第14話 十歳の潜り
潮帳――家族を思い出そうとするな
夜半を過ぎたころ、ウツロが筆を置いた。
紙の束は、指の厚みほどになっていた。最後の一枚の墨が乾くのを待って、彼女はそれを揃え、両手でイサナの前に置いた。
「潮記。あなたの」
イサナは、束を見下ろした。
細くて、まっすぐな字だった。行の終わりが、どれも短く切れていた。
潮じゃなくて、字だから。
港の酒場で、名簿の写しを差し出しながら、ミオがそう言った。読んでも、何も溶けない。何も失くさない。
それなのに、手が伸びなかった。
ミオが、灯りを束の方へ寄せた。何も言わなかった。
イサナは、一枚目を取った。
◇
八つの年。母が、白くなった。
よその島の、港の潮読みだった。安い仕事を、たくさん受けていた。
母の名は、薄くて読めない。顔も、声も。岩場の潮には、ほどけた端しか残っていない。
母は、崖の上の白潮院に入った。
あなたは、隣の養い所に入れられた。
養い所の塀の中。
あなたは、字が書けた。母に習った。
ナズナは、書けなかった。
あなたは、砂の上に書いてみせた。ナ。ズ。ナ。
ナズナは、待つとき、葉っぱで小さな舟を折った。塀の上を流れる雨樋に、浮かべた。
あなたは、それを、いつも見ていた。
あなたは、毎月、塀の隙間から白潮院を覗いた。
母は、あなたを見ても、あなたと分からなかった。
あなたは、それを、誰にも言わなかった。
十の年。夏の終わり。
あなたは、塀を越えた。夜。
母の記憶が、淵に溶けている、と思った。
母は、昔、淵のほとりで仕事をしたことがある。そう、養い所の先生が話していた。
白くなった母の中にないものが、海の中にはある。
あなたは、そう考えた。
北の岩場。白潮院の崖の下の、浅いところ。
あなたは、潜った。
母を探した。
母は、いなかった。
かわりに、男がいた。瓶口で沈められて、三百年かけて、ここまで流れてきた男。
ここから先は、男の記憶。あなたが読んだもの。
男は、石工の棟梁。瓶口の堰を築いた。堰の組み方を、石ひとつまで知っていた男。
堰が仕上がったあと。
男と組の石工たちは、王宮の奥へ呼ばれた。
堤の、内側の面。その石を、ゆるめろ、と役人が言った。
抜けるように。けれど、まだ抜けないように。
男は、訳を聞かなかった。聞けなかった。
日暮れ。
石工たちは、縄で縛られた。
堤の前に、七つの波の衣の人が立っていた。
兵たちが、膝をついた。役人も。
その人は、顔を上げなかった。
堤の石に、手を当てた。
最後の一つを、自分の手で、外した。
石が、堤の外へ落ちた。
次の石も。その次も。内側から、外へ。
その人は、見ていた。最後まで。
石工たちは、瓶口へ連れていかれた。
堰の上。松明。
一人ずつ、落とされた。
男は、落ちながら、振り向いた。
都の方。王宮の向こう。
堤から、白い水が噴き上がっていた。
男は、沈んだ。
娘の名を、呼んだ。
ハル。
◇
イサナの指が、紙の上で止まっていた。
石工の家の、土間の潮溜まり。欠けた櫛。
半日前に読んだばかりの娘だった。
ハルの父親は、瓶口で沈められた。
十の自分は、その父親を読んでいた。
六年を隔てて、同じ父と娘を、両側から読んでいた。
◇
ここから先は、また、あなたの記憶。
崖の上に、灯りが並んだ。潮司庁の提灯。
禁域の淵に、誰かが潜った。気づかれた。
あなたは、分かった。
今、自分の中にあるものを、持っていてはいけない。
王が、都を沈めた。そのことを。
あなたは、別の溺死者を読んだ。
同じ日に沈んだ人。同じ洪水。同じ水。
一人。二人。三人。
読むたびに、似たものが、あなたから溶けた。
棟梁の見たものが、溶けた。
七つの波の衣の人が、溶けた。
止まらなかった。
洪水に似ているもの。溺れる人に似ているもの。
探しに来た母に、似ているもの。
母の声が、溶けた。
母の顔が、溶けた。
母に習った字の、最初の一字が、溶けた。
あなたは、岩場に上がった。
潮帳を出した。震えていた。
最初の頁に、書いた。
もう一度、潜らないように。
探しに来ないように。
家族を思い出そうとするな
それから、灯りの方へ歩いた。
◇
最後の一枚は、ほとんど白かった。
真ん中に、一行だけ書いてあった。
あなたの十歳を消したのは、あなた。
◇
イサナは、紙の束を膝に置いた。
土間の灯りが、揺れていた。自分の手が揺らしているのだと、しばらく気づかなかった。
奪われたのだと思っていた。
潮司庁か、誰か知らない者に。封の先にある、自分の十歳を。
だから、取り返せば、埋まると思っていた。
奪われたのでは、なかった。
「......俺が、消したのか」
声に出すと、それは、ひどく平らな事実になった。
十の自分が、自分の手で。母の声も、顔も。
あなたは十歳のとき、たいへん賢い選択をしました。
大潮司の声が、耳の奥でした。穏やかで、優しい声。
これからも、思い出さないでいなさい。
知っていたのだ。あの人は。
十の子どもが何を見て、何を消したのか。それを知っていて、名簿に「保護」と書き、「封」と書いた。生年も、母のことも、養い所のことも、封の向こうに伏せた。そして、養い所ではなく、港の見習い小屋へ送った。
ナズナのいない場所へ。
「......始祖王が、都を」
イサナは、呟いた。
一日目の夜、門楼で考えるのをやめた続きだった。
「自分で、沈めた。石工を口封じに沈めて、堤を自分の手で外して。民ごと」
誰も、答えなかった。
答えを持っている者は、この土間にはいなかった。
◇
ウツロは、灯りから少し離れたところで、膝を揃えて座っていた。
その手が、動いていた。
余った紙の端を、指で折っていた。
二つに。それを斜めに。端を立てて。
指は、迷わなかった。何度も同じことをしてきた指の動きだった。
小さな、紙の舟だった。
イサナは、それを見ていた。
紙の束の二枚目。ナズナは、待つとき、葉っぱで小さな舟を折った。
「......あんた、それ」
ウツロが、自分の手元を見下ろした。
初めて気づいたような顔だった。
「知らない。気づくと、折ってる。昔から」
イサナは、紙の束を膝から下ろした。
立ち上がって、ウツロの前にしゃがんだ。土間の土を、指でならした。
一画ずつ、書いた。
ナ。ズ。ナ。
「俺は、覚えてねえ」
イサナは言った。
「あんたの顔も、塀の中のことも、何ひとつ覚えてねえ。だから、覚えてるから言うんじゃねえ。......あんたの手は、覚えてる。俺の手も、たぶん、覚えてた」
土の上の三文字を、指で示した。
「あんたは、ナズナだ」
ウツロは、長いこと、その三文字を見ていた。
灰色の目が、一度だけ、まばたきをした。
「......もう一度」
「ナズナ」
「もう一度」
「ナズナ」
ウツロは、自分の懐から、小さな帳面を出した。
白い頁ばかりの、潮読みの帳面だった。その最初の頁に、筆で書いた。細くて、まっすぐな字で。
ナズナ。
書き終えてから、彼女は、紙の舟をその頁に挟んだ。
◇
ミオは、戸口の段に座っていた。
さっきから一言も口をきいていなかった。膝の上で、帳面を開いたまま、筆を持っていなかった。
「ミオ」
イサナが呼ぶと、ミオは顔を上げた。
灯りの中で、顔色が白かった。
「始祖王さまが、都を沈めた」
ミオは、自分に言い聞かせるように言った。
「加護をくださる王さまが。民を道連れにして。......そうなのね」
「潮記には、そう書いてある」
「なら、わたしが王になる理由は、なくなった?」
イサナは、答えなかった。
ミオは、帳面を閉じた。その手が、少しだけ震えていた。声は、震えていなかった。
「ならないわ」
彼女は言った。
「始祖王さまが誰を沈めていても、真王が立てば、わたしは潮送りよ。奥院へ行く。サヨ姉さまのところへ。手紙の一通も書けないところへ。......神話が嘘でも、それは変わらない」
ミオは、立ち上がった。
膝が、かすかに笑っていた。それでも、立った。
「だから、わたしは、勝たなきゃいけない。前より、ずっと」
◇
イサナは、紙の束を揃えて、油紙で包んだ。
自分の潮帳と一緒に、懐にしまった。二つ分の重さが、胸に来た。
それから、潮帳の最初の頁を、もう一度開いた。
家族を思い出そうとするな。
十の自分の字だった。
震えていて、墨が滲んでいた。これを書いた子どもは、泣いていたのかもしれない。泣いていなかったのかもしれない。それも、もう分からない。
潮記の、はじめの方の一行が、目の奥に残っていた。
母は、崖の上の白潮院に入った。
八年前のことだった。
イサナは、土間の戸口から、夜の空を見上げた。
遅い月が、淵の崖の縁を照らしていた。その崖の上に、黒い板壁の、平たい建物がある。毎月、干物を届けている。二十人ほどの、白い頭。
その中の、どれか。
「......白潮院に」
声が、勝手に出ていた。
「母さんが、いる」