第7話 一日目・屋根の街
潮帳――港の路地を一本、失くした。どこへ抜ける路地だったかも。
夜明けの崖の上で、イサナは鼻の奥を押さえた。
痛い、と思った。匂いが、痛い。
一晩で、鏡の淵は大人の背丈の十倍ほども引いていた。
昨日まで水面だった高さに、崖の岩肌が濡れた帯になって剝き出している。その帯の下、ずっと下の方に、屋根があった。
屋根、屋根、屋根。
黒い瓦が、朝日を受けて濡れ光っていた。棟から棟へ、海草の房が垂れ下がっている。煙突の先に、白い貝殻がびっしりと貼りついている。屋根と屋根のあいだには、まだ水が残っていた。かつて通りだった場所が、今は幾筋もの細い水路になって、淵の真ん中へ向かってゆっくりと流れていた。
屋根の街が、どこまでも続いていた。遠く、淵の真ん中あたりだけが、まだ深い水に沈んで青黒かった。
三百年前に沈んだ都。ウナサカ。
その外側の、ほんの縁だけが、百年ぶりに空の下へ出ていた。
「......すごい」
隣で、ミオが言った。
頭巾はかぶっていなかった。七つ編みを一本にまとめて、背中に垂らしている。背負い袋に、瓢箪と、帳面と、干し飯。朝の風で、頬が少し赤かった。
イサナは答えなかった。答える余裕がなかった。
舌の奥がひりついていた。立っているだけで、崖を吹き上がってくる風の塩が、細かい記憶の破片になって舌に触れてくる。誰かが笑った声。瓦を踏む足の裏の感触。焼いた魚の匂い。どれも、自分のものではなかった。
口を閉じて、息を鼻から吐いた。吸わないようにした。
崖の上には、潮司庁の旗が立ち並んでいた。
大潮司が、短い祈りの言葉を述べた。穏やかな声が、風に乗って崖の縁まで届いた。群臣と見物の民が、頭を垂れた。陸の国の使節が、高い襟の中で首をすくめていた。
それから、太鼓が鳴った。
大干の一日目が、始まった。
◇
縄梯子で崖を下りきると、足の下は瓦だった。
濡れて、ぬめっていた。一歩踏み出すたびに、靴の底が滑った。
「足を、棟に沿わせろ。瓦の真ん中は踏むな。割れてたら、下は水だ」
「分かった」
ミオは、言われたとおりにした。
膝が震えているのが、イサナにも見えた。屋根と屋根の間の水路をのぞきこむたびに、ミオの肩が小さく跳ねた。それでも、足は止まらなかった。
他の組は、もう散っていた。
カイリとトモは、屋根の上をまっすぐ淵の中心へ向かっていた。カイリが前を行き、白髪のトモが、その背中に縄を結んでついていく。迷いのない足取りだった。トモは、前の大干を知っている世代の潮読みから、何かを聞かされているのかもしれない。
ユラとウツロは、北寄りの低い屋根を選んで、ゆっくりと進んでいた。ユラは、ときどき立ち止まって祈っていた。
ハヤテの組は、屋根の上にさえいなかった。平底の小舟を崖から下ろさせて、水路を舟で進んでいた。舳先には、頭巾の者がひとり座っていた。ときどき、水に手を入れては、指を舐めていた。
「舟、ずるい」
「ずるくはねえ。禁じられてねえからな」
「あなたが言うと、ずるく聞こえる」
イサナは鼻を鳴らした。
それから、屋根の棟に片膝をついて、辺りを見回した。
王宮へ入る道は、この都に沈んだ人々の記憶の中にしかない。
地図はない。書庫の証言録には、通り一本の名前も書かれていなかった。読むしかない。読むなら、どこで、誰を読むか。
イサナは、濡れた瓦の上を這うようにして進んだ。
隣の屋根。そのまた隣。三つ目の屋根の、棟の付け根で、手が止まった。
瓦と瓦の隙間に、何かが挟まっていた。
小さな、靴だった。
子どもの足の大きさの、革の靴。三百年の塩で、石のように固くなっていた。表面には、白い貝の子がいくつも貼りついていた。
その横の、瓦の窪みに、海水が溜まっていた。
手のひらで掬えるほどの、小さな溜まり。
「......ここで読む」
「決めるのは、あなた」
ミオが、背負い袋を下ろして、帳面を出した。
イサナは、窪みの水を指で掬った。口に含んだ。
◇
屋根の上を、走っていた。
足が小さい。体が軽い。瓦を踏む足の裏が、熱かった。夏の瓦だった。
一つ目の鐘楼を過ぎた。二つ目。三つ目の鐘楼の手前で、左へ跳んだ。赤い瓦の屋根。そこから、雨樋の金具を伝って、低い物干し台へ。物干し台から、染物屋の藍の布をくぐって、石段の上へ飛び降りる。
石段の下には、市場があった。
魚の匂い。果物の匂い。呼び声。
いつもの道だった。この道を知っているのは、町内の子どもだけだ。大人は、みんな下の通りを歩く。屋根の道の方が、ずっと早いのに。
スズ、と誰かが呼んだ。
母さんの声だった。下の通りから、見上げて呼んでいた。スズ、屋根で遊ぶんじゃないよ。
笑って、手を振った。
振りながら、海の方を見た。
海は、都の前にあった。港の向こうに、夕日の色を映した、いつもの海。
音がしたのは、後ろからだった。
振り向いた。
都の奥。王宮の、さらに向こう。都と淵を分ける、大きな大きな堤。見上げるほど高い、灰色の石の壁。
その壁の上の方が、崩れていた。
外から押されて崩れたのではなかった。内側から、王宮の側から、石が一つずつ、外へ抜け落ちていった。まるで、誰かが中から一つずつ外していくように。
抜けた穴から、水が噴き出した。
海は前にあるのに、水は後ろから来た。
王宮の方から。
水が、通りを呑んだ。下の通りから、母さんの声が消えた。
屋根の棟にしがみついた。瓦が冷たくなった。水が足を、膝を、胸を。
靴が脱げた。瓦の隙間に挟まった。
母さん、と呼んだ。
口に、水が入った。
◇
イサナは、水を吐いた。
瓦の上に両手をついて、何度も咳きこんだ。胸が痛かった。自分の胸だった。溺れていない、と体に言い聞かせるまで、しばらくかかった。
「イサナ」
ミオの手が、背中にあった。
彼は、その手を払わなかった。
「......道が、分かった」
息を整えながら、言った。
「三つ目の鐘楼の手前を、左。赤い瓦。雨樋を伝って、物干し台。染物屋。石段を下りたら、市場だ。この子の、毎日の近道だ」
「子ども」
「女の子だ。七つか、八つ」
ミオは、筆を持ったまま、瓦の隙間の小さな靴を見た。
それから、何も言わずに、道順を帳面に書きつけた。
イサナは、目を閉じた。
何が溶けたのか、探さなければならなかった。
昨日の夕飯。干し飯。塩田。水門。
先月の仕事。溺れた漁師。緑の空は、もう知らない。
港の朝。港の朝。
住んでいる長屋から、港へ下りる道。
そこで、引っかかった。
長屋の角を曲がって、魚屋の裏を抜けて、それから。
それから、どこを通っていた。
毎朝、通っていたはずの細い路地が、あるはずの場所に、何もなかった。塗りつぶされたのではない。最初から描かれていなかった紙のように、ただ白かった。
「......路地だ」
目を開けた。
「港へ下りる近道の路地。一本、なくなってる。毎朝走ってた道だ」
ガキの近道と、俺の近道か。似てるな。
イサナは帳面を出して、書いた。ミオは、彼が書き終えるのを待って、その一行を自分の帳面に写した。筆の運びが、少し速くなっていた。
◇
子どもの道は、正しかった。
三つ目の鐘楼は、半分崩れて、屋根の上に突き出ていた。その手前を左に跳んだ。赤い瓦は、見当たらなかった。黒い瓦ばかりが続いていた。
「あった」
ミオが、帳面を片手に、少し先の屋根を指さしていた。
三百年の海で、赤は錆びた茶色に変わっていた。周りの黒い瓦の中で、そこだけ、わずかに色が違った。イサナは、赤い瓦を探していた。ミオは、帳面の道順を読みながら、色の違う瓦を一枚ずつ探していた。
雨樋の金具は、まだそこにあった。物干し台は、柱だけが残っていた。染物屋の藍の布はなかった。
ミオは、雨樋の金具を伝うところで、一度だけ足を滑らせた。
イサナが手を伸ばすより早く、自分で金具にしがみついた。膝を擦りむいて、血が滲んだ。何も言わずに、登りきった。
石段の上まで来たとき、日は西へ傾きかけていた。
石段の下は、まだ水の底だった。明日になれば、あの子の市場が出てくる。
石段の上には、門楼が立っていた。
外郭の街と市場とを分ける、古い石の門。その楼の上だけが、乾いていた。今夜、乾いた床で眠れる場所は、この辺りではここしかない。
誰もいなかった。
一番乗りだった。
ミオが、門楼の石の床に、へたりこんだ。
膝を抱えて、しばらく動かなかった。それから、顔を上げて、帳面を開いた。何かを書きつけていた。何を書いているのか、イサナは覗かなかった。
半刻ほど遅れて、カイリとトモが門楼の下に着いた。
カイリは、楼の上のふたりを見上げて、短く頷いた。
「見事だ、ミオ」
それだけ言って、門楼の反対側の屋根に、野営の支度を始めた。
トモが、イサナに向かって、にやりと笑った。
「やるじゃねえか、舐め師」
◇
日が沈むころ、ハヤテの小舟が見えた。
門楼から、屋根二十ほど西の水路だった。舟は、一軒の屋根の脇に寄せられていた。舟から、誰かが屋根に下ろされた。
小さな影だった。
舟は、その影を置いて、崖の方へ水路を戻っていった。崖の下では、次の頭巾の者が、縄梯子を下りてきていた。
影は、屋根の棟に座ったまま、動かなかった。
イサナは、楼の縁まで出た。
夕日が、影の頭を照らしていた。
髪が、白かった。
宴の夜に見たときは、潮で色が抜けかけていただけの、短い髪が。
「コチ」
声が、勝手に出ていた。
「コチ」
影が、顔を上げた。
声のした方を、ぼんやりと見た。海鳥の声を聞いたときのように、少しだけ首を傾げた。
それから、また、足元の水を見下ろした。
イサナの手が、上衣の紐にかかっていた。
屋根二十。水路を三本、泳いで渡れば。
「よせ」
後ろで、トモの声がした。
「夜の淵に入るな。まだ引いてる最中だ。流れに持ってかれて、朝には真ん中の底だぞ」
イサナは、紐をつかんだまま動かなかった。
袖を、誰かが引いていた。ミオだった。何も言わずに、袖の端を握っていた。
水路の水が、淵の真ん中へ向かって、音もなく流れていた。
コチは、屋根の上で、膝を抱えていた。
「......あの野郎」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
◇
夜になった。
ふたつの月が、昇っていた。昨夜よりも、遠月の方が、わずかに高かった。
門楼の石の床で、ミオは眠らずに座っていた。
膝の擦り傷に、瓢箪の真水を一滴だけ垂らしていた。惜しむように。
「ねえ」
ミオが言った。
「あの子の中で、何を見たの。道のほかに」
イサナは、しばらく答えなかった。
月明かりの下で、屋根の街が、どこまでも黒く続いていた。その向こう、淵の真ん中あたりの水面から、何か細いものが突き出していた。昼の光の中では、水面のぎらつきに紛れて見えなかったものだった。
尖塔の先だった。
王宮の。
「堤が、壊れるところを見た」
「堤?」
「都と淵を分けてた、でかい堤だ。外から壊されたんじゃなかった」
イサナは、尖塔の先を見ていた。
「内側から壊れてた。王宮の方から。石が一個ずつ、中から外へ抜けていった」
ミオは、黙っていた。
帳面を持つ手が、膝の上で止まっていた。
「内側、って......」
イサナは、答えなかった。
王宮の方から。三百年前、あの王宮にいたのは――。
そこで、考えるのをやめた。
ふたつの月の光が、水の上の尖塔を、白く縁取っていた。