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第8話 門楼の夜

潮帳しおちょう――トモ爺に初めて奢られた酒の味を、失くした。

 干し飯ほしいいは、水でふやかさずに噛むと、口の中の水気を全部持っていった。
 わたしは、ひと粒ずつ奥歯で割りながら、門楼の縁に並んで座っていた。ふたつの月が、屋根の街の上に懸かっていた。イサナはもう食べ終えて、縄の結び目を一つずつ指で確かめていた。

「あの子の名前は」

 わたしが聞くと、イサナの指が止まった。

「どの子だ」
「靴の子。道を教えてくれた子」
「......スズ。母親が、下の通りからそう呼んでた」

 わたしは帳面を開いて、今日の道順の横に書いた。
 スズ。七つか八つ。屋根の道を知っていた子。

「書いてどうする」
「読んだ他人の記憶は、何日かで消えるんでしょう。あなたの中から、あの子がいなくなる。この都で、あの子の名前を知ってるのは、今、わたしたちだけよ」
「書いたって、誰が読む」
「わたしが読む」

 イサナは、何か言いかけて、やめた。縄の結び目に、また指を戻した。

「それから、さっきの堤の話。書いておいていい?」
「書くなら、見たとおりに書け」

 イサナは、結び目から目を上げなかった。

「俺が見たのは、石が内から外へ抜けていくところだ。考えたことは書くな。誰がやったとか、なんでだとか。考えたことを書き足すと、あの証言録と同じになる」

 わたしは、筆を持ったまま、少しのあいだ動けなかった。
 それから、見たとおりにだけ書いた。堤の石が、内側から外へ、一つずつ抜けた。水は、王宮の方から来た。
 それ以上は、書かなかった。書きたいことは、あった。


◇


 門楼の石の床は、夜になっても昼の熱を少しだけ残していた。
 わたしは背負い袋を枕にして、横になっていた。目は閉じていた。眠ってはいなかった。

 屋根の街の夜は、音が多い。
 瓦の下で、水が引いていく音。どこかで、崩れかけた壁から小石が落ちる音。そのたびに、閉じた瞼の裏で、あの小さな靴が瓦の隙間に挟まった。

 薄目を開けると、イサナは、楼の縁に座っていた。
 横になる前は、帳面を膝に広げて、何度も同じ頁を見ていた。今は、見ていなかった。ただ、西の方の暗がりを見ていた。屋根二十ほど向こう。コチが置いていかれた屋根の方を。

「起きてんだろ」

 低い声がして、わたしは息を止めた。
 イサナの声ではなかった。

「寝てるよ。姫さんは」
「てめえに言ったんだ、舐め師」

 門楼の反対側の屋根から、板が一枚、楼の縁に渡された。板がたわんで、白い頭がそれを渡ってきた。トモだった。片手に、小さな瓢ふくべを提げていた。中で、酒の揺れる音がした。

「若様は、寝た。あのお人は、どこでも寝られる。戦場の育ちだからな」

 トモは、イサナの隣に腰を下ろした。膝の骨が、鳴った。

「真っ直ぐなお人だ。白くなりかけの爺を、爺と呼ばねえ。トモ、と呼ぶ。潮読みしおよみを名前で呼ぶ王族なんざ、俺ぁ初めて見た」

 トモは、反対側の屋根の暗がりを振り返った。

「だから付いた。最後の仕事くれえ、名前で呼ぶ人のためにやりてえじゃねえか」


◇


「飲むか」
「いらねえ」
「若えのが遠慮すんじゃねえ」

 トモは瓢の栓を歯で抜いて、自分で一口飲んだ。それから、イサナの手に押しつけた。イサナは、少しだけ口をつけた。

「......てめえに、俺が初めて奢った晩のこと、覚えてるか」
「いや」
「そうか」

 トモは、鼻で笑った。

「俺もだ」

 わたしは、目を閉じたまま、帳面の一行を思い出していた。
 トモ爺に初めて奢られた酒の味を、失くした。
 港の酒場で、彼の帳面から写した一行だった。あのとき、それが誰のことなのか、わたしには分からなかった。

 トモが、懐から何かを出した。
 薄目を開けると、月明かりに、手のひらほどの帳面が見えた。イサナのものと同じ形の、潮読みの帳面。
 トモは、それを親指でぱらぱらとめくった。

「見ろ」

 頁は、ほとんど白かった。
 ところどころに、一行か二行、震えた字があるだけだった。

「失くしたもんを書いてたんだがな。書いたことを、忘れるようになった。書く帳面がどこにあるかも、忘れる。そのうち、書くのをやめた」
「怖くねえのか」

 イサナが、聞いた。
 トモは、帳面を閉じた。

 トモの目が、イサナの見ていた方へ動いた。西の屋根の、小さな影の方へ。

「ハヤテの坊主が捨てていった小僧か」
「コチだ」
「名前なんざ、千尋屋ちひろやは覚えちゃいねえよ。あそこは、ああやって使う。読ませて、潰れたら、次」

 トモは、それ以上コチのことを言わなかった。
 瓢を傾けて、喉を鳴らした。

「白くなるのは、怖くねえ。白くなっちまえば、怖えもくそもねえ。白潮院しらしおいんの連中を見てみろ。みんな、よく笑ってら」

 瓢が、トモの手に戻った。

「怖えのはな、その手前だ。何を失くしたか、まだ数えられるうちが、いちばん怖え。......てめえは今、そこにいる」

 イサナは、答えなかった。
 楼の下で、水が一筋、瓦を離れていく音がした。


◇


 しばらくして、トモが顎をしゃくった。
 都の奥の方だった。月の光も届かない、真っ黒な水面の向こう。崖と崖の切れ目が、さらに黒く見えた。

「瓶口かめぐちだ」
「知ってる」
「淵の水はな、外と混ざらねえ」

 トモは、瓢を振った。中身はもう、ほとんど残っていなかった。

「三百年ずっとだ。若え頃、瓶口の外っ側で舐めたことがある。外の潮は薄い。ただの海だ。一歩ぶん、内っ側へ入って舐めると、どろっと濃い。水道一本でつながってんのにな。潮目みてえに揺れもしねえ。壁があるみてえに、ぴたっと分かれてる」
「なんでだ」
「知るか。俺ぁ潮読みだ。学者じゃねえ」

 トモは立ち上がった。また、膝が鳴った。

「いいか、舐め師。玉座の前まで道をつけるのが仕事だと、てめえは酒場で言ったな」

「その約束、守れ。玉座の淵にだけは、潜るな。あそこは、俺みてえな白くなりかけが行くとこだ」

 板を渡って、白い頭が戻っていった。
 反対側の屋根の暗がりで、白い頭が、横になるのが見えた。


◇


「いつまで寝たふりしてんだ」

 イサナが言った。今度は、わたしに。
 わたしは起き上がった。背中が、石の床で冷えていた。

「......話があるの」
「聞いてた話の続きか」
「明日から、読むのは、一日に一度にしなさい」

 イサナが、振り向いた。

「それじゃ負ける」
「負けないように、わたしが考える。書庫で写した年代記がある。都の造りを、少しは覚えてきた。今日の道だって、ひとつ読んだだけで一番乗りだったでしょう」
「あれは、運がよかった」
「運でもいいわ」
「よくねえ」

 イサナの声が、少しだけ大きくなった。

「ハヤテのとこは、潮読みが七人いる。潰れたら、次を出す。カイリ組には、前の大干おおひの話を知ってるトモ爺がいる。俺たちにあるのは、俺の舌ひとつだ。一日に一度で、玉座まで届くと思うか」

「コチみたいになりたいの」

 言ってから、しまったと思った。
 イサナの顔から、表情が消えた。怒ったときの顔ではなかった。酒場で、名簿の写しを見たときと同じ顔だった。

「コチは、読まされた」

 彼は、ゆっくりと言った。

「七人の中の一人として、読めと言われて、読んだ。俺は、自分で読む。読むかどうかは、俺が決める。あんたと最初に決めたのは、それだろ」
「......ええ」
「違いは、そこだけだ。そこだけは、譲らねえ」

 わたしは、答えられなかった。
 答えるかわりに、帳面を開いた。今日の一行。港の路地を一本、失くした。屋根の上で急いで写した字は、乱れていた。その下に、もう一度、清書しようとした。

「それ、やめろ」
「何を」
「書くのをだ」

 イサナは、わたしの手元を見ていなかった。屋根の街の方を見ていた。

「俺が失くしたもんを、あんたが写す。そのたびに、俺は、自分が何を失くしたかを二度見せられる」
「一度目は」
「自分で書いたときだ。二度目は、あんたが写すときだ」

 わたしは、筆を止めた。
 墨が、筆の先で丸くふくらんだ。

「なら、三度目も見せてあげる」
「は?」
「あなたが、それを失くしたことさえ忘れたとき。わたしが読んで聞かせる。そのための帳面よ」

 イサナは、長いこと黙っていた。
 それから、背を向けて、横になった。

「......勝手にしろ」

 わたしは、今日の一行を、きれいに書き写した。
 筆先は、震えなかった。


◇


 月が、高くなっていた。
 白い月と遠月とおづきが並んで、屋根の街の瓦を一枚ずつ、白く濡れて光らせていた。

 西の方の屋根に、小さな影が見えた。
 膝を抱えて、昼と同じ形のまま、動いていなかった。

 わたしは、帳面の新しい頁を開いた。
 イサナの一行の下に、自分の字で書いた。

 コチ。門楼から西へ、屋根二十。水路三本。
 水は、明日の昼には膝まで引く。

 少し考えてから、もう一行、書き足した。

 明日、連れて帰る。

 筆を置いて、帳面を閉じた。
 イサナの背中は、動かなかった。眠っているのか、眠ったふりをしているのか、わたしには分からなかった。
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【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
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第8話 門楼の夜

潮帳しおちょう――トモ爺に初めて奢られた酒の味を、失くした。

 干し飯ほしいいは、水でふやかさずに噛むと、口の中の水気を全部持っていった。
 わたしは、ひと粒ずつ奥歯で割りながら、門楼の縁に並んで座っていた。ふたつの月が、屋根の街の上に懸かっていた。イサナはもう食べ終えて、縄の結び目を一つずつ指で確かめていた。

「あの子の名前は」

 わたしが聞くと、イサナの指が止まった。

「どの子だ」
「靴の子。道を教えてくれた子」
「......スズ。母親が、下の通りからそう呼んでた」

 わたしは帳面を開いて、今日の道順の横に書いた。
 スズ。七つか八つ。屋根の道を知っていた子。

「書いてどうする」
「読んだ他人の記憶は、何日かで消えるんでしょう。あなたの中から、あの子がいなくなる。この都で、あの子の名前を知ってるのは、今、わたしたちだけよ」
「書いたって、誰が読む」
「わたしが読む」

 イサナは、何か言いかけて、やめた。縄の結び目に、また指を戻した。

「それから、さっきの堤の話。書いておいていい?」
「書くなら、見たとおりに書け」

 イサナは、結び目から目を上げなかった。

「俺が見たのは、石が内から外へ抜けていくところだ。考えたことは書くな。誰がやったとか、なんでだとか。考えたことを書き足すと、あの証言録と同じになる」

 わたしは、筆を持ったまま、少しのあいだ動けなかった。
 それから、見たとおりにだけ書いた。堤の石が、内側から外へ、一つずつ抜けた。水は、王宮の方から来た。
 それ以上は、書かなかった。書きたいことは、あった。


◇


 門楼の石の床は、夜になっても昼の熱を少しだけ残していた。
 わたしは背負い袋を枕にして、横になっていた。目は閉じていた。眠ってはいなかった。

 屋根の街の夜は、音が多い。
 瓦の下で、水が引いていく音。どこかで、崩れかけた壁から小石が落ちる音。そのたびに、閉じた瞼の裏で、あの小さな靴が瓦の隙間に挟まった。

 薄目を開けると、イサナは、楼の縁に座っていた。
 横になる前は、帳面を膝に広げて、何度も同じ頁を見ていた。今は、見ていなかった。ただ、西の方の暗がりを見ていた。屋根二十ほど向こう。コチが置いていかれた屋根の方を。

「起きてんだろ」

 低い声がして、わたしは息を止めた。
 イサナの声ではなかった。

「寝てるよ。姫さんは」
「てめえに言ったんだ、舐め師」

 門楼の反対側の屋根から、板が一枚、楼の縁に渡された。板がたわんで、白い頭がそれを渡ってきた。トモだった。片手に、小さな瓢ふくべを提げていた。中で、酒の揺れる音がした。

「若様は、寝た。あのお人は、どこでも寝られる。戦場の育ちだからな」

 トモは、イサナの隣に腰を下ろした。膝の骨が、鳴った。

「真っ直ぐなお人だ。白くなりかけの爺を、爺と呼ばねえ。トモ、と呼ぶ。潮読みしおよみを名前で呼ぶ王族なんざ、俺ぁ初めて見た」

 トモは、反対側の屋根の暗がりを振り返った。

「だから付いた。最後の仕事くれえ、名前で呼ぶ人のためにやりてえじゃねえか」


◇


「飲むか」
「いらねえ」
「若えのが遠慮すんじゃねえ」

 トモは瓢の栓を歯で抜いて、自分で一口飲んだ。それから、イサナの手に押しつけた。イサナは、少しだけ口をつけた。

「......てめえに、俺が初めて奢った晩のこと、覚えてるか」
「いや」
「そうか」

 トモは、鼻で笑った。

「俺もだ」

 わたしは、目を閉じたまま、帳面の一行を思い出していた。
 トモ爺に初めて奢られた酒の味を、失くした。
 港の酒場で、彼の帳面から写した一行だった。あのとき、それが誰のことなのか、わたしには分からなかった。

 トモが、懐から何かを出した。
 薄目を開けると、月明かりに、手のひらほどの帳面が見えた。イサナのものと同じ形の、潮読みの帳面。
 トモは、それを親指でぱらぱらとめくった。

「見ろ」

 頁は、ほとんど白かった。
 ところどころに、一行か二行、震えた字があるだけだった。

「失くしたもんを書いてたんだがな。書いたことを、忘れるようになった。書く帳面がどこにあるかも、忘れる。そのうち、書くのをやめた」
「怖くねえのか」

 イサナが、聞いた。
 トモは、帳面を閉じた。

 トモの目が、イサナの見ていた方へ動いた。西の屋根の、小さな影の方へ。

「ハヤテの坊主が捨てていった小僧か」
「コチだ」
「名前なんざ、千尋屋ちひろやは覚えちゃいねえよ。あそこは、ああやって使う。読ませて、潰れたら、次」

 トモは、それ以上コチのことを言わなかった。
 瓢を傾けて、喉を鳴らした。

「白くなるのは、怖くねえ。白くなっちまえば、怖えもくそもねえ。白潮院しらしおいんの連中を見てみろ。みんな、よく笑ってら」

 瓢が、トモの手に戻った。

「怖えのはな、その手前だ。何を失くしたか、まだ数えられるうちが、いちばん怖え。......てめえは今、そこにいる」

 イサナは、答えなかった。
 楼の下で、水が一筋、瓦を離れていく音がした。


◇


 しばらくして、トモが顎をしゃくった。
 都の奥の方だった。月の光も届かない、真っ黒な水面の向こう。崖と崖の切れ目が、さらに黒く見えた。

「瓶口かめぐちだ」
「知ってる」
「淵の水はな、外と混ざらねえ」

 トモは、瓢を振った。中身はもう、ほとんど残っていなかった。

「三百年ずっとだ。若え頃、瓶口の外っ側で舐めたことがある。外の潮は薄い。ただの海だ。一歩ぶん、内っ側へ入って舐めると、どろっと濃い。水道一本でつながってんのにな。潮目みてえに揺れもしねえ。壁があるみてえに、ぴたっと分かれてる」
「なんでだ」
「知るか。俺ぁ潮読みだ。学者じゃねえ」

 トモは立ち上がった。また、膝が鳴った。

「いいか、舐め師。玉座の前まで道をつけるのが仕事だと、てめえは酒場で言ったな」

「その約束、守れ。玉座の淵にだけは、潜るな。あそこは、俺みてえな白くなりかけが行くとこだ」

 板を渡って、白い頭が戻っていった。
 反対側の屋根の暗がりで、白い頭が、横になるのが見えた。


◇


「いつまで寝たふりしてんだ」

 イサナが言った。今度は、わたしに。
 わたしは起き上がった。背中が、石の床で冷えていた。

「......話があるの」
「聞いてた話の続きか」
「明日から、読むのは、一日に一度にしなさい」

 イサナが、振り向いた。

「それじゃ負ける」
「負けないように、わたしが考える。書庫で写した年代記がある。都の造りを、少しは覚えてきた。今日の道だって、ひとつ読んだだけで一番乗りだったでしょう」
「あれは、運がよかった」
「運でもいいわ」
「よくねえ」

 イサナの声が、少しだけ大きくなった。

「ハヤテのとこは、潮読みが七人いる。潰れたら、次を出す。カイリ組には、前の大干おおひの話を知ってるトモ爺がいる。俺たちにあるのは、俺の舌ひとつだ。一日に一度で、玉座まで届くと思うか」

「コチみたいになりたいの」

 言ってから、しまったと思った。
 イサナの顔から、表情が消えた。怒ったときの顔ではなかった。酒場で、名簿の写しを見たときと同じ顔だった。

「コチは、読まされた」

 彼は、ゆっくりと言った。

「七人の中の一人として、読めと言われて、読んだ。俺は、自分で読む。読むかどうかは、俺が決める。あんたと最初に決めたのは、それだろ」
「......ええ」
「違いは、そこだけだ。そこだけは、譲らねえ」

 わたしは、答えられなかった。
 答えるかわりに、帳面を開いた。今日の一行。港の路地を一本、失くした。屋根の上で急いで写した字は、乱れていた。その下に、もう一度、清書しようとした。

「それ、やめろ」
「何を」
「書くのをだ」

 イサナは、わたしの手元を見ていなかった。屋根の街の方を見ていた。

「俺が失くしたもんを、あんたが写す。そのたびに、俺は、自分が何を失くしたかを二度見せられる」
「一度目は」
「自分で書いたときだ。二度目は、あんたが写すときだ」

 わたしは、筆を止めた。
 墨が、筆の先で丸くふくらんだ。

「なら、三度目も見せてあげる」
「は?」
「あなたが、それを失くしたことさえ忘れたとき。わたしが読んで聞かせる。そのための帳面よ」

 イサナは、長いこと黙っていた。
 それから、背を向けて、横になった。

「......勝手にしろ」

 わたしは、今日の一行を、きれいに書き写した。
 筆先は、震えなかった。


◇


 月が、高くなっていた。
 白い月と遠月とおづきが並んで、屋根の街の瓦を一枚ずつ、白く濡れて光らせていた。

 西の方の屋根に、小さな影が見えた。
 膝を抱えて、昼と同じ形のまま、動いていなかった。

 わたしは、帳面の新しい頁を開いた。
 イサナの一行の下に、自分の字で書いた。

 コチ。門楼から西へ、屋根二十。水路三本。
 水は、明日の昼には膝まで引く。

 少し考えてから、もう一行、書き足した。

 明日、連れて帰る。

 筆を置いて、帳面を閉じた。
 イサナの背中は、動かなかった。眠っているのか、眠ったふりをしているのか、わたしには分からなかった。
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