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第15話 入所記録

潮帳しおちょう――白潮院しらしおいん、干物。杏を忘れるな。

 縄梯子の下の天幕には、まだ灯りがついていた。
 イサナが砂を踏む音に、垂れ幕が揺れた。世話役の男が、提灯を掲げて顔を出した。

「......干物の小僧か」

 男は、イサナの顔を見て、それから後ろのミオを見た。
 二人とも、膝から下が泥だった。神殿区の奥の石工の町から、干上がった通りを夜通し歩いてきた。月は遅く昇って、今は淵の上の空を、西へ傾きかけていた。

「こんな夜中に、どうした。白くなった奴でも担いできたか」
「頼みがある」

 イサナは、提灯の輪の中に入った。

「院の入所記録を見せてくれ。八年前の分だ」

 男の眉が、動いた。
 提灯の火が、少しだけ揺れた。

「潮司庁しおつかさちょうの名簿なら、封がかかってるだろう」
「潮司庁のじゃねえ。院のだ。院に入った奴の、院の帳面。あんたらが付けてるやつがあるだろ」

 男は、しばらく黙っていた。
 それから、天幕の中に戻って、腰に縄を巻いた。

「待ってろ。上へ取りに行く。......持ち出していいもんじゃねえんだがな」

 縄梯子が、男の重みで軋みながら、闇の中へ上っていった。


◇


 イサナは、砂の上に座った。
 ミオも、少し離れて座った。背負い袋を膝に抱えていた。

 潮が引いたあとの浜は、冷えていた。
 晩夏の夜の風が、崖を吹き下ろしてきた。風の中に、塩の破片が混じっていた。舌の奥に、誰かの笑い声が、ほんの一瞬だけ滲んで、消えた。

「イサナ」

 ミオが言った。

「上で、記録を見て。それで、もし」
「もし、じゃねえ」

 イサナは、崖を見上げていた。
 黒い崖の上に、黒い板壁の平たい建物が、星を少しだけ隠していた。

「毎月、あそこに干物を届けてる。二十人ほど。白い頭の。......その中の誰かだ。もしもの話じゃねえ」

 ミオは、それ以上言わなかった。
 背負い袋の口を開けて、中を探っていた。やがて、小さな布包みを出して、イサナの膝の上に置いた。

「持っていきなさい」

 布を開くと、干し杏が一粒、入っていた。
 しなびて、飴色に固くなっていた。

「祭りの前に、倍にして持っていこうと思って買ったの。行きそびれて、ひとつだけ残ってた」
「倍?」
「......なんでもない」

 イサナは、杏を包み直して、懐に入れた。
 潮帳の横だった。潮記しおふみの紙の束も、そこにある。油紙の中で、三つの重さが、胸の上に並んだ。


◇


 男が下りてきたのは、半刻ほど経ってからだった。
 脇に、表紙の擦れた綴じ帳を一冊、挟んでいた。

「これだ」

 男は、天幕の中の小さな台に帳面を置いて、提灯を吊るした。
 イサナは、台の前に膝をついた。ミオは、垂れ幕の外で立ち止まった。中へは入ってこなかった。

 帳面の中は、名前と日付の列だった。
 入った日。名前。年。どこの港で、何を読んできたか。一人に、三行か四行。どの字も、同じ世話役の手で、ぶっきらぼうに書かれていた。

 八年前の頁を、探した。
 指で、行を下りていった。

 晩夏の日付のところで、指が止まった。

 チグサ。三十二。
 浜小島はまこじまの港の潮読みしおよみ。舐め、含み。安請け多し。
 白潮しらしお。院に入る。
 子一人、養い所やしないじょへ。

 イサナは、その四行を見ていた。
 長いこと、見ていた。

 名前は、初めて見る名前だった。
 潮記の中で、母の名は薄くて読めなかった。岩場の潮には、ほどけた端しか残っていなかった。その端を、目の前の三文字は、ぴったりとは埋めなかった。
 ただ、一つの名前として、そこにあった。

 子一人。
 名前は、書いていなかった。

「......チグサ」

 声に出すと、男が、提灯の向こうで顎を上げた。

「杏の人だ」

 イサナは、顔を上げた。

「あんたが毎月、杏を届けてる女だよ。潮溜まりで浮いてる。知らなかったのか」

 知らなかった。
 知っていた。
 毎月、干物を届けた。臭いと言われた。杏は、と聞かれた。杏を忘れるな、と自分の潮帳に書いた。その字を、イサナは何度も読んでいた。

 指先が、帳面の紙の上で、冷たくなっていた。


◇


「会うか」

 男が言った。

「あの人は、夜明け前に起きる。潮溜まりで、朝日を待つんだ。......さっき上で、干物の子が来てるって言ったら、ついてきちまった。梯子の上の、段のところで待ってる」
「......ついてきた?」
「干物の子の顔を見ると、杏が出てくると思ってるのさ」

 男は、提灯を一つ、イサナに渡した。
 イサナは、立ち上がった。

 垂れ幕の外で、ミオが帳面を開いていた。
 筆を持っていた。何かを書きかけて、手を止めていた。イサナが出てきたのを見て、顔を上げた。
 何も聞かなかった。

「上に、いるそうだ」

 イサナは言った。
 ミオは、頷いた。

「待ってる。ここで」

 イサナは、縄梯子に手をかけた。


◇


 崖の中ほどに、岩を削った段があった。
 祭りのあいだ、世話役が上り下りするための足場だった。畳一枚ほどの広さで、手すりのかわりに、古い綱が一本張ってあった。

 女が、そこに座っていた。
 膝を抱えて、淵の方を見ていた。白い髪が、夜の風に吹かれて、顔の半分を隠していた。

 イサナが段に上がると、女は振り向いた。

「あら。干物の子」

 声は、いつもと同じだった。
 よく通って、弾んでいた。夜中の崖の上でも。

「こんな夜中に。あんた、魚の匂いがしないわね。泥の匂い」
「......下で、仕事だ」
「下?」

 女は、淵を見下ろした。
 干上がった淵の底に、屋根の街が、月明かりで黒々と広がっていた。その向こうに、神殿区の外壁の灰色の背。さらに奥に、王宮の尖塔。

「すごいわねえ。水、どこへ行っちゃったのかしら。あたし、昨日からずっと見てるのよ。毎日ちょっとずつ減ってくの」

 女は、楽しそうに言った。
 百年に一度の大干おおひも、三百年前の都も、この人には、昨日から水が減っている、というだけのことだった。

 イサナは、女の隣に座った。
 綱の向こうは、崖だった。

 懐から、布包みを出した。
 開いて、干し杏を一粒、女の手のひらに載せた。

「一個だけ?」
「一個だけだ」
「少ないわねえ」

 女は、杏を口に入れた。
 頬が、片方だけふくらんだ。

 イサナは、その横顔を見ていた。
 日に焼けた丸い頬。目尻の皺。真っ白な髪。
 何度も見てきた顔だった。毎月、干物を届けるたびに。

 似ているところを、探していた。
 自分の顔と。潮記の中の、薄くて読めなかった母と。

 見つからなかった。
 見つからないのは、この人のせいではなかった。比べるための自分の側の記憶が、何も残っていないのだった。十の自分が、自分の手で、それを消した。


◇


「あんた、いつも何か言いたそうな顔してるわね」

 女が言った。杏を噛みながら。

「言いたいことがあるなら、言いなさいよ。あたし、すぐ忘れちゃうから、何言ったって平気よ」

 イサナは、口を開けた。
 閉じた。

 母さん。
 その言葉を、口の中で転がした。
 この人は、その言葉を知らない。この人の中に、それを呼ばれる場所は、もうない。呼べば、この人は困るだろう。困った顔で、杏を噛むのをやめるだろう。

「......潮溜まりが好きなのか」

 かわりに、そう聞いた。

「好きよ」

 女は、即座に答えた。

「夕方がいちばん。外の海に日が沈むでしょう。そうすると、潮溜まりの水が、全部、橙色になるの。そこに浮いてるとね、自分も橙色になった気がするのよ。杏みたいに」

 女は、声を立てて笑った。

「それから、最近、新しい坊やが来たの。白い頭の、ちっちゃいの。その子が、あたしが魚を食べてると、手を出すのよ。尻尾ちょうだいって。変な子よねえ。尻尾ばっかり」

 イサナの喉が、詰まった。
 コチだった。

「......尻尾、やってるのか」
「やってるわよ。あげると、すごく嬉しそうな顔するんだもの」

 女は、淵の方へ、指先で杏の種を弾いた。
 種は、月明かりの中を小さく飛んで、崖の下の闇に消えた。

「あんたも今度、何か持ってきなさいよ。杏は、倍ね。あの坊やの分も」


◇


 東の空が、白みはじめていた。
 崖の外側の方から、潮の匂いが変わった。外の海の、朝の匂いだった。

「行かなきゃ」

 女が立ち上がった。

「潮溜まりで、朝日を待つの。毎朝の決まりなのよ」

 女は、段の綱を伝って、崖の上へ上がっていった。
 二、三段上ったところで、振り向いた。

「あんた、名前、なんだっけ」

 イサナは、見上げていた。

「イサナ。干物屋だ」
「そう。イサナ。......たぶん、また忘れるわね。ごめんなさいね」

 女は、手をひらひらと振って、崖の上の暗がりへ消えていった。
 悪びれない声だった。明るい声だった。

 イサナは、段の上に、しばらく座っていた。

 十の自分は、母を探して淵に潜った。
 白くなった母の中にないものが、海の中にはある。そう考えた。

 海の中には、何もなかった。
 母は、崖の上にいた。杏が好きで、干物の匂いが嫌いで、夕方の潮溜まりで橙色になるのが好きで、白い頭の小さな子に、魚の尻尾をやっていた。
 過去は、なかった。
 それでも、今日の朝日を待っていた。

 イサナは、潮帳を出した。
 最初の頁を開いた。家族を思い出そうとするな。
 十の自分の、震えた字。

 その頁は閉じて、新しい頁を開いた。
 筆を持った。
 しばらく、何も書けなかった。何も失くしていなかった。書くものは、何もなかった。

 やがて、一行だけ書いた。

 チグサ。杏が好き。夕方の潮溜まりが好き。尻尾をやっている。


◇


 縄梯子を下りると、ミオが、砂の上に座ったまま、帳面を膝に広げていた。
 筆は、置いていた。書き終えたあとのようだった。

 イサナが砂を踏むと、ミオは顔を上げた。
 彼の顔を、見た。何かを探すように。

「......名乗らなかった」

 イサナは言った。
 それだけ言った。

 ミオは、頷いた。
 それから、筆を取って、一行を書き足した。書き終えると、帳面を少しだけ傾けて、彼に見えるようにした。

 崖の途中の段に、二人。朝日を待つ人と、その隣の人。

 その一行の下に、今書いたばかりの一行があった。

 四日目の未明。イサナは、名乗らなかった。

 イサナは、その字を見ていた。
 なぜ名乗らなかったのか、とは書いていなかった。考えたことは書くな、と自分は門楼で言った。見たとおりにだけ書け、と。

「......それだけか」
「見たとおりにしか、書かないわ」

 ミオは、帳面を閉じた。
 閉じてから、崖の上の方を見上げた。黒い板壁の建物の方を。

 イサナは、何も言わなかった。
 東の崖の肩から、朝日が差してきた。淵の底の屋根の街が、一枚ずつ、橙色に光りはじめた。

 その光の、いちばん奥。
 王宮の尖塔の下まで、水は、すっかり引いていた。

 干底ひぞこの朝だった。
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【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
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第15話 入所記録

潮帳しおちょう――白潮院しらしおいん、干物。杏を忘れるな。

 縄梯子の下の天幕には、まだ灯りがついていた。
 イサナが砂を踏む音に、垂れ幕が揺れた。世話役の男が、提灯を掲げて顔を出した。

「......干物の小僧か」

 男は、イサナの顔を見て、それから後ろのミオを見た。
 二人とも、膝から下が泥だった。神殿区の奥の石工の町から、干上がった通りを夜通し歩いてきた。月は遅く昇って、今は淵の上の空を、西へ傾きかけていた。

「こんな夜中に、どうした。白くなった奴でも担いできたか」
「頼みがある」

 イサナは、提灯の輪の中に入った。

「院の入所記録を見せてくれ。八年前の分だ」

 男の眉が、動いた。
 提灯の火が、少しだけ揺れた。

「潮司庁しおつかさちょうの名簿なら、封がかかってるだろう」
「潮司庁のじゃねえ。院のだ。院に入った奴の、院の帳面。あんたらが付けてるやつがあるだろ」

 男は、しばらく黙っていた。
 それから、天幕の中に戻って、腰に縄を巻いた。

「待ってろ。上へ取りに行く。......持ち出していいもんじゃねえんだがな」

 縄梯子が、男の重みで軋みながら、闇の中へ上っていった。


◇


 イサナは、砂の上に座った。
 ミオも、少し離れて座った。背負い袋を膝に抱えていた。

 潮が引いたあとの浜は、冷えていた。
 晩夏の夜の風が、崖を吹き下ろしてきた。風の中に、塩の破片が混じっていた。舌の奥に、誰かの笑い声が、ほんの一瞬だけ滲んで、消えた。

「イサナ」

 ミオが言った。

「上で、記録を見て。それで、もし」
「もし、じゃねえ」

 イサナは、崖を見上げていた。
 黒い崖の上に、黒い板壁の平たい建物が、星を少しだけ隠していた。

「毎月、あそこに干物を届けてる。二十人ほど。白い頭の。......その中の誰かだ。もしもの話じゃねえ」

 ミオは、それ以上言わなかった。
 背負い袋の口を開けて、中を探っていた。やがて、小さな布包みを出して、イサナの膝の上に置いた。

「持っていきなさい」

 布を開くと、干し杏が一粒、入っていた。
 しなびて、飴色に固くなっていた。

「祭りの前に、倍にして持っていこうと思って買ったの。行きそびれて、ひとつだけ残ってた」
「倍?」
「......なんでもない」

 イサナは、杏を包み直して、懐に入れた。
 潮帳の横だった。潮記しおふみの紙の束も、そこにある。油紙の中で、三つの重さが、胸の上に並んだ。


◇


 男が下りてきたのは、半刻ほど経ってからだった。
 脇に、表紙の擦れた綴じ帳を一冊、挟んでいた。

「これだ」

 男は、天幕の中の小さな台に帳面を置いて、提灯を吊るした。
 イサナは、台の前に膝をついた。ミオは、垂れ幕の外で立ち止まった。中へは入ってこなかった。

 帳面の中は、名前と日付の列だった。
 入った日。名前。年。どこの港で、何を読んできたか。一人に、三行か四行。どの字も、同じ世話役の手で、ぶっきらぼうに書かれていた。

 八年前の頁を、探した。
 指で、行を下りていった。

 晩夏の日付のところで、指が止まった。

 チグサ。三十二。
 浜小島はまこじまの港の潮読みしおよみ。舐め、含み。安請け多し。
 白潮しらしお。院に入る。
 子一人、養い所やしないじょへ。

 イサナは、その四行を見ていた。
 長いこと、見ていた。

 名前は、初めて見る名前だった。
 潮記の中で、母の名は薄くて読めなかった。岩場の潮には、ほどけた端しか残っていなかった。その端を、目の前の三文字は、ぴったりとは埋めなかった。
 ただ、一つの名前として、そこにあった。

 子一人。
 名前は、書いていなかった。

「......チグサ」

 声に出すと、男が、提灯の向こうで顎を上げた。

「杏の人だ」

 イサナは、顔を上げた。

「あんたが毎月、杏を届けてる女だよ。潮溜まりで浮いてる。知らなかったのか」

 知らなかった。
 知っていた。
 毎月、干物を届けた。臭いと言われた。杏は、と聞かれた。杏を忘れるな、と自分の潮帳に書いた。その字を、イサナは何度も読んでいた。

 指先が、帳面の紙の上で、冷たくなっていた。


◇


「会うか」

 男が言った。

「あの人は、夜明け前に起きる。潮溜まりで、朝日を待つんだ。......さっき上で、干物の子が来てるって言ったら、ついてきちまった。梯子の上の、段のところで待ってる」
「......ついてきた?」
「干物の子の顔を見ると、杏が出てくると思ってるのさ」

 男は、提灯を一つ、イサナに渡した。
 イサナは、立ち上がった。

 垂れ幕の外で、ミオが帳面を開いていた。
 筆を持っていた。何かを書きかけて、手を止めていた。イサナが出てきたのを見て、顔を上げた。
 何も聞かなかった。

「上に、いるそうだ」

 イサナは言った。
 ミオは、頷いた。

「待ってる。ここで」

 イサナは、縄梯子に手をかけた。


◇


 崖の中ほどに、岩を削った段があった。
 祭りのあいだ、世話役が上り下りするための足場だった。畳一枚ほどの広さで、手すりのかわりに、古い綱が一本張ってあった。

 女が、そこに座っていた。
 膝を抱えて、淵の方を見ていた。白い髪が、夜の風に吹かれて、顔の半分を隠していた。

 イサナが段に上がると、女は振り向いた。

「あら。干物の子」

 声は、いつもと同じだった。
 よく通って、弾んでいた。夜中の崖の上でも。

「こんな夜中に。あんた、魚の匂いがしないわね。泥の匂い」
「......下で、仕事だ」
「下?」

 女は、淵を見下ろした。
 干上がった淵の底に、屋根の街が、月明かりで黒々と広がっていた。その向こうに、神殿区の外壁の灰色の背。さらに奥に、王宮の尖塔。

「すごいわねえ。水、どこへ行っちゃったのかしら。あたし、昨日からずっと見てるのよ。毎日ちょっとずつ減ってくの」

 女は、楽しそうに言った。
 百年に一度の大干おおひも、三百年前の都も、この人には、昨日から水が減っている、というだけのことだった。

 イサナは、女の隣に座った。
 綱の向こうは、崖だった。

 懐から、布包みを出した。
 開いて、干し杏を一粒、女の手のひらに載せた。

「一個だけ?」
「一個だけだ」
「少ないわねえ」

 女は、杏を口に入れた。
 頬が、片方だけふくらんだ。

 イサナは、その横顔を見ていた。
 日に焼けた丸い頬。目尻の皺。真っ白な髪。
 何度も見てきた顔だった。毎月、干物を届けるたびに。

 似ているところを、探していた。
 自分の顔と。潮記の中の、薄くて読めなかった母と。

 見つからなかった。
 見つからないのは、この人のせいではなかった。比べるための自分の側の記憶が、何も残っていないのだった。十の自分が、自分の手で、それを消した。


◇


「あんた、いつも何か言いたそうな顔してるわね」

 女が言った。杏を噛みながら。

「言いたいことがあるなら、言いなさいよ。あたし、すぐ忘れちゃうから、何言ったって平気よ」

 イサナは、口を開けた。
 閉じた。

 母さん。
 その言葉を、口の中で転がした。
 この人は、その言葉を知らない。この人の中に、それを呼ばれる場所は、もうない。呼べば、この人は困るだろう。困った顔で、杏を噛むのをやめるだろう。

「......潮溜まりが好きなのか」

 かわりに、そう聞いた。

「好きよ」

 女は、即座に答えた。

「夕方がいちばん。外の海に日が沈むでしょう。そうすると、潮溜まりの水が、全部、橙色になるの。そこに浮いてるとね、自分も橙色になった気がするのよ。杏みたいに」

 女は、声を立てて笑った。

「それから、最近、新しい坊やが来たの。白い頭の、ちっちゃいの。その子が、あたしが魚を食べてると、手を出すのよ。尻尾ちょうだいって。変な子よねえ。尻尾ばっかり」

 イサナの喉が、詰まった。
 コチだった。

「......尻尾、やってるのか」
「やってるわよ。あげると、すごく嬉しそうな顔するんだもの」

 女は、淵の方へ、指先で杏の種を弾いた。
 種は、月明かりの中を小さく飛んで、崖の下の闇に消えた。

「あんたも今度、何か持ってきなさいよ。杏は、倍ね。あの坊やの分も」


◇


 東の空が、白みはじめていた。
 崖の外側の方から、潮の匂いが変わった。外の海の、朝の匂いだった。

「行かなきゃ」

 女が立ち上がった。

「潮溜まりで、朝日を待つの。毎朝の決まりなのよ」

 女は、段の綱を伝って、崖の上へ上がっていった。
 二、三段上ったところで、振り向いた。

「あんた、名前、なんだっけ」

 イサナは、見上げていた。

「イサナ。干物屋だ」
「そう。イサナ。......たぶん、また忘れるわね。ごめんなさいね」

 女は、手をひらひらと振って、崖の上の暗がりへ消えていった。
 悪びれない声だった。明るい声だった。

 イサナは、段の上に、しばらく座っていた。

 十の自分は、母を探して淵に潜った。
 白くなった母の中にないものが、海の中にはある。そう考えた。

 海の中には、何もなかった。
 母は、崖の上にいた。杏が好きで、干物の匂いが嫌いで、夕方の潮溜まりで橙色になるのが好きで、白い頭の小さな子に、魚の尻尾をやっていた。
 過去は、なかった。
 それでも、今日の朝日を待っていた。

 イサナは、潮帳を出した。
 最初の頁を開いた。家族を思い出そうとするな。
 十の自分の、震えた字。

 その頁は閉じて、新しい頁を開いた。
 筆を持った。
 しばらく、何も書けなかった。何も失くしていなかった。書くものは、何もなかった。

 やがて、一行だけ書いた。

 チグサ。杏が好き。夕方の潮溜まりが好き。尻尾をやっている。


◇


 縄梯子を下りると、ミオが、砂の上に座ったまま、帳面を膝に広げていた。
 筆は、置いていた。書き終えたあとのようだった。

 イサナが砂を踏むと、ミオは顔を上げた。
 彼の顔を、見た。何かを探すように。

「......名乗らなかった」

 イサナは言った。
 それだけ言った。

 ミオは、頷いた。
 それから、筆を取って、一行を書き足した。書き終えると、帳面を少しだけ傾けて、彼に見えるようにした。

 崖の途中の段に、二人。朝日を待つ人と、その隣の人。

 その一行の下に、今書いたばかりの一行があった。

 四日目の未明。イサナは、名乗らなかった。

 イサナは、その字を見ていた。
 なぜ名乗らなかったのか、とは書いていなかった。考えたことは書くな、と自分は門楼で言った。見たとおりにだけ書け、と。

「......それだけか」
「見たとおりにしか、書かないわ」

 ミオは、帳面を閉じた。
 閉じてから、崖の上の方を見上げた。黒い板壁の建物の方を。

 イサナは、何も言わなかった。
 東の崖の肩から、朝日が差してきた。淵の底の屋根の街が、一枚ずつ、橙色に光りはじめた。

 その光の、いちばん奥。
 王宮の尖塔の下まで、水は、すっかり引いていた。

 干底ひぞこの朝だった。
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