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第18話 器

潮帳しおちょう――自分の生まれた日を、失くした。

 大潮司おおしおつかささまは、まずトモの前で足を止めた。
 カイリ兄さまの背中で、トモは柱の列を眺めていた。白い眉の下の目が、提灯の灯りを珍しそうに追っていた。

 大潮司さまは、その前で、深く頭を下げた。
 摂政が、白潮しらしおの老人に。

「トモ殿。長いお勤めでした」

 トモは、きょとんとした顔で、頭を下げ返した。

「そうかい。ご丁寧に」

 兄さまが、口を開いた。

「大潮司。トモが読んだ。これは、加護ではないと」
「ええ」

 大潮司さまは、顔を上げて、穏やかに頷いた。
 否定しなかった。驚きもしなかった。

「俺は、降りる」
「承りました。......殿下は、昔から正直なお方でした」

 兄さまは、しばらく大潮司さまを見ていた。
 それから、わたしの方を向いた。

「ミオ。俺は、浜にいる。トモを連れて上がる」

 それだけ言って、兄さまは、正面の大扉から出ていった。背中の上で、トモが、振り返りもせずに手をひらひらと振っていた。


◇


「ミオと、二人でお話をさせてくださいな」

 大潮司さまが言った。
 二人の神官が、提灯を柱の掛け金にかけて、イサナの方へ歩み寄った。

「俺は、こいつの潮読みしおよみだ」

 イサナが言った。動かなかった。

「こいつが聞くことは、俺も聞く」
「行って」

 わたしは言った。
 イサナが、振り向いた。

「わたしが、一人で聞く。聞いたことは、あとで全部話すわ。......わたしに向けた話なら、わたしが最初に受け取りたいの」

 イサナは、わたしの顔を見ていた。
 長いこと。それから、黙って、神官たちと一緒に大扉の方へ歩いていった。
 ユラ姉さまと、ウツロも、そのあとに続いた。ウツロは、扉の前で一度だけ振り返った。胸に抱えた帳面の角を、指でつまんでいた。

 大扉が、半分だけ閉まった。


◇


 大潮司さまは、玉座に座らなかった。
 玉座の段の、いちばん下の段に、腰を下ろした。膝の前で、手を重ねた。

 段の上に、カイリ兄さまが置いていった空の潮瓶しおがめが、ぽつんと残っていた。

「お座りなさいな。長いお話になります」

 わたしは、座らなかった。
 柱の前に立ったまま、言った。

「始祖王しそおうさまは、都を沈めたわ」
「存じております」

 答えは、すぐに返ってきた。

「自分で、堤を外して。石工たちを瓶口かめぐちで沈めて。民ごと」
「存じております」

 大潮司さまは、目を伏せなかった。
 わたしを、まっすぐに見ていた。宴の夜と同じ、目尻に皺を寄せた目で。

「あのお方は、この国で最初の、そして最も強い潮読みでした。ご自分の死期を知って、ご自分を残す器を探された。そして、この淵に、ご自分をお封じになった。民の記憶を重しにして。......ひどいことです。わたくしは、そう思っております」
「なら、どうして」
「国が、割れるからです」

 大潮司さまは、重ねた手を、少しだけ組み直した。

「仮王かりおうの代が、もう九十年続いております。島々は、互いに背を向けはじめました。潮瓶の値は、千尋屋ちひろやが決めております。陸の国の使節が、宴で何を求めたか、ご覧になりましたね。......あと十年、仮王の代が続けば、この国は、島の数だけに割れるでしょう」

 柱の間を、風が一度だけ通った。
 提灯の火が、傾いた。

「あのお方は、三百年のあいだに、二度お立ちになりました。二度とも、島々をひとつに束ねられました。長い長いご経験が、あのお方にはございます。わたくしには、ございません」

 大潮司さまは、少しだけ笑った。

「国がなければ、港の子も、白潮院しらしおいんの人々も、守れません。わたくしは、この国を守りたいのです。あのお方がお還りになれば、わたくしは摂政の座をお返しして、お仕えします。この身が要ると仰せなら、差し上げます」

 嘘ではない、と思った。
 この人は、本気で言っている。だから、怖かった。


◇


「潮試ししおだめしのことを、覚えていますと申しましたね」

 大潮司さまが言った。

「あの日、淵の潮にあれほど応えた子は、あなたが初めてでした。お泣きになって、震えて、それでも、泣き止んだあとで、水はどこから来るのかとお尋ねになった。......ご自分の考えをお持ちの子でした。今も、そうです」

 わたしは、自分の両手を見た。
 十五の娘の、指の細い手。この手が、あの老人の手になった日のことを、この人は、ずっと知っていた。

「あなたの縁談は、わたくしが止めておりました」

 大潮司さまは、静かに言った。

「泳げぬ姫と、陰で言わせておいたのも、わたくしです。あなたを、どこへもやらないために」

 わたしは、息ができなかった。
 宴の夜、手の甲に触れた、乾いた温かい手。泣いた王女を覚えていてくれた人がいた、と思った。

「瓢箪は、お役に立ちましたか」

 大潮司さまが、首を傾けた。

「部屋の卓に置かせたものも。扉の奥のものも。扉の閂を抜いたのは、支度のために淵に入った、わたくしの神官です。......イサナの名簿をお見せしたのも、わたくしでした。封の先を知りたい子は、どこまでも潜りますから。あの子なら、あなたをここまでお連れすると思いました」
「あの人が、何を失くしてきたか、知ってて」
「ええ」

 大潮司さまは、そこで初めて、目を伏せた。

「あの子には、すまないと思っております。十の年から、ずっと」


◇


「選んでいただきたいのです」

 大潮司さまは、顔を上げた。

「今、ここで、ご自分でお決めになるか。お決めにならないか」
「何を」
「あのお方の器になることを」

 その言葉は、柔らかかった。
 柔らかいまま、胸の真ん中に落ちてきた。

「今お決めになるなら、あなたのお言葉で、条件をおっしゃれます。わたくしは、それを聞き入れます。お約束します」
「......決めなかったら」
「祭りのあと、あなたは潮送りしおおくりになります」

 大潮司さまは、少しも声の調子を変えなかった。

「潮送りのことを、お話ししなければなりませんね。......あれは、神官になる儀式ではありません。濃い潮で、その方の中身を、壊すのです。記憶ではなく、その方そのものを。体は残ります。奥院おくのいんで、長く生きます。あのお方の器が、万が一、早く損なわれたときのために」

 柱の石が、背中に冷たかった。
 いつの間にか、背中をつけていた。

「そうなれば、どちらにしても、あのお方は、あなたの中へお還りになります。ただ、そのときには、あなたはもう、何もおっしゃれません」

 わたしは、口を開いた。
 声が、出るまでに、時間がかかった。

「......サヨ姉さまは」

 大潮司さまは、答える前に、ほんの少しだけ間を置いた。

「奥院におります。三年前から」
「手紙を、書くって」
「書けなかったのです。あの子の中に、もう、書く人がおりませんから」

 大潮司さまは、重ねた手を、ほどかなかった。

「奥院では、そういう方々を、空蝉うつせみと呼んでおります」


◇


 わたしは、立っていた。
 立っていることだけを、していた。

 泣かないこと。泳げなくても、あなたは溺れない子だから。
 姉さまの最後の手紙の字を、覚えていた。月の欠ける晩が、三十六回来た。一通も来なかった。
 書く人が、いなかった。

「ミオ」

 大潮司さまが、段から立ち上がった。
 わたしの前まで歩いてきた。小柄な人だった。わたしより、少しだけ背が低かった。

 乾いた、温かい手が、わたしの手を包んだ。
 宴の夜と同じ手だった。

「あなたなら、この国を救える」

 わたしは、手を引かなかった。
 引けなかった。

「......満ち始めまで」

 やっと出た声は、自分の声に聞こえなかった。

「満ち始めまで、返事を待って」

 大潮司さまは、わたしの手を離した。
 目尻に皺を寄せて、頷いた。

「満ち始めの儀は、明日の朝の潮どきです。それまで、お待ちします。......瓶に汲む読み手は、こちらでご用意いたします。あなたの潮読みは、腕がよいそうですね」

 その最後の一言が、何を意味するのか。
 わたしが気づいたのは、大潮司さまが柱の間を歩み去って、玉座の段の上の空の潮瓶を、そっと手に取ったあとだった。


◇


 大扉の外の回廊で、ユラ姉さまが待っていた。
 柱に寄りかからず、まっすぐに立って。淡い水色の衣の裾が、乾いた石の床に広がっていた。

「お聞きになりましたね」

 姉さまは言った。宴のときより、ずっと優しい声で。

「姉さまは、知ってたの」
「ええ」

 姉さまは、微笑んだ。
 神殿の祭壇の前で、お還りになります、と言ったときと、同じ微笑みだった。

「大潮司さまが、わたくしを表の候補にお立てになったのは、あなたを隠すためです。わたくしは、それを承知でお引き受けしました」
「どうして」
「あのお方がお還りになるのなら、それをお迎えするのが誰であっても、同じことですから」

 姉さまは、胸の前で指を組んだ。

「わたくしは、あなたの影です。あなたが日向を歩けるように、わたくしが前に立つ。......それが、わたくしにいただけたお役目でした。わたくしでなかったことだけが、少し、心残りですけれど」

 わたしは、何も言えなかった。
 姉さまは、本気で言っていた。大潮司さまと同じように。

 姉さまの後ろで、ウツロが、帳面を胸に抱えていた。
 表紙の角から、紙の舟の端が、少しだけのぞいていた。


◇


 回廊の角を曲がると、イサナがいた。
 壁に背中を預けて、腕を組んでいた。神官たちは、少し離れたところで、提灯を持って立っていた。

 イサナは、わたしの顔を見た。
 何も聞かなかった。

「......話すわ」

 わたしは言った。

「全部。約束したから。でも、その前に、一つだけ」
「なんだ」
「満ち始めまで、返事を待ってもらったの」

 イサナの腕が、ほどけた。

「何の、返事だ」

 わたしは、答えなかった。
 答えるかわりに、背負い袋から帳面を出して、一頁目を開いた。読むかどうかは、俺が決める。玉座の淵には、潜らない。

 その二行の下に、今日の日付を書いた。
 四日目。干底ひぞこ。
 それ以上は、手が動かなかった。
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【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
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第18話 器

潮帳しおちょう――自分の生まれた日を、失くした。

 大潮司おおしおつかささまは、まずトモの前で足を止めた。
 カイリ兄さまの背中で、トモは柱の列を眺めていた。白い眉の下の目が、提灯の灯りを珍しそうに追っていた。

 大潮司さまは、その前で、深く頭を下げた。
 摂政が、白潮しらしおの老人に。

「トモ殿。長いお勤めでした」

 トモは、きょとんとした顔で、頭を下げ返した。

「そうかい。ご丁寧に」

 兄さまが、口を開いた。

「大潮司。トモが読んだ。これは、加護ではないと」
「ええ」

 大潮司さまは、顔を上げて、穏やかに頷いた。
 否定しなかった。驚きもしなかった。

「俺は、降りる」
「承りました。......殿下は、昔から正直なお方でした」

 兄さまは、しばらく大潮司さまを見ていた。
 それから、わたしの方を向いた。

「ミオ。俺は、浜にいる。トモを連れて上がる」

 それだけ言って、兄さまは、正面の大扉から出ていった。背中の上で、トモが、振り返りもせずに手をひらひらと振っていた。


◇


「ミオと、二人でお話をさせてくださいな」

 大潮司さまが言った。
 二人の神官が、提灯を柱の掛け金にかけて、イサナの方へ歩み寄った。

「俺は、こいつの潮読みしおよみだ」

 イサナが言った。動かなかった。

「こいつが聞くことは、俺も聞く」
「行って」

 わたしは言った。
 イサナが、振り向いた。

「わたしが、一人で聞く。聞いたことは、あとで全部話すわ。......わたしに向けた話なら、わたしが最初に受け取りたいの」

 イサナは、わたしの顔を見ていた。
 長いこと。それから、黙って、神官たちと一緒に大扉の方へ歩いていった。
 ユラ姉さまと、ウツロも、そのあとに続いた。ウツロは、扉の前で一度だけ振り返った。胸に抱えた帳面の角を、指でつまんでいた。

 大扉が、半分だけ閉まった。


◇


 大潮司さまは、玉座に座らなかった。
 玉座の段の、いちばん下の段に、腰を下ろした。膝の前で、手を重ねた。

 段の上に、カイリ兄さまが置いていった空の潮瓶しおがめが、ぽつんと残っていた。

「お座りなさいな。長いお話になります」

 わたしは、座らなかった。
 柱の前に立ったまま、言った。

「始祖王しそおうさまは、都を沈めたわ」
「存じております」

 答えは、すぐに返ってきた。

「自分で、堤を外して。石工たちを瓶口かめぐちで沈めて。民ごと」
「存じております」

 大潮司さまは、目を伏せなかった。
 わたしを、まっすぐに見ていた。宴の夜と同じ、目尻に皺を寄せた目で。

「あのお方は、この国で最初の、そして最も強い潮読みでした。ご自分の死期を知って、ご自分を残す器を探された。そして、この淵に、ご自分をお封じになった。民の記憶を重しにして。......ひどいことです。わたくしは、そう思っております」
「なら、どうして」
「国が、割れるからです」

 大潮司さまは、重ねた手を、少しだけ組み直した。

「仮王かりおうの代が、もう九十年続いております。島々は、互いに背を向けはじめました。潮瓶の値は、千尋屋ちひろやが決めております。陸の国の使節が、宴で何を求めたか、ご覧になりましたね。......あと十年、仮王の代が続けば、この国は、島の数だけに割れるでしょう」

 柱の間を、風が一度だけ通った。
 提灯の火が、傾いた。

「あのお方は、三百年のあいだに、二度お立ちになりました。二度とも、島々をひとつに束ねられました。長い長いご経験が、あのお方にはございます。わたくしには、ございません」

 大潮司さまは、少しだけ笑った。

「国がなければ、港の子も、白潮院しらしおいんの人々も、守れません。わたくしは、この国を守りたいのです。あのお方がお還りになれば、わたくしは摂政の座をお返しして、お仕えします。この身が要ると仰せなら、差し上げます」

 嘘ではない、と思った。
 この人は、本気で言っている。だから、怖かった。


◇


「潮試ししおだめしのことを、覚えていますと申しましたね」

 大潮司さまが言った。

「あの日、淵の潮にあれほど応えた子は、あなたが初めてでした。お泣きになって、震えて、それでも、泣き止んだあとで、水はどこから来るのかとお尋ねになった。......ご自分の考えをお持ちの子でした。今も、そうです」

 わたしは、自分の両手を見た。
 十五の娘の、指の細い手。この手が、あの老人の手になった日のことを、この人は、ずっと知っていた。

「あなたの縁談は、わたくしが止めておりました」

 大潮司さまは、静かに言った。

「泳げぬ姫と、陰で言わせておいたのも、わたくしです。あなたを、どこへもやらないために」

 わたしは、息ができなかった。
 宴の夜、手の甲に触れた、乾いた温かい手。泣いた王女を覚えていてくれた人がいた、と思った。

「瓢箪は、お役に立ちましたか」

 大潮司さまが、首を傾けた。

「部屋の卓に置かせたものも。扉の奥のものも。扉の閂を抜いたのは、支度のために淵に入った、わたくしの神官です。......イサナの名簿をお見せしたのも、わたくしでした。封の先を知りたい子は、どこまでも潜りますから。あの子なら、あなたをここまでお連れすると思いました」
「あの人が、何を失くしてきたか、知ってて」
「ええ」

 大潮司さまは、そこで初めて、目を伏せた。

「あの子には、すまないと思っております。十の年から、ずっと」


◇


「選んでいただきたいのです」

 大潮司さまは、顔を上げた。

「今、ここで、ご自分でお決めになるか。お決めにならないか」
「何を」
「あのお方の器になることを」

 その言葉は、柔らかかった。
 柔らかいまま、胸の真ん中に落ちてきた。

「今お決めになるなら、あなたのお言葉で、条件をおっしゃれます。わたくしは、それを聞き入れます。お約束します」
「......決めなかったら」
「祭りのあと、あなたは潮送りしおおくりになります」

 大潮司さまは、少しも声の調子を変えなかった。

「潮送りのことを、お話ししなければなりませんね。......あれは、神官になる儀式ではありません。濃い潮で、その方の中身を、壊すのです。記憶ではなく、その方そのものを。体は残ります。奥院おくのいんで、長く生きます。あのお方の器が、万が一、早く損なわれたときのために」

 柱の石が、背中に冷たかった。
 いつの間にか、背中をつけていた。

「そうなれば、どちらにしても、あのお方は、あなたの中へお還りになります。ただ、そのときには、あなたはもう、何もおっしゃれません」

 わたしは、口を開いた。
 声が、出るまでに、時間がかかった。

「......サヨ姉さまは」

 大潮司さまは、答える前に、ほんの少しだけ間を置いた。

「奥院におります。三年前から」
「手紙を、書くって」
「書けなかったのです。あの子の中に、もう、書く人がおりませんから」

 大潮司さまは、重ねた手を、ほどかなかった。

「奥院では、そういう方々を、空蝉うつせみと呼んでおります」


◇


 わたしは、立っていた。
 立っていることだけを、していた。

 泣かないこと。泳げなくても、あなたは溺れない子だから。
 姉さまの最後の手紙の字を、覚えていた。月の欠ける晩が、三十六回来た。一通も来なかった。
 書く人が、いなかった。

「ミオ」

 大潮司さまが、段から立ち上がった。
 わたしの前まで歩いてきた。小柄な人だった。わたしより、少しだけ背が低かった。

 乾いた、温かい手が、わたしの手を包んだ。
 宴の夜と同じ手だった。

「あなたなら、この国を救える」

 わたしは、手を引かなかった。
 引けなかった。

「......満ち始めまで」

 やっと出た声は、自分の声に聞こえなかった。

「満ち始めまで、返事を待って」

 大潮司さまは、わたしの手を離した。
 目尻に皺を寄せて、頷いた。

「満ち始めの儀は、明日の朝の潮どきです。それまで、お待ちします。......瓶に汲む読み手は、こちらでご用意いたします。あなたの潮読みは、腕がよいそうですね」

 その最後の一言が、何を意味するのか。
 わたしが気づいたのは、大潮司さまが柱の間を歩み去って、玉座の段の上の空の潮瓶を、そっと手に取ったあとだった。


◇


 大扉の外の回廊で、ユラ姉さまが待っていた。
 柱に寄りかからず、まっすぐに立って。淡い水色の衣の裾が、乾いた石の床に広がっていた。

「お聞きになりましたね」

 姉さまは言った。宴のときより、ずっと優しい声で。

「姉さまは、知ってたの」
「ええ」

 姉さまは、微笑んだ。
 神殿の祭壇の前で、お還りになります、と言ったときと、同じ微笑みだった。

「大潮司さまが、わたくしを表の候補にお立てになったのは、あなたを隠すためです。わたくしは、それを承知でお引き受けしました」
「どうして」
「あのお方がお還りになるのなら、それをお迎えするのが誰であっても、同じことですから」

 姉さまは、胸の前で指を組んだ。

「わたくしは、あなたの影です。あなたが日向を歩けるように、わたくしが前に立つ。......それが、わたくしにいただけたお役目でした。わたくしでなかったことだけが、少し、心残りですけれど」

 わたしは、何も言えなかった。
 姉さまは、本気で言っていた。大潮司さまと同じように。

 姉さまの後ろで、ウツロが、帳面を胸に抱えていた。
 表紙の角から、紙の舟の端が、少しだけのぞいていた。


◇


 回廊の角を曲がると、イサナがいた。
 壁に背中を預けて、腕を組んでいた。神官たちは、少し離れたところで、提灯を持って立っていた。

 イサナは、わたしの顔を見た。
 何も聞かなかった。

「......話すわ」

 わたしは言った。

「全部。約束したから。でも、その前に、一つだけ」
「なんだ」
「満ち始めまで、返事を待ってもらったの」

 イサナの腕が、ほどけた。

「何の、返事だ」

 わたしは、答えなかった。
 答えるかわりに、背負い袋から帳面を出して、一頁目を開いた。読むかどうかは、俺が決める。玉座の淵には、潜らない。

 その二行の下に、今日の日付を書いた。
 四日目。干底ひぞこ。
 それ以上は、手が動かなかった。
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