第17話 玉座の淵
潮帳――初めて潜りを断った日を、失くした。
垂れ幕をくぐると、カイリ兄さまの手が、刀の柄にかかった。
それから、ゆっくりと離れた。
「ミオか」
兄さまは、片膝をついたまま、わたしたちを見た。
驚いた顔ではなかった。来るだろうと思っていた、という顔だった。
「玉座の裏から来たのか。......よく見つけたな」
「イサナが、見つけたの」
「そうか」
兄さまは、それだけ言って、玉座の淵に目を戻した。
トモが、腰の縄の結び目から顔を上げた。
白い眉の下で、目が笑った。
「よう、舐め師。約束は守ってるか」
「......覚えてねえ」
イサナは言った。
「こいつの帳面に書いてある。玉座の淵には潜らねえ、と」
「覚えてねえのに、守ってんのか」
「書いてあるからな」
トモは、喉の奥で笑った。痰の絡んだ、長い笑いだった。浜木綿で聞いたのと同じ笑いだった。
あの晩、浜木綿でその笑いを聞いたことを、イサナは、もう覚えていない。
◇
「先に着いた」
兄さまが言った。立ち上がって、わたしの方を向いた。
「だから、先に潜る。文句はあるか、ミオ」
「......ないわ」
ない、と言った。
規則のとおりだった。兄さまは、卑怯なことを何ひとつしていない。一番乗りの朝からずっと、正面の道を歩いてきた人だった。
兄さまの腰に、小さな瓶が一つ下がっていた。
素焼きの、空の潮瓶だった。
「トモが読んで、この瓶に吐き戻す。満ち始めの朝に、それを俺が飲む。古い決まりだそうだ」
兄さまが王になれば、わたしは潮送りになる。
奥院へ。サヨ姉さまのところへ。
わたしは、それを知っていて、黙って立っていた。ほかに、できることがなかった。
「舐め師」
トモが、縄の端を兄さまに渡しながら言った。
「玉座の淵にだけは潜るな、と俺は言ったな。門楼で」
「門楼のは、覚えてる。酒場のは、覚えてねえ」
「なら、もう一度言う。潜るな。......それから、見とけ。なんでか、分かる」
トモは、淵の縁に腰を下ろした。
足を、黒い水に入れた。膝まで。腰まで。
水は、音を立てなかった。
波紋も、ほとんど立たなかった。重たい油の中へ沈んでいくように、トモの白い頭が、黒い水面の下へ消えた。
◇
兄さまが、縄を握っていた。
イサナが、声に出さずに数えていた。唇だけが動いていた。
わたしは、淵の縁から二歩離れたところに立っていた。
近づきたくなかった。足が、勝手にそこで止まっていた。
水面が、動いた。
トモの潜ったところではなかった。わたしの立っている側の縁で、黒い水が、細かく震えていた。
わたしは、一歩下がった。
震えが、ついてきた。水面の小さな皺が、縁のこちら側へ、こちら側へと寄ってきた。
「......イサナ」
イサナが、数えるのを止めた。
わたしの足元を見た。黒い水を見た。
「下がってろ。もっと」
わたしは、柱の陰まで下がった。
水面の皺は、縁のところで、ずっとわたしの方を向いたまま、震えていた。
縄が、引かれた。
◇
兄さまが、縄を手繰った。
一度。二度。腕の筋が、衣の上からでも分かるほど張っていた。
トモの頭が、水から出た。
兄さまが、脇の下に腕を入れて、縁の上へ引き上げた。
トモは、石の床に仰向けになった。
咳をしなかった。水を吐かなかった。ただ、口を開けて、息をしていた。
長い、深い息だった。
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。一つの息に、ひどく時間がかかった。トモの息ではなかった。浜木綿で、干し烏賊を噛みながら背中で聞いた、あの痰の絡んだ息ではなかった。
わたしは、その息を知っていた。
トモの右手が、持ち上がった。
節くれだって、皺だらけの指。それが、空の中で、ゆっくりと何かをつかもうとしていた。自分の意思ではない形で。指の一本ずつが、確かめるように、曲がっていった。
六つの年。潮司庁の、天井の高い部屋。
一滴の潮。
わたしの手が、わたしの手でなくなった日。
「......あのときの」
声が、勝手に出ていた。
「あのときの、おじいさん」
◇
「トモ。吐け」
兄さまが、腰の潮瓶の栓を抜いて、トモの口元へ差し出した。
トモの手が、動いた。
今度は、トモの手の動き方だった。瓶を、横へ押しのけた。
「......入れるな、若様」
トモの声だった。掠れて、途切れていた。それでも、あのべらんめえの声だった。
「こいつを、瓶に入れるな。......入れたら、若様が飲むことになる」
「何を読んだ」
「こいつは、加護じゃねえ」
トモは、天井の穴を見ていた。
その目が、ときどき、ふっと遠くなった。遠くなるたびに、あの長い息が戻ってきた。そのたびに、トモは歯を食いしばって、自分の息を取り返した。
「次の体を、待ってる。......飲んだ奴の中身を、端から押し出して、そこに居座る気だ。前の真王も、その前の真王も、中身は、こいつだ」
兄さまの手が、瓶を持ったまま止まった。
「賢くなったんじゃねえ。人が変わったみてえだと、記録にあるだろうが。......変わったんだよ。中身が。同じ爺が、三度目の真王をやろうとしてやがる」
トモの首が、ゆっくりと横を向いた。
柱の陰の、わたしの方へ。
「それでな。......こいつ、さっきから、そっちばっかり向いてやがる」
トモの右手が、また持ち上がりかけた。わたしの方へ。
トモは、左手で、自分の右手首をつかんで押さえた。
「俺の中から、あっちへ行きてえって、引っ張りやがる。......若え頃、潮試しの潮を汲む手伝いをしたことがある。この淵から汲んで、薄めるんだ。王族の子に舐めさせる。......なんのためか、今、分かった」
トモの目が、わたしを見ていた。
トモの目で。まだ。
「一番よく馴染む器は、そこの泳げねえ姫だ」
◇
わたしは、柱に背中をつけていた。
柱の石が冷たかった。それしか、分からなかった。
泳げない、欠陥の姫。
水に顔をつけると、あの人が戻ってくる気がする。九年間、そう言い続けてきた。誰も、本気にしなかった。潮酔いだ、と言われた。弱い子だ、と。
弱かったのではなかった。
あの人が、わたしの中に、入りやすかったのだ。
イサナが、わたしの前に立っていた。
いつの間にか。淵とわたしの間に。背中しか見えなかった。何も言わなかった。
◇
「トモ」
兄さまが、瓶を床に置いた。
「なら、どうする。吐かなければ、お前の中で」
「吐かねえで、消えるまで抱えとく」
トモは、笑おうとした。
口の端が、少しだけ持ち上がった。
「俺の中で、こいつを溶かす。こいつが溶けるのと一緒に、俺の残りも溶ける。どうせ、白くなりかけだ。残りなんざ、たいしてねえ」
「トモ」
「若様は、名前で呼んでくれるお人だ」
トモの手が、兄さまの袖をつかんだ。
自分の手で。
「そのお人の中身を、こんな爺に明け渡させてたまるか。......最後の仕事だ。でけえ仕事だろうが」
兄さまは、答えなかった。
袖をつかまれたまま、膝をついていた。
「若様」
「なんだ」
「最後に、名前を」
兄さまは、トモの手を、両手で包んだ。
武人の、大きな手だった。
「トモ」
トモは、目を閉じた。
長い息が、一度だけ、戻ってきた。それから、それよりずっと短い、痰の絡んだ息が、一つ。
「......ああ。いい名前だ」
それきり、トモは何も言わなかった。
◇
どれくらい経ったのか、分からなかった。
天井の穴から差す光が、柱一本ぶん、動いていた。
トモが、目を開けた。
白い眉の下の目が、兄さまを見た。わたしを見た。イサナを見た。
どの顔にも、止まらなかった。
「......あんた、誰だい」
トモは、兄さまに言った。
穏やかな声だった。白潮院の縁側の老人と、同じ声だった。
「ここは、どこだい。ずいぶん、広えとこだな」
兄さまは、トモの手を包んだまま、しばらく動かなかった。
それから、答えた。
「カイリだ。......あなたの、雇い主だった」
「そうかい。ご苦労さん」
トモは、また天井を見た。
あの長い息は、もう戻ってこなかった。右手は、床の上で、ただ静かに開いていた。
◇
兄さまが、立ち上がった。
床の潮瓶を拾い上げた。空のままの瓶を、しばらく見ていた。
「俺は、降りる」
誰に言うともなく、兄さまは言った。
「これが加護でないなら、俺は、トモを使って化け物を飲むところだった。......そんな王位は、要らん」
兄さまは、瓶を腰に戻さなかった。
玉座の段の上に、そっと置いた。
それから、トモの前にしゃがんで、その体を背中に負った。
トモは、されるままになっていた。兄さまの肩の上から、珍しそうに柱の列を眺めていた。
わたしは、柱から背中を離した。
膝が、笑っていた。それでも、立った。
わたしは、帳面を開いた。トモが言ったことを、見たとおりに書いた。
加護じゃねえ。次の体を待ってる。一番よく馴染む器は――
そこで、筆が止まった。
淵の縁の水面は、もう震えていなかった。
黒く、静かに、ただそこにあった。待っているように。
◇
足音がしたのは、そのときだった。
玉座の間の、正面の大扉の方からだった。
扉の隙間から、灯りが差しこんできた。
提灯だった。潮司庁の紋の入った提灯が、二つ。それを掲げた神官が、二人。
その間を、小柄な人影が歩いてきた。
灰色の衣。低く結った白い髪。膝の前で重ねた手。
大潮司さまだった。
その後ろに、淡い水色の衣が見えた。ユラ姉さまだった。
姉さまの半歩後ろに、半分白い髪の少女がいた。胸に、小さな帳面を抱えていた。
「皆さま」
大潮司さまの声が、柱の間を渡ってきた。
大きな声ではなかったのに、広間の隅々まで届いた。宴の夜と、同じように。
「ご無事で、何よりでした」