夜は堤の番だった。夕方、手を振って出ていった。......堤の方から、音がする。石が落ちる音。一つ。二つ。数えてしまう。あの人は、あそこにいる」
三人目は、年寄りの書記だった。
イサナは、井戸から上がると、しばらく口をきかなかった。それから、言った。
「こいつは、ひと月前に、触れ書きの下書きを書かされてる。王宮の役人に言われて。海神の御怒りを鎮めんと、王は御身を捧げ給う。......都が沈む、ひと月前にだ」
わたしの筆が、止まった。
書庫で、三十人が同じ言い回しで言っていた一行。
「書け」
イサナが言った。濡れた髪から、水が垂れていた。
「見たとおりに。こいつが、それを書かされたところを、見たとおりに」
わたしは、書いた。
手が、震えなかった。震えさせなかった。
◇
夜が、更けていった。
井戸の縁の石が、イサナの濡れた体で黒く染まっていった。紙が、一枚ずつ、墨で埋まっていった。
何人目だったか、分からなくなった。
堤の番の衛兵。厨の坊や。王宮の庭師。石工の組の、見習い。
みんな、祭りのあとの夜に溺れていた。みんな、最後に空を見ていた。
そのあいだに、彼の潮帳に二行増えた。わたしは、それを写した。
ミオの名を、初めて口にした晩を、失くした。
門楼で、屋根の上から都を見た朝を、失くした。
「月がふたつ出てる」
庭師を読んだあとで、イサナは言った。
「祭りの夜みてえな月だ。白いのと、青いでかいの。......並んで、同じ高さに。水が、その月の方から来る」
わたしは、書いた。
月がふたつ。同じ高さに。
イサナは、井戸の縁に座りこんで、干し飯の包みを開けた。
ひと口噛んで、手を止めた。
包みの中の干し飯を、見下ろしていた。
半分に割った、干し飯の欠片を。
「......前にも、こうやって」
彼は言った。
「干し飯を、半分。誰かに、膝に置かれた。水門の、石の縁で。月がふたつ......」
言葉が、途中で途切れた。
イサナは、干し飯を見ていた。見ているうちに、目の中から、何かが引いていくのが分かった。潮が、岩を離れていくように。塩の白い線だけを残して。
「......なんだっけな」
彼は、首を傾げた。
「今、何か、思い出しかけてた」
わたしは、筆を持ったまま、動けなかった。
塩田の水門。濡れ鼠の少年。半分軽くなった瓢箪。上等な囮だったな、と彼は言った。四つは浮けるわ、とわたしは言った。明日の朝飯は、どこで食うかな、と彼は言った。わたしは答えるかわりに、干し飯を半分、彼の膝に置いた。
ふたつの月が、塩田の水の上に、二本の道を並べて敷いていた。
目の前で、それが溶けていった。
わたしは、見ていた。何もできなかった。
◇
イサナは、目を閉じた。
いつもの点検だった。唇が動いた。今日の中庭。玉座の間。トモ。浜。崖の段。杏。
港。塩田。
塩田、で、唇が止まった。
「......塩田の水門に、俺はいたか」
「いたわ」
わたしは言った。声が、自分のものではないようだった。
「祭りの前の晩。ハヤテ兄さまの人たちに追われて、港の下の水路を潜って。塩田の水門の脇に、上がってきた。わたしが見つけたの。それから、ふたりで、月が昇るのを見た」
イサナは、黙って聞いていた。
知らない二人の話を、聞く顔だった。
「......今夜の連中は、みんな、ふたつの月の下で溺れてた」
彼は、潮帳を開いて、筆を取った。
「似てたんだな」
――塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。
書き終えて、筆の尻で、一行を叩いた。
それから、もう一度、井戸の縁に手をかけた。
「あと、何人いける」
「......もう、いいわ」
「よくねえ。まだ、書けるだろ」
「書けるわ。でも」
イサナは、わたしの言葉を待たなかった。
縄を腰に確かめて、井戸の中へ下りていった。
◇
夜半を過ぎたころ、イサナは、井戸の縁で眠っていた。
座ったまま、首を落として。濡れた髪が、額に張りついていた。
わたしの膝の上には、紙の束があった。
二十三人分の、潮記だった。ウツロの潮記と同じくらいの厚みになっていた。
わたしは、自分の帳面を開いた。
彼の一行を、写した。
塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。
写し終えて、前の頁をめくった。今夜の、ほかの二行。
その前。浜木綿で、あんたと約束した晩を、失くした。
その前。港の入り江で、明日も来いと言った朝を、失くした。
その前。白潮院の潮溜まりで、あんたが四つ浮いた日を、失くした。彼が、彼の字で書き直した一行。
わたしの頁が、増えていくほど、彼の中から、わたしが減っていく。
眠る前に、彼が言ったことを、思い出していた。
二十三人目を書き終えて、筆を置いたときだった。
堰のどこを、どう外せばいいかは、ハルの親父しか知らねえ。
十の俺が読んで、消した男だ。
明日の朝、瓶口で、もう一度、丸ごと読む。
丸ごと、読んだら。
わたしが聞くと、彼は、干し飯の欠片を口に放りこんで、言った。
トモ爺みてえになるかもな。
何でもないことのように。明日の朝飯の話をするように。
◇
わたしは、帳面を閉じた。
紙の束を、油紙で包んだ。二十三人分の潮記を、イサナの膝の横に、そっと置いた。
それから、髪の紐をほどいた。
七つ編みを、一本ずつ、ほどいて、編み直した。指が、少しも迷わなかった。王宮の侍女に、六つの年から毎朝編ませていた髪を、今夜初めて、自分の手だけで編んだ。
編み終えて、紐を固く結んだ。
塀の上に、遅い月が、ようやく昇ってきた。
白い月と、遠月。今夜は、遠月の方が、少しだけ高かった。
イサナは、眠っていた。
わたしは、その寝顔を、しばらく見ていた。