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第6話 二つの月の前夜

潮帳しおちょう――毎朝の屋台を、失くした。鯵の味も。囮。

 潮司庁しおつかさちょうの回廊には、腰掛けが一脚しかなかった。
 わたしはそこに座って、閉じた扉を見ていた。

 扉の向こうには、大潮司おおしおつかささまと、イサナがいる。
 今朝、港に潮司庁の使いが来た。大潮司さまが、潮読みしおよみイサナをお召しです。おひとりで。使いはそう言って、わたしの方を一度も見なかった。

 祭りは、明日だった。
 明日の夜明けに、大干おおひが始まる。

 回廊の窓から、淵の方角の空が見えた。朝なのに、遠月とおづきがまだ沈みきらずに、西の空に白く残っていた。もう、白い月の倍よりも大きく見えた。

 扉が開いたのは、窓の影が柱ひとつぶん動いたころだった。
 イサナが出てきた。
 わたしは立ち上がった。彼は、わたしの前を素通りしかけて、それから足を止めた。

「......何を言われたの」
「ありがたいお言葉だ」

 イサナは、回廊の窓の外を見たまま言った。

「『あなたは十歳のとき、たいへん賢い選択をしました。これからも、思い出さないでいなさい』」

 彼は、大潮司さまの声色を真似しなかった。自分の声で、一字ずつ、確かめるように言った。

「だとさ」
「どういう意味」
「知るか」

 イサナの指が、窓枠を叩いていた。とん、とん、とん。規則正しく。

「賢い選択だとよ。何を選んだかも、俺は覚えてねえのに」

 わたしは、何も言えなかった。
 名簿の写しを見せてくださったのは、大潮司さまだった。腕のいい潮読みを選びなさい、と。その同じ人が、選んだ潮読みに、思い出すなと言う。
 どちらも、優しい声だったはずだ。わたしは、その二つを、うまく一つの顔に重ねられなかった。

「行くぞ」

 イサナが歩き出した。

「最後の支度だ。縄と、油紙と、干し飯ほしいい。あんたの分もな」


◇


 昼すぎ、王宮の自室に戻ると、卓の上に見慣れないものが置いてあった。
 瓢箪だった。
 両手でやっと抱えられるほどの大きさで、口は蝋で封じてある。首に紙の札が結ばれていた。

 旧い都で、お役に立ちますように。

 差出人の名は、なかった。
 侍女に尋ねても、誰が置いていったのか知らないと言う。朝、部屋を整えたときには、なかったはずだと。

 わたしは、蝋を小刀の先で削り、栓を少しだけ抜いた。
 指先に、一滴垂らした。舐めた。
 塩の味がしなかった。
 甘いとさえ思った。井戸の水とも違う。雨水を何度も濾して、澄ませた水。この島で、いちばん高い水。

 真水。
 記憶を薄め、洗い流す水。潮霊しおだまを散らす、ただ一つの水。

 栓を戻しながら、わたしは卓の上の札をもう一度見た。
 几帳面な、美しい字だった。王宮の中に、こんな贈りものをしてくれる人の顔を、わたしは一人も思い浮かべられなかった。カイリ兄さまは、こういうことをする人ではない。ユラ姉さまは、わたしの部屋がどこにあるかも知らないだろう。
 分からないまま、瓢箪を背負い袋に入れた。重さが、肩にずしりと来た。


◇


 夕方、わたしは港へ下りた。
 イサナとは、魚市場の裏で落ち合う約束だった。

 桟橋を渡りかけたとき、声がした。
 市場の裏の、網干し場の方だった。わたしは桟橋の上で、足を止めた。

 男が三人、イサナを囲んでいた。
 市場の荒くれではなかった。三人とも、袖に千尋屋ちひろやの印の入った、揃いの紺の上衣を着ていた。少し離れたところに、もう一人。頭巾をかぶった細い影。

「若旦那がな、もう一遍、話をしてえってよ」
「話ならこの前、済んでる」
「済んでねえって、若旦那が言ってんだ」

 男のひとりが、イサナの腕をつかもうとした。
 イサナは、その手を払った。払った勢いのまま、後ろへ跳んだ。網干し場の縁は、そのまま海だった。

 水音がした。
 男たちが縁に駆け寄った。水面に、泡が浮いていた。イサナの姿は、どこにもなかった。

「どこ行った」
「下だ。市場の下の水路に潜りやがった」

 魚市場の石畳の下には、古い水路が通っている。昔、市場を建てたときに、潮の出入りのために掘られたものだと聞いた。今は半分以上が泥で埋まって、どこへつながっているのか、知っている者は少ない。
 中は真っ暗なはずだった。息継ぎのできる場所があるのかも、分からない。

 頭巾の影が、網干し場の縁に膝をついた。
 水面に手を差し入れ、指を口に運んだ。舐めた。
 わたしは、息を止めた。

 あれは、潮読みだ。
 水路で溺れた誰かを舐めて、水路の道を読もうとしている。イサナが逃げた道を、同じように読んで、追うつもりなのだ。

 背負い袋の中で、瓢箪が肩に当たった。

 雨の日、潮読みは仕事をしない。雨が、読みを崩すから。

 わたしは桟橋の上を、網干し場の真上まで走った。
 桟橋の板の隙間から、真下に水路の入り口が見えた。石で組んだ黒い穴。潮が、そこへゆっくりと吸いこまれていた。
 瓢箪を出した。蝋はもう削ってある。栓を抜いた。

 逆さにした。

 透明な水が、糸を引いて、黒い穴へ落ちていった。
 潮の流れに乗って、水路の奥へ吸いこまれていった。

 半分ほど注いだところで、下で声が上がった。

「......ぺっ。なんだこりゃ」

 頭巾の影が、水を吐き出していた。

「読めねえ。薄い。......真水だ、真水が混じってやがる」
「真水ぃ? 海のど真ん中でか」
「知るかよ。雨も降ってねえのに」

 男たちが、きょろきょろと周りを見た。
 わたしは桟橋の上で、瓢箪を抱えたまま、板の上に腹ばいになっていた。心の臓が、板を叩いていた。

 男たちは、しばらく水路の入り口を覗きこんでいた。
 やがて、ひとりが舌打ちをして、網干し場の杭を蹴った。頭巾の影は、まだ口を拭っていた。

「出口で待ちゃいい。どこに出るか、誰か知ってるか」
「知るかよ。こんなどぶ」

 四つの影が、市場の方へ引き上げていった。
 わたしは、足音が聞こえなくなるまで、板の上で動かなかった。それから起き上がって、桟橋を駆け戻った。

 市場の裏で、網を繕っていた年寄りの漁師をつかまえた。

「市場の下の水路は、どこへ抜けるの」
「なんだい、娘っこ。あんなもん、泥で詰まって」
「どこへ抜けるの」

 わたしの声に、漁師は針を持つ手を止めた。

「......昔は、東の塩田の水門まで通じてた。潮を塩田に引くためにな。今も通じてるかは、知らねえよ」

 わたしは礼も言わずに走り出した。
 背中で、漁師が何か言っていた。聞こえなかった。


◇


 イサナを見つけたのは、日が沈むころだった。
 港の東のはずれ、塩田の水門の脇だった。石の縁に、濡れ鼠の少年が、仰向けに転がっていた。

「......生きてる?」
「死んでたら、返事しねえ」

 イサナは咳をした。泥の混じった水を、横を向いて吐いた。

「水路の奥で、昔そこで溺れた人夫を読んだ」
「読んだの。あの中で」
「含みだ。溜まり場がいくつかあって、そこで息を継げた。どこで曲がりゃいいか、人夫の足が覚えてた。毎朝、あの水路の泥をかいてた男だ」

 彼は、仰向けのまま、空を見ていた。

「途中で、後ろから誰かが追ってくる気配が消えた。潮が、急に薄くなって」
「わたしが、真水を流したから」

 イサナの顔が、こっちを向いた。

「......真水?」
「誰かからの、贈りもの。半分、使っちゃった」

 イサナは、しばらくわたしを見ていた。
 何か言いかけて、やめた。それから、また空を見た。

「高えもんを、どぶに流しやがって」
「どういたしまして」

 イサナは、鼻から息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。

 それから、目を閉じた。
 唇が動きはじめた。昨日の夕飯。先月の仕事。港の朝。
 わたしは、その横にしゃがんで待った。何が溶けたのか、彼が見つけるまで。

 やがて、目が開いた。

「......分からねえ。何も抜けてねえ気がする」
「そう」
「腹、減ったな。朝から何も食ってねえ」
「いつもの屋台に行けばいいじゃない。鯵の」

 イサナが、わたしを見た。

「......鯵?」

 その目に、何も浮かんでいなかった。
 わたしは、口を開けたまま、言葉を探した。

「港の東の屋台。毎朝、同じ鯵の塩焼きを食べてたでしょう。頭から、骨ごと。お婆さんに、よく飽きないねえって言われて。あなたは、仕事の道具だからって答えてた」

 イサナは黙って聞いていた。
 知らない誰かの話を、聞く顔だった。

「......人夫は、毎朝、港の水路をさらってた」

 彼は、ゆっくりと言った。

「毎朝、港で、同じことをしてた男だ。......なるほどな。似てる」

 懐から、油紙の包みを出した。
 中の帳面は、端だけが湿っていた。筆は、なかった。わたしが自分の筆を差し出すと、彼は黙って受け取った。

――毎朝の屋台を、失くした。鯵の味も。囮。

 書き終えてから、イサナは筆の尻で、その一行をとんとんと叩いた。

「上等な囮だったな。こういうときのために、毎朝食ってたんだ」

 それから、少し間があった。

「......俺、そこで、コチにも食わせてたか」

 わたしは、答えるのに一拍かかった。

「尻尾を、あげてた。毎朝」
「そうか」

 イサナは、筆をわたしに返した。
 わたしは自分の帳面を開いて、彼の一行を、そのまま書き写した。契約してから、初めての一行だった。筆先が、少しだけ紙に引っかかった。


◇


 塩田の向こうで、月が昇りはじめた。
 白い月と、青白い遠月。今夜は、ふたつが同じ高さに並んでいた。ふたつの光が、塩田の水の上に、二本の道を並べて敷いていた。

 わたしたちは、水門の石の縁に並んで座っていた。
 イサナの着物から、まだ水が滴っていた。わたしは、半分軽くなった瓢箪を膝に抱えていた。

「明日の朝だな」
「ええ」
「最後に聞いとく。降りるのをやめるなら、今夜だ」
「やめない」
「泳げねえのに」
「四つは浮けるわ」

 イサナは、何も言わなかった。
 それから、ぽつりと言った。

「明日の朝飯は、どこで食うかな」

 わたしは、答えなかった。
 答えるかわりに、背負い袋から干し飯の包みを出して、半分を彼の膝に置いた。

 遠くで、音がした。
 崖の向こう、鏡の淵かがみのふちの方角だった。低く、長く、地の底から響くような音。巨きな瓶の栓が、ゆっくりと抜かれていくような。

 淵が、引いていく。
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【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
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第6話 二つの月の前夜

潮帳しおちょう――毎朝の屋台を、失くした。鯵の味も。囮。

 潮司庁しおつかさちょうの回廊には、腰掛けが一脚しかなかった。
 わたしはそこに座って、閉じた扉を見ていた。

 扉の向こうには、大潮司おおしおつかささまと、イサナがいる。
 今朝、港に潮司庁の使いが来た。大潮司さまが、潮読みしおよみイサナをお召しです。おひとりで。使いはそう言って、わたしの方を一度も見なかった。

 祭りは、明日だった。
 明日の夜明けに、大干おおひが始まる。

 回廊の窓から、淵の方角の空が見えた。朝なのに、遠月とおづきがまだ沈みきらずに、西の空に白く残っていた。もう、白い月の倍よりも大きく見えた。

 扉が開いたのは、窓の影が柱ひとつぶん動いたころだった。
 イサナが出てきた。
 わたしは立ち上がった。彼は、わたしの前を素通りしかけて、それから足を止めた。

「......何を言われたの」
「ありがたいお言葉だ」

 イサナは、回廊の窓の外を見たまま言った。

「『あなたは十歳のとき、たいへん賢い選択をしました。これからも、思い出さないでいなさい』」

 彼は、大潮司さまの声色を真似しなかった。自分の声で、一字ずつ、確かめるように言った。

「だとさ」
「どういう意味」
「知るか」

 イサナの指が、窓枠を叩いていた。とん、とん、とん。規則正しく。

「賢い選択だとよ。何を選んだかも、俺は覚えてねえのに」

 わたしは、何も言えなかった。
 名簿の写しを見せてくださったのは、大潮司さまだった。腕のいい潮読みを選びなさい、と。その同じ人が、選んだ潮読みに、思い出すなと言う。
 どちらも、優しい声だったはずだ。わたしは、その二つを、うまく一つの顔に重ねられなかった。

「行くぞ」

 イサナが歩き出した。

「最後の支度だ。縄と、油紙と、干し飯ほしいい。あんたの分もな」


◇


 昼すぎ、王宮の自室に戻ると、卓の上に見慣れないものが置いてあった。
 瓢箪だった。
 両手でやっと抱えられるほどの大きさで、口は蝋で封じてある。首に紙の札が結ばれていた。

 旧い都で、お役に立ちますように。

 差出人の名は、なかった。
 侍女に尋ねても、誰が置いていったのか知らないと言う。朝、部屋を整えたときには、なかったはずだと。

 わたしは、蝋を小刀の先で削り、栓を少しだけ抜いた。
 指先に、一滴垂らした。舐めた。
 塩の味がしなかった。
 甘いとさえ思った。井戸の水とも違う。雨水を何度も濾して、澄ませた水。この島で、いちばん高い水。

 真水。
 記憶を薄め、洗い流す水。潮霊しおだまを散らす、ただ一つの水。

 栓を戻しながら、わたしは卓の上の札をもう一度見た。
 几帳面な、美しい字だった。王宮の中に、こんな贈りものをしてくれる人の顔を、わたしは一人も思い浮かべられなかった。カイリ兄さまは、こういうことをする人ではない。ユラ姉さまは、わたしの部屋がどこにあるかも知らないだろう。
 分からないまま、瓢箪を背負い袋に入れた。重さが、肩にずしりと来た。


◇


 夕方、わたしは港へ下りた。
 イサナとは、魚市場の裏で落ち合う約束だった。

 桟橋を渡りかけたとき、声がした。
 市場の裏の、網干し場の方だった。わたしは桟橋の上で、足を止めた。

 男が三人、イサナを囲んでいた。
 市場の荒くれではなかった。三人とも、袖に千尋屋ちひろやの印の入った、揃いの紺の上衣を着ていた。少し離れたところに、もう一人。頭巾をかぶった細い影。

「若旦那がな、もう一遍、話をしてえってよ」
「話ならこの前、済んでる」
「済んでねえって、若旦那が言ってんだ」

 男のひとりが、イサナの腕をつかもうとした。
 イサナは、その手を払った。払った勢いのまま、後ろへ跳んだ。網干し場の縁は、そのまま海だった。

 水音がした。
 男たちが縁に駆け寄った。水面に、泡が浮いていた。イサナの姿は、どこにもなかった。

「どこ行った」
「下だ。市場の下の水路に潜りやがった」

 魚市場の石畳の下には、古い水路が通っている。昔、市場を建てたときに、潮の出入りのために掘られたものだと聞いた。今は半分以上が泥で埋まって、どこへつながっているのか、知っている者は少ない。
 中は真っ暗なはずだった。息継ぎのできる場所があるのかも、分からない。

 頭巾の影が、網干し場の縁に膝をついた。
 水面に手を差し入れ、指を口に運んだ。舐めた。
 わたしは、息を止めた。

 あれは、潮読みだ。
 水路で溺れた誰かを舐めて、水路の道を読もうとしている。イサナが逃げた道を、同じように読んで、追うつもりなのだ。

 背負い袋の中で、瓢箪が肩に当たった。

 雨の日、潮読みは仕事をしない。雨が、読みを崩すから。

 わたしは桟橋の上を、網干し場の真上まで走った。
 桟橋の板の隙間から、真下に水路の入り口が見えた。石で組んだ黒い穴。潮が、そこへゆっくりと吸いこまれていた。
 瓢箪を出した。蝋はもう削ってある。栓を抜いた。

 逆さにした。

 透明な水が、糸を引いて、黒い穴へ落ちていった。
 潮の流れに乗って、水路の奥へ吸いこまれていった。

 半分ほど注いだところで、下で声が上がった。

「......ぺっ。なんだこりゃ」

 頭巾の影が、水を吐き出していた。

「読めねえ。薄い。......真水だ、真水が混じってやがる」
「真水ぃ? 海のど真ん中でか」
「知るかよ。雨も降ってねえのに」

 男たちが、きょろきょろと周りを見た。
 わたしは桟橋の上で、瓢箪を抱えたまま、板の上に腹ばいになっていた。心の臓が、板を叩いていた。

 男たちは、しばらく水路の入り口を覗きこんでいた。
 やがて、ひとりが舌打ちをして、網干し場の杭を蹴った。頭巾の影は、まだ口を拭っていた。

「出口で待ちゃいい。どこに出るか、誰か知ってるか」
「知るかよ。こんなどぶ」

 四つの影が、市場の方へ引き上げていった。
 わたしは、足音が聞こえなくなるまで、板の上で動かなかった。それから起き上がって、桟橋を駆け戻った。

 市場の裏で、網を繕っていた年寄りの漁師をつかまえた。

「市場の下の水路は、どこへ抜けるの」
「なんだい、娘っこ。あんなもん、泥で詰まって」
「どこへ抜けるの」

 わたしの声に、漁師は針を持つ手を止めた。

「......昔は、東の塩田の水門まで通じてた。潮を塩田に引くためにな。今も通じてるかは、知らねえよ」

 わたしは礼も言わずに走り出した。
 背中で、漁師が何か言っていた。聞こえなかった。


◇


 イサナを見つけたのは、日が沈むころだった。
 港の東のはずれ、塩田の水門の脇だった。石の縁に、濡れ鼠の少年が、仰向けに転がっていた。

「......生きてる?」
「死んでたら、返事しねえ」

 イサナは咳をした。泥の混じった水を、横を向いて吐いた。

「水路の奥で、昔そこで溺れた人夫を読んだ」
「読んだの。あの中で」
「含みだ。溜まり場がいくつかあって、そこで息を継げた。どこで曲がりゃいいか、人夫の足が覚えてた。毎朝、あの水路の泥をかいてた男だ」

 彼は、仰向けのまま、空を見ていた。

「途中で、後ろから誰かが追ってくる気配が消えた。潮が、急に薄くなって」
「わたしが、真水を流したから」

 イサナの顔が、こっちを向いた。

「......真水?」
「誰かからの、贈りもの。半分、使っちゃった」

 イサナは、しばらくわたしを見ていた。
 何か言いかけて、やめた。それから、また空を見た。

「高えもんを、どぶに流しやがって」
「どういたしまして」

 イサナは、鼻から息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。

 それから、目を閉じた。
 唇が動きはじめた。昨日の夕飯。先月の仕事。港の朝。
 わたしは、その横にしゃがんで待った。何が溶けたのか、彼が見つけるまで。

 やがて、目が開いた。

「......分からねえ。何も抜けてねえ気がする」
「そう」
「腹、減ったな。朝から何も食ってねえ」
「いつもの屋台に行けばいいじゃない。鯵の」

 イサナが、わたしを見た。

「......鯵?」

 その目に、何も浮かんでいなかった。
 わたしは、口を開けたまま、言葉を探した。

「港の東の屋台。毎朝、同じ鯵の塩焼きを食べてたでしょう。頭から、骨ごと。お婆さんに、よく飽きないねえって言われて。あなたは、仕事の道具だからって答えてた」

 イサナは黙って聞いていた。
 知らない誰かの話を、聞く顔だった。

「......人夫は、毎朝、港の水路をさらってた」

 彼は、ゆっくりと言った。

「毎朝、港で、同じことをしてた男だ。......なるほどな。似てる」

 懐から、油紙の包みを出した。
 中の帳面は、端だけが湿っていた。筆は、なかった。わたしが自分の筆を差し出すと、彼は黙って受け取った。

――毎朝の屋台を、失くした。鯵の味も。囮。

 書き終えてから、イサナは筆の尻で、その一行をとんとんと叩いた。

「上等な囮だったな。こういうときのために、毎朝食ってたんだ」

 それから、少し間があった。

「......俺、そこで、コチにも食わせてたか」

 わたしは、答えるのに一拍かかった。

「尻尾を、あげてた。毎朝」
「そうか」

 イサナは、筆をわたしに返した。
 わたしは自分の帳面を開いて、彼の一行を、そのまま書き写した。契約してから、初めての一行だった。筆先が、少しだけ紙に引っかかった。


◇


 塩田の向こうで、月が昇りはじめた。
 白い月と、青白い遠月。今夜は、ふたつが同じ高さに並んでいた。ふたつの光が、塩田の水の上に、二本の道を並べて敷いていた。

 わたしたちは、水門の石の縁に並んで座っていた。
 イサナの着物から、まだ水が滴っていた。わたしは、半分軽くなった瓢箪を膝に抱えていた。

「明日の朝だな」
「ええ」
「最後に聞いとく。降りるのをやめるなら、今夜だ」
「やめない」
「泳げねえのに」
「四つは浮けるわ」

 イサナは、何も言わなかった。
 それから、ぽつりと言った。

「明日の朝飯は、どこで食うかな」

 わたしは、答えなかった。
 答えるかわりに、背負い袋から干し飯の包みを出して、半分を彼の膝に置いた。

 遠くで、音がした。
 崖の向こう、鏡の淵かがみのふちの方角だった。低く、長く、地の底から響くような音。巨きな瓶の栓が、ゆっくりと抜かれていくような。

 淵が、引いていく。
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