第16話 四日目・王宮へ
潮帳――浜木綿で、あんたと約束した晩を、失くした。
干底の都には、水の音がなかった。
四日かけて引いた淵は、もう引くものを残していなかった。屋根の街も、市場も、神殿区の参道も、すっかり空の下に出て、朝の光で乾きはじめていた。
わたしたちは、干上がった大通りを、王宮へ向かって歩いていた。
石畳のあちこちに、魚の骨が落ちていた。引いていく水に取り残された、この四日の魚だった。踏むたびに、乾いた音がした。
イサナは、浜を出てから一度も口をきいていなかった。
わたしも、聞かなかった。崖の途中の段で、二人がどんなふうに座っていたかは、帳面に書いてある。それで足りた。
「急ぐぞ」
神殿区の外壁の角を曲がったとき、イサナがようやく言った。
「カイリ組は、とっくに王宮の中だ。一日と、夜一つ、遅れてる」
「分かってる」
「分かってる奴の足は」
「もう少し動くもんだ、でしょう。知ってるわ」
イサナが、横目でわたしを見た。
何か言いかけて、やめた。そのかわり、歩く速さを、ほんの少しだけ落とした。
◇
王宮の北の塀は、見上げるほど高かった。
塀の下の石畳は、ほかのどこよりも低くて、そこだけ潮溜まりがいくつも残っていた。干底の日射しの下で、溜まりの水は、ぬるく光っていた。
塀の根もとに、低い穴が口を開けていた。
入口の石に、印が刻まれていた。丸の中に、三本の横線。
「ハルの坑道だ」
イサナが言った。
わたしは帳面を開いて、道順の頁を確かめた。北の塀の下。丸に三本線。左の坂。中庭。ハル。石工の棟梁の娘。櫛。
数日のうちに、イサナの中から消えていく名前だった。
そのとき、塀の下の潮溜まりが、ふくらんだ。
一つではなかった。
溜まりという溜まりから、水が立ち上がっていった。二日目の市場で見たものより、ずっと多かった。背の高いもの。槍を持つような形をしたもの。盾を構えたような形をしたもの。
王宮の兵たちだ、と思った。三百年前、この塀を守っていた人たち。
顔のない顔が、一斉にこちらを向いた。
「坑道へ入れ」
イサナが、わたしの背中を押した。
「あいつらは、溜まりから離れると遅くなる。中まで追ってくる前に」
「待って」
わたしは、坑道の入口で立ち止まった。
入口の中の、石の床にも、細い水の筋が流れていた。溜まりから溜まりへ、坑道の奥へと。
後ろで、別の足音がした。
水の足ではなかった。石畳を踏む、革の靴の音。
「やあ。道案内、ご苦労さま」
ハヤテ兄さまだった。
塀の角から、頭巾の者を一人連れて、ゆっくりと歩いてきた。上衣の袖に、乾いた泥がこびりついていた。
「今日は舟がないんでね。歩いて、君たちの後ろをついてきた。うちの子に、君たちが入った穴の水を舐めさせれば、中の道も分かる。......前にもやったろ? 禁じられちゃいない」
潮霊たちが、兄さまの方も向いた。
兄さまは、真水の小瓶を一本、指に挟んで振ってみせた。千尋屋の印の入った、細い瓶だった。
わたしは、背負い袋から瓢箪を出した。
扉の奥に置かれていた、二つ目の瓢箪。まだ、一滴も使っていなかった。
「イサナ、先に入って」
「何する気だ」
「港でやったことを、もう一回やるだけ」
わたしは、坑道の中へ一歩入ってから、栓を抜いた。
入口の敷居に沿って、瓢箪を傾けた。真水が、石の床の上を、細い線になって横切った。溜まりから坑道の奥へ流れていた水の筋に、透明な水が混じっていった。
坑道の外で、潮霊たちが止まった。
敷居の手前で、水の足が、ためらうように揺れた。一つが、線を越えようとして、足の先がほどけた。
「......ぺっ」
頭巾の者が、しゃがみこんで、敷居の外の水を舐めていた。
それから、吐き出した。
「若旦那。薄い。中の筋が、読めねえ」
兄さまが、わたしを見た。
それから、声を立てずに笑った。
「またそれか、姫さん」
「真水は、誰かにいただいたものなの」
わたしは、瓢箪の栓を戻した。半分ほどが、残っていた。
「兄さまは、ご自分で買ったものを使えばいいわ」
潮霊たちが、向きを変えて、兄さまの方へ寄っていった。背中で、小瓶の栓を抜く音がした。
背中で、イサナの足音が、坑道の奥へ遠ざかっていった。
わたしは、振り返らずに、その音を追った。
◇
坑道は、ハルの記憶のとおりだった。
低くて、湿っていて、石の粉の匂いがした。
途中で、二つに分かれていた。
右は、倉。左は、上り坂。
わたしたちは、左を上った。
坂を上りきると、光があった。
石畳の中庭だった。四方を、高い塀と、王宮の壁に囲まれていた。石畳の上に、割りかけの石が、いくつも転がっていた。鑿の跡が、まだ白く残っていた。
ハルが、父親に弁当を届けた場所。
わたしは、中庭の真ん中に立って、塀の上の空を見上げた。塀の向こうに、灰色の堤の背が見えるはずだった。
見えなかった。堤は、もう、崩れた石の山になっていた。
「......道は、ここまでだ」
イサナが、中庭をぐるりと見回した。
「ハルが知ってたのは、この中庭までだ。この先の王宮の奥へは、石工の娘は入れねえ」
中庭から王宮の中へ通じる扉は、三つあった。
二つは、崩れた石で塞がっていた。三つ目は、扉の向こうが、天井ごと落ちていた。
中庭の隅に、井戸があった。
石の縁に囲まれた、深い井戸だった。のぞきこむと、底の方に、黒い水が光っていた。干底の日にも、乾いていなかった。
イサナは、その縁に手をついた。
「ここで、潜る」
わたしは、息を止めた。
「潜り、って」
「舐めでも含みでも、一人分しか取れねえ。一人分じゃ、この先は分からねえ。王宮の奥を知ってる奴を、何人か、まとめて読む」
「何人も読めば、その分」
「溶ける。知ってる」
イサナは、上衣を脱いだ。腰に縄を巻いて、その端を、わたしに渡した。
「引っ張ったら、引き上げろ。引っ張らなくても、百数えたら引き上げろ」
読むかどうかは、俺が決める。
わたしの帳面の、一頁目の字。
わたしは、縄を握った。何も言わなかった。
◇
イサナは、井戸の縁を越えて、石の出っ張りに足をかけながら下りていった。
水に、肩まで浸かった。
それから、頭まで沈んだ。
わたしは、縄を握って、数えた。
一つ。二つ。
縄が、震えた。
引っ張られたのではなかった。下で、何かが、何度も向きを変えていた。右へ。左へ。
二十。三十。
井戸の底から、泡が上がってきた。
その泡の弾ける音に混じって、声がした気がした。一人ではなかった。何人もの、低い声が、揃って何かを唱えていた。
わたしには、聞き取れなかった。
五十。六十。
縄が、急に重くなった。
わたしは、両手で縄を引いた。足を井戸の縁に踏ん張って、引いた。
イサナの頭が、水から出た。
咳きこんでいた。水を吐いていた。それでも、右手が、胸の上に置かれていた。拳を握って、左の胸に当てていた。誰かに、何かを誓うときの形だった。
その手が、ほどけるまで、しばらくかかった。
◇
「......衛兵だ」
井戸の縁に背中を預けて、イサナは言った。
息が、まだ整っていなかった。
「王宮の、夜番の衛兵。五人か、六人か。みんな、同じ水で溺れてる。......みんな、同じことを誓ってた。王のために、この身を。お役目を。一生を」
彼は、右手を見下ろした。
まだ、少しだけ拳の形が残っていた。
「道は取れた。井戸の裏の、塀の下に、石段がある。下りると、夜番の通路だ。王宮の奥を、壁の中を通って回ってる。いちばん奥の出口は、玉座の間の、玉座の裏だ。垂れ幕の陰に出る」
わたしは、帳面に書いた。
井戸の裏。石段。夜番の通路。玉座の裏。垂れ幕。
それから、書き足した。衛兵。五人か六人。誓い。
イサナは、目を閉じた。
唇が動いた。昨日の夕飯。浜。崖の段。杏。
石工の町。ウツロ。紙の舟。
神殿区。市場。門楼。
港。
そこで、唇が止まった。
長い間があった。
イサナは、目を開けて、わたしを見た。
「......あんたと、俺は」
彼は言った。ゆっくりと。
「どこで、組むことになった」
わたしは、縄を握ったままだった。
手のひらに、縄の目が食いこんでいた。
「誓いだな」
イサナは、自分で答えた。
「衛兵どもの誓いに、似てるもんが溶けた。......俺は、あんたに、何か約束してる。それは分かる。何を約束したのかが、出てこねえ」
わたしは、縄を下ろした。
背負い袋から、帳面を出した。一頁目を、開いた。
港の酒場。浜木綿。天井に溜まった網の匂い。トモの伏せた盃。四つに折った名簿の写し。
あの晩、わたしが、この頁に書いた字。
読み上げた。
「読むかどうかは、俺が決める」
イサナの目が、わずかに動いた。
「玉座の淵には、潜らない」
わたしは、帳面を閉じなかった。
開いたまま、彼の方へ向けた。
「あなたが言ったの。浜木綿で。わたしが書いた。トモが笑ってた。この姫さん気に入ったぜ、てめえの負けだ、って」
イサナは、その二行を見ていた。
わたしの字だった。彼の言葉だった。
「......俺が、言ったのか」
「言ったわ」
「玉座の淵には、潜らない、と」
「そう。それが呑めないなら、この話はなしだって」
イサナは、しばらく黙っていた。
それから、懐から潮帳を出した。油紙を解いて、筆を取った。
――浜木綿で、あんたと約束した晩を、失くした。
書き終えて、筆の尻で、一行を叩いた。
それから、手を出した。
「そいつを、貸せ」
◇
わたしは、帳面を渡した。
イサナは、一頁目を、もう一度読んだ。自分の言葉を。
それから、頁をめくっていった。
酒場で写した、彼の昔の喪失の数十行。
嵐の夜。屋台の朝。港の路地。
その一行ずつに、彼の指が、少しずつ止まった。
二日目の夜の頁で、指が止まった。
白潮院の潮溜まりで、わたしが四つ浮いた日を、失くした。
イサナは、その一行を、長いこと見ていた。
わたしは、息をするのを忘れていた。
「......これは」
彼は言った。
「俺の字を写したもんじゃねえな」
わたしは、答えなかった。
「俺は、これを書いてねえ。俺の帳面に、この一行はねえ」
イサナが、顔を上げた。
怒っている顔ではなかった。港の塩田で、鯵の話をしたときの顔とも、違った。
「なんで、言わなかった」
井戸の底で、水が一滴、落ちる音がした。
「......言ったら、あなたは次から、読むのをためらうと思った」
わたしは言った。自分の声が、思っていたより小さかった。
「わたしのために読んで、わたしのことを失くす。それが分かったら。......あなたが読むかどうかを決めるのに、わたしが邪魔をしたくなかった」
「それで、自分で書いたのか」
「あなたは、自分では書けなかったもの。何を失くしたのか、知らなかったんだから」
イサナは、わたしの帳面を膝に置いた。
自分の潮帳を、その横に開いた。今日の一行の下に、筆を置いた。
わたしの帳面を見ながら、一字ずつ、書いた。
わたしの字で書かれた一行を、彼の字で。
白潮院の潮溜まりで、あんたが四つ浮いた日を、失くした。
書き終えて、筆を置いた。
わたしの帳面を閉じて、わたしに返した。
「俺の帳面だ」
彼は言った。
「俺が失くしたもんは、俺が書く。あんたが写すのは、そのあとだ。......順番を、間違えるな」
わたしは、帳面を受け取った。
両手で。
何か言おうとして、何も出てこなかった。喉の奥が、塩を飲んだように熱かった。
「......浮いたのか。あんたが」
「四つ」
「誰に教わった」
「教えてくれた人がいたの。そのうち、話すわ」
イサナは、それ以上聞かなかった。
上衣を着て、縄を巻き取って、井戸の裏へ歩いていった。
◇
夜番の通路は、壁の中を、細く曲がりくねって続いていた。
ところどころに、小さな覗き窓があった。そこから、王宮の中の広間や回廊が見えた。どこも乾いて、貝の子に覆われて、誰もいなかった。
通路の終わりに、垂れ幕があった。
三百年の海で、布は石のように固まっていた。その端が、少しだけめくれていた。
イサナが、その隙間から、向こうを覗いた。
わたしも、その肩ごしに覗いた。
広い間だった。
何十本もの柱が、天井を支えていた。天井には穴が開いていて、そこから干底の昼の光が、柱の間に斜めに差していた。
奥の一段高いところに、椅子が一つあった。石の、大きな椅子だった。
その椅子の前の床に、穴が開いていた。
丸い、黒い水の穴だった。
この広間で、水が残っているのは、そこだけだった。水面は、干底の光を受けても、少しも光らなかった。底が、見えなかった。
玉座の淵。
その縁に、二つの人影があった。
背の高い男が、縁に片膝をついていた。カイリ兄さまだった。
その前で、白い髪の老人が、腰に縄を巻いていた。結び目を、一つずつ、指で確かめていた。
トモだった。