第5話 白潮院の杏
潮帳――初めて舐めた潮の味を、失くした。
崖の道は、背負い籠を担いだ者のために、段が低く刻んであった。
イサナの籠には、干した鯖と鯵と鰯が、藁で束ねて詰めこまれている。歩くたびに、籠の目から魚の匂いがこぼれた。
「ついて来ても、面白いもんはねえぞ」
「面白いものを見に来たんじゃないわ」
「じゃあ、何しに来た」
「潮読みの行き着く先を、見ておきたいの」
イサナは、振り返らなかった。
籠の紐を肩にかけ直して、少しだけ足を速めた。
白潮院は、鏡の淵を見下ろす崖の上にあった。
黒ずんだ板壁の、平たい建物だった。屋根には重石が並べてあり、軒下では、干した布が海風にはためいていた。白潮。読む仕事で、自分の記憶をほとんど失くしてしまった潮読みたち。その人たちが、ここで残りの日々を送っている。
祭りまで、あと三日。
あと三日で、この崖の下の海が引く。
◇
門をくぐると、世話役の男が出てきて、籠を受け取った。
代金の銅貨を数えながら、男はわたしの方をちらりと見た。頭巾をかぶっているから、王女だとは分からないはずだった。
「連れか」
「荷運びの見習いだ」
「えらく細い見習いだな」
イサナは答えなかった。わたしも黙っていた。
板張りの広い部屋に、人がいた。
二十人ほど。髪はみんな、白いか、白くなりかけていた。老人が多い。けれど、イサナとそう変わらない年の若者もいた。
縁側で、日なたぼっこをしている老人がいた。
イサナが通りかかると、老人は顔を上げた。
「あんた、誰だい」
「イサナ。干物を届けに来た」
「そうかい。ご苦労さん」
十歩ほど歩いて、イサナが籠の残りを置いて戻ってくると、老人はまた顔を上げた。
「あんた、誰だい」
「イサナ。干物屋だ」
「そうかい。ご苦労さん」
イサナは、少しも声の調子を変えなかった。
老人が、にこにこと頷いた。三度目に聞かれたときも、イサナは同じように答えた。
「......毎回、ああなの?」
「毎回だ」
「毎回、答えてるの?」
「聞かれたら答える。当たり前だろ」
わたしは、縁側の老人を振り返った。
老人は、もう海の方を見ていた。膝の上に、使いこんだ帳面が一冊、閉じたまま置いてあった。
◇
「あら、干物の子」
奥の間から、よく通る声がした。
女の人が、裾をからげて歩いてきた。四十くらいに見えた。日に焼けた丸い顔で、髪は真っ白なのに、声だけが若い娘のように弾んでいた。
「今日も臭いわねえ。あんた、魚の匂いしかしないのよ。杏は?」
「ある」
イサナは、懐から小さな布袋を出した。
女の人は、それをひったくるように受け取って、中を覗いた。干した杏が、十粒ほど入っていた。
「少ないわねえ」
「値上がりしてんだよ。文句なら八百屋に言え」
「言いに行けないから、あんたに言ってるんじゃない」
女の人は、一粒をつまんで口に放りこんだ。頬が、片方だけふくらんだ。それから、わたしに気づいた。
「あら。見ない顔。あんたも白くなりに来たの? 若いのに」
「ち、違います」
「冗談よう」
女の人は、声を立てて笑った。杏の甘い匂いがした。
わたしは、イサナの袖を引いた。
「頼まれてたの? 杏」
「来るたびに頼まれる。前に頼んだことは、覚えてねえ」
イサナは、自分の帳面を少しだけ開いて見せた。
端の方に、小さな字で書いてあった。白潮院、干物。杏を忘れるな。
「だから、毎回持ってくる。そんだけだ」
◇
院の裏手から、崖の外側の磯へ下りる段が刻まれていた。その途中に、岩をくり抜いた潮溜まりがあった。
満ち潮のたびに、外海の水が入れ替わるのだという。淵の水ではない。深さは大人の胸ほどで、底の岩が、日の光で緑色に揺れていた。
女の人は、着物のまま、そこへ入っていった。
入っていって、そのまま、仰向けに倒れた。
水しぶきは、ほとんど立たなかった。
女の人は、水の上に寝ていた。両腕を広げて、足先を少しだけ水面に出して、空を見ていた。白い髪が、水の中で海草のように広がっていた。
「......どうして」
思わず、声が出た。女の人が、目だけでこっちを見た。
「何が?」
「どうして、沈まないんですか」
「浮いてるからよ」
当たり前のことを、当たり前に答える声だった。
「あんた、泳げないの?」
喉が、詰まった。
イサナの方を見そうになって、やめた。
「......泳げません。水に、入れないんです。顔を浸けると、怖くなる」
「泳がなくていいのよ。浮くだけなら、誰でもできるの」
女の人は、水の上で、首だけこちらに向けた。
「入んなさい。浅いから。足、つくから」
わたしは、潮溜まりの縁に立った。
水は、澄んでいた。底が見えた。港の入り江より、ずっと浅い。それでも、足の指が、岩の縁から離れなかった。
背中の方で、イサナが何か言いかける気配がした。
わたしは、振り返らずに、片手を上げた。黙っていて、という合図だった。
一歩、入った。
冷たくなかった。日に温められて、ぬるいくらいだった。
二歩。三歩。水が胸の下まで来た。
「上手上手。はい、じゃあ倒れて」
「......手を、貸してもらえますか」
「貸さないわよ」
女の人は、あっさりと言った。
「貸すと、あんた、手にしがみつくでしょう。しがみつくと沈むの。いい? 息を吸って」
わたしは、息を吸った。
「海に任せるの」
背中を、倒した。
耳が、水に浸かった。世界の音が、ふっと遠くなった。こぽ、こぽ、と自分の鼓動だけが聞こえた。
あの老人の手が来る、と思った。指が、皺だらけの指に変わる、と。
来なかった。
わたしの手は、わたしの手のままだった。
空が見えた。青い空に、昼の遠月が、薄い貝殻のように白く浮かんでいた。雲がひとつ、ゆっくりと崖の向こうへ流れていった。
背中の下で、水がわたしを押し上げていた。わたしは何もしていないのに。
一つ。二つ。三つ。
四つめを数えたところで、腰が沈んだ。
鼻に水が入った。わたしはばたばたと手足を動かして、底に足をついた。咳きこんだ。塩辛かった。
「ほらね」
女の人が、水の上で寝たまま、手を叩いた。
「浮いたじゃない」
わたしは咳をしながら、顔を上げた。
濡れた前髪の向こうで、潮溜まりの縁に、イサナがしゃがんでいた。女の人にもらったのか、杏を一粒、口に入れていた。
「......四つ」
わたしは、指を四本立てて見せた。
「四つ、浮いた」
「見てた」
イサナは、杏の種を手のひらに吐き出した。
「最初の稽古よりは、だいぶましだ」
それだけだった。
それだけなのに、わたしは水の中に立ったまま、しばらく指を下ろせなかった。
◇
着物の裾を絞っていると、世話役の男が乾いた布を持ってきてくれた。
見習いにしては細い、とさっき言った男だった。わたしが布を受け取ると、男は潮溜まりの方へ顎をしゃくった。女の人は、まだ水の上に寝ていた。
「あの人に浮き方を教わった奴は、あんたで五人目だ」
「あの人は、昔から泳ぎが得意だったんですか」
「知らん。昔のことは、本人も知らん」
男は、あっさりと言った。
「ここへ来たときは、水に近寄りもしなかったそうだ。浮けるようになったのは、ここへ来てからだよ。毎日毎日、あそこで浮いてるうちに覚えた。今じゃ、雨の日以外は一日も欠かさねえ」
わたしは、布を握ったまま、水の上の白い髪を見た。
「白くなっても、覚えられるんですか」
「覚えるさ。昔のことが消えるだけで、今日のことは今日覚える。もっとも、覚えたことも長くはもたねえ。体に染みたもんだけが残るんだ。縁側の爺さんなんかは、その今日の分も、すぐにこぼしちまう。それでも、好きな食い物もできるし、嫌いな奴もできる。あの人は杏が好きで、干物の匂いが嫌いで、杏の届く日を指折り数えてる。本人は、数えてることを認めねえがな」
男は、少しだけ笑った。
「ここに来る連中は、たいてい、ここを墓場だと思って来る。あんたも、そういう顔をしてた」
わたしは、何も言えなかった。
男の言うとおりだったからだ。
◇
帰りぎわ、わたしは濡れた髪を布で拭きながら、院の隣の建物を見ていた。
院と同じような黒い板壁で、塀に囲まれている。塀の上から、小さな着物が何枚も干してあるのが見えた。子どもの声が、ときどき風に乗って聞こえた。
「隣は?」
「潮司庁の養い所。素質のあるガキを拾ってきて、潮読みに育てるとこだ」
イサナは、籠を背負い直しながら言った。
「コチも、あそこの出だ。親が陸葬の金も残さねえで死んで、五つのときに拾われた。あと半年で、登録だったんだ」
彼は、塀の上の小さな着物を見ていた。
その目は、何かを探しているようには見えなかった。何かを思い出しかけているようにも。ただ、干してある着物の数を、数えているだけのように見えた。
「あなたも、あそこにいたの?」
聞いてから、聞かなければよかったと思った。
イサナは、肩をすくめた。
「さあな。十の年より前のことは、分からねえ。ここには毎月来てるけど、何も出てこねえよ」
それから、崖の方へ歩き出した。
わたしは、女の人に頭を下げた。女の人は、縁側で杏をつまみながら、ひらひらと手を振った。
「今度は、杏を倍ね。干物の子に言っといて」
◇
崖の道の途中で、イサナが足を止めた。
わたしも止まった。彼の視線の先を見た。
鏡の淵が、眼下に広がっていた。
凪いだ水面は、いつものように空を映していた。
けれど、崖の岩肌に、細い白い線が一本、引かれていた。水面より、手のひらひとつぶん上に。塩の線だった。昨日まで、水がそこにあったという印。
「......引いてる」
イサナが、呟いた。
崖の下で、水が岩を離れていく音がした。ひどく小さな、息を吸うような音だった。