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第4話 名乗りの宴

潮帳しおちょう――初めて自分で稼いだ銭の使い道を、失くした。

「首が絞まる」
「絞まってない。正しく締まってるの」
「それを絞まってるって言うんだよ」

 潮司庁しおつかさちょうの大広間へ続く回廊で、イサナは三度目の文句を言った。
 借りものの礼服は、紺の地に波の紋を白く染め抜いたものだった。王宮の衣装部屋で、わたしが自分で選んだ。袖丈も身幅も合っている。合っていないのは、中身の顔つきだけだった。

「港で鯵を齧ってる方が、よっぽど楽だ」
「今夜は齧らないでね。出される料理は、骨まで食べちゃだめよ」
「......骨を残すのか。もったいねえ」

 本気で言っているのだと分かって、わたしは少しだけ笑った。
 笑ってから、自分が笑ったことに気づいた。ここ何日か、笑った覚えがなかった。

 祭りまで、あと五日。
 今夜は、名乗りの宴だった。王位の候補が、大干おおひへ連れて降りる潮読みしおよみの名を、大潮司おおしおつかささまと群臣の前で名乗る。名乗った組み合わせは、祭りが終わるまで変えられない。


◇


 大広間の天井は高く、梁から海草を編んだ飾り綱が垂れていた。
 南の窓は、すべて開け放たれている。その向こうに、ふたつの月が懸かっていた。遠月とおづきは、もう白い月の倍ほどの大きさに見えた。

 広間の奥の一段高い座に、大潮司さまがいた。
 白い髪を低く結い、灰色の衣をまとった小柄な老女だった。摂政として、この国を実際に動かしている人。それなのに、座る姿には偉ぶったところがひとつもない。膝の上で重ねた手が、祈っているようにも、ただ休めているようにも見えた。

「では、名乗りを」

 その声は、広間の隅々まで届いた。大きな声ではなかったのに。

 最初に進み出たのは、第一王子のカイリ兄さまだった。
 二十四歳。北の島の反乱を鎮めた武人で、広間にいる誰よりも背が高い。

「第一王子カイリ。潮読みは、トモ」

 後ろに控えていた白髪の老人が、面倒くさそうに頭を下げた。あの酒場の老人だった。礼服の襟を、わざと緩めている。わたしと目が合うと、片目をつぶってみせた。

 次は、第三王女のユラ姉さまだった。
 淡い水色の衣。細い首。祈りの形に組んだ指。姉さまは、潮司庁の神殿に毎朝通っていることで知られている。

「第三王女ユラ。潮読みは、ウツロと申します」

 姉さまの後ろから、少女がひとり進み出た。
 わたしと同じくらいの年に見えた。髪の半分が、根元から白い。灰色の目は、広間のどこも見ていないようだった。頭を下げる動きにも、音がなかった。

 三番目は、傍系のハヤテ兄さまだった。
 兄さまといっても、血のつながりは遠い。先々代の王の弟の、そのまた孫。母方は千尋屋ちひろやの家で、商会では若旦那と呼ばれているらしい。商会の金で仕立てた派手な上衣に、指輪を五つ。

「ハヤテ。潮読みは、千尋屋の潮読み」

 広間が、ざわついた。
 兄さまの後ろに、頭巾をかぶった者たちが七人、一列に並んでいた。背丈はばらばらで、誰の顔も見えない。

「ハヤテ殿。潮読みは、一人のはずでは」

 群臣の誰かが言った。兄さまは肩をすくめた。

「一人ずつだよ。ちゃんと、名簿には毎朝一人だけ書く。昨日の潮読みと今日の潮読みが違っちゃいけないって決まりが、どこかにあったかい?」

 広間の目が、一段高い座へ集まった。
 大潮司さまは、穏やかに首を傾けた。

「規則は、同じときに二人を連れて降りてはならない、とだけ定めています」
「だってさ」

 兄さまは、声のした方へ向き直った。

「それに、名乗ったのは千尋屋の潮読みだ。組み合わせは、祭りが終わるまで変えないよ」

 兄さまが笑った。何人かの臣が、顔をしかめた。何人かは、目をそらした。


◇


「第七王女ミオ」

 わたしは、一歩前に出た。

「潮読みは、イサナ」

 イサナが、わたしの隣で頭を下げた。首が絞まると言っていたわりに、その礼はきれいだった。
 広間の後ろの方で、誰かが笑いを噛み殺した。

「泳げぬ姫が」
「潮読みも、港の舐め師だそうだ」
「沈みに行くようなものだな。あれは王の器ではない」

 声は小さかった。聞こえるように、ちょうどいい小ささだった。
 わたしは、顎を上げたままでいた。子どものころから、こういう声には慣れている。慣れているはずだった。握った指の中で、爪が手のひらに食いこんでいた。

 隣で、イサナが小さく言った。

「気にすんな。港の方がもっとひでえことを言う」
「......慰めてるつもり?」
「事実を言ってる」

 名乗りが終わると、陸の国の使節が進み出た。
 大陸から来たという男で、襟の高い黒い服を着ていた。海の国の者なら、誰もそんな服は着ない。汗で首が蒸れるからだ。

「大潮司閣下。新しい王がお立ちになる前に、潮瓶しおがめの格付けについて、わが国の商館にもひとつ、席をいただきたい」

 広間が静かになった。
 潮瓶の格付けは、この国の財布の口そのものだ。わたしにも、それくらいは分かる。

「ご遠路、ありがとうございます」

 大潮司さまは、座ったまま、深く頭を下げた。

「たいへん大切なお話です。ですから、この国の新しい王に、直接お伝えいただくのがよろしいでしょう。祭りの七日が明ければ、お立ちになりますから」

 使節は、何か言いかけた。大潮司さまは、もう一度にこやかに頭を下げた。それで、話は終わった。
 誰も声を荒げていないのに、使節が負けたのだと分かった。


◇


 宴が始まると、わたしは壁ぎわに立っていた。
 候補の王女に話しかけにくる臣は、いなかった。泳げぬ姫に今から顔を売っても、得になることはない。わたしは杯の果実水を、少しずつ減らしていた。

「ミオ」

 名前を呼ばれて、振り向いた。
 大潮司さまが、そこにいた。座を降りて、ひとりでわたしのところまで歩いてきていた。

「お顔を、よく見せてくださいね。大きくなって」
「......大潮司さま」
「あなたの潮試ししおだめしのこと、覚えていますよ」

 わたしは、杯を持つ手を止めた。

「ひどく泣いて、泣き止んだあとで、わたくしに尋ねましたね。水はどこから来るのですか、と。六つの子が、泣き腫らした目で」

 大潮司さまは、目尻に皺を寄せて笑った。

「わたくしは、答えられませんでした。今でも、答えられません」

 乾いた、温かい手が、わたしの手の甲に一度だけ触れた。

「よく、ここまで来ましたね」

 それだけ言って、大潮司さまは座へ戻っていった。
 わたしは、その背中を見送った。
 潮試しのあと、あの日のことをわたしに尋ねた人は、一人もいなかった。父上も。姉さまたちも。泣いた王女のことを、覚えていてくれた人がいた。手の甲に、まだぬくもりが残っていた。


◇


「あなた、どこかで」

 声がして、わたしは顔を上げた。
 イサナの前に、ウツロが立っていた。
 さっきまで、どこも見ていなかった灰色の目が、まっすぐにイサナを見ていた。まばたきもしないで。

「港だろ。舐めの仕事で、何度か潮司庁とかち合ってる」
「......違う」

 ウツロは首を振った。
 それ以上、何も言わなかった。もう一度だけイサナの顔を見て、それから、音のない足取りでユラ姉さまの方へ戻っていった。

 イサナは、その背中を見送っていた。
 顔には、何も浮かんでいなかった。困ってもいなかった。思い出そうとしている顔でもなかった。凪いだ潮溜まりのような顔だった。
 その何もなさが、なぜか、わたしには気になった。


◇


 ハヤテ兄さまが来たのは、宴が半ばを過ぎたころだった。
 わたしにではなく、イサナに向かって、杯を掲げた。

「港の舐め師くん。噂は聞いてるよ。腕がいいのに、安く働くんだって?」
「安くねえ。適正だ」
「うちの潮読みにならないか」

 兄さまは、わたしの目の前でそう言った。

「七日で金十枚。今の姫さんの倍は出す。いや、倍じゃきかないか。姫さんの手持ちじゃ、金一枚も怪しい」

 イサナの指が、動いた。
 卓の縁で、親指が人差し指、中指、薬指と、順に叩いていった。数えている。金十枚が、港の舐め仕事の何年分になるのか。わたしにも数えられた。十年ではきかない。

「......いい話だな」
「だろう?」
「封は、開けてくれるのか」

 兄さまが、眉を上げた。

「俺の潮司庁の記録には、封がかかってる。開けられるのは、王だけだ。あんたが王になったら、開けてくれるか」
「開けるさ。約束しよう」
「いくらで」

 兄さまは、笑った。悪びれない笑いだった。

「言うねえ。商人の約束には、そりゃ値段がつくよ。そのときの相場で」
「だから断る」

 イサナは杯を置いた。

「あんたは、約束を値で売り買いする。今日の金十枚が、七日後に俺の封の値段より安くなってねえって、誰が決める」

 兄さまは、しばらくイサナを見ていた。
 それから肩をすくめて、指輪の光る手をひらひらと振った。

「残念。気が変わったら、いつでも千尋屋へ。値段は、その日の相場で」


◇


 回廊に出ると、夜風が冷たかった。
 わたしは、イサナの半歩うしろを歩いた。

「どうして断ったの」
「損得だ」
「金十枚よ。わたしじゃ、払えない」
「知ってる」

 彼は、それ以上何も言わなかった。
 わたしも、それ以上は聞かなかった。聞いたら、何かを台無しにしてしまいそうな気がした。
 自分の帳面を開きかけて、やめた。今夜、彼は何も失くしていない。書き写すものは、ない。それでも何か書いておきたくて、指が帳面の角を撫でていた。

 回廊の角を曲がったとき、向こうから、頭巾の列が来た。
 ハヤテ兄さまの、千尋屋の潮読みたちだった。七人が、一言も口をきかずに、わたしたちの横をすれ違っていく。

 最後のひとりが、わたしたちの前で、つまずいた。
 頭巾がずれた。

 潮で色の抜けかけた、短い髪。まだ丸い頬。
 十二か十三の、男の子だった。

 コチは、イサナを見た。
 それから、目をそらした。頭巾を深くかぶり直して、列の後ろを小走りに追いかけていった。

 その袖口には、もう青い紐が結ばれていなかった。
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【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
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第4話 名乗りの宴

潮帳しおちょう――初めて自分で稼いだ銭の使い道を、失くした。

「首が絞まる」
「絞まってない。正しく締まってるの」
「それを絞まってるって言うんだよ」

 潮司庁しおつかさちょうの大広間へ続く回廊で、イサナは三度目の文句を言った。
 借りものの礼服は、紺の地に波の紋を白く染め抜いたものだった。王宮の衣装部屋で、わたしが自分で選んだ。袖丈も身幅も合っている。合っていないのは、中身の顔つきだけだった。

「港で鯵を齧ってる方が、よっぽど楽だ」
「今夜は齧らないでね。出される料理は、骨まで食べちゃだめよ」
「......骨を残すのか。もったいねえ」

 本気で言っているのだと分かって、わたしは少しだけ笑った。
 笑ってから、自分が笑ったことに気づいた。ここ何日か、笑った覚えがなかった。

 祭りまで、あと五日。
 今夜は、名乗りの宴だった。王位の候補が、大干おおひへ連れて降りる潮読みしおよみの名を、大潮司おおしおつかささまと群臣の前で名乗る。名乗った組み合わせは、祭りが終わるまで変えられない。


◇


 大広間の天井は高く、梁から海草を編んだ飾り綱が垂れていた。
 南の窓は、すべて開け放たれている。その向こうに、ふたつの月が懸かっていた。遠月とおづきは、もう白い月の倍ほどの大きさに見えた。

 広間の奥の一段高い座に、大潮司さまがいた。
 白い髪を低く結い、灰色の衣をまとった小柄な老女だった。摂政として、この国を実際に動かしている人。それなのに、座る姿には偉ぶったところがひとつもない。膝の上で重ねた手が、祈っているようにも、ただ休めているようにも見えた。

「では、名乗りを」

 その声は、広間の隅々まで届いた。大きな声ではなかったのに。

 最初に進み出たのは、第一王子のカイリ兄さまだった。
 二十四歳。北の島の反乱を鎮めた武人で、広間にいる誰よりも背が高い。

「第一王子カイリ。潮読みは、トモ」

 後ろに控えていた白髪の老人が、面倒くさそうに頭を下げた。あの酒場の老人だった。礼服の襟を、わざと緩めている。わたしと目が合うと、片目をつぶってみせた。

 次は、第三王女のユラ姉さまだった。
 淡い水色の衣。細い首。祈りの形に組んだ指。姉さまは、潮司庁の神殿に毎朝通っていることで知られている。

「第三王女ユラ。潮読みは、ウツロと申します」

 姉さまの後ろから、少女がひとり進み出た。
 わたしと同じくらいの年に見えた。髪の半分が、根元から白い。灰色の目は、広間のどこも見ていないようだった。頭を下げる動きにも、音がなかった。

 三番目は、傍系のハヤテ兄さまだった。
 兄さまといっても、血のつながりは遠い。先々代の王の弟の、そのまた孫。母方は千尋屋ちひろやの家で、商会では若旦那と呼ばれているらしい。商会の金で仕立てた派手な上衣に、指輪を五つ。

「ハヤテ。潮読みは、千尋屋の潮読み」

 広間が、ざわついた。
 兄さまの後ろに、頭巾をかぶった者たちが七人、一列に並んでいた。背丈はばらばらで、誰の顔も見えない。

「ハヤテ殿。潮読みは、一人のはずでは」

 群臣の誰かが言った。兄さまは肩をすくめた。

「一人ずつだよ。ちゃんと、名簿には毎朝一人だけ書く。昨日の潮読みと今日の潮読みが違っちゃいけないって決まりが、どこかにあったかい?」

 広間の目が、一段高い座へ集まった。
 大潮司さまは、穏やかに首を傾けた。

「規則は、同じときに二人を連れて降りてはならない、とだけ定めています」
「だってさ」

 兄さまは、声のした方へ向き直った。

「それに、名乗ったのは千尋屋の潮読みだ。組み合わせは、祭りが終わるまで変えないよ」

 兄さまが笑った。何人かの臣が、顔をしかめた。何人かは、目をそらした。


◇


「第七王女ミオ」

 わたしは、一歩前に出た。

「潮読みは、イサナ」

 イサナが、わたしの隣で頭を下げた。首が絞まると言っていたわりに、その礼はきれいだった。
 広間の後ろの方で、誰かが笑いを噛み殺した。

「泳げぬ姫が」
「潮読みも、港の舐め師だそうだ」
「沈みに行くようなものだな。あれは王の器ではない」

 声は小さかった。聞こえるように、ちょうどいい小ささだった。
 わたしは、顎を上げたままでいた。子どものころから、こういう声には慣れている。慣れているはずだった。握った指の中で、爪が手のひらに食いこんでいた。

 隣で、イサナが小さく言った。

「気にすんな。港の方がもっとひでえことを言う」
「......慰めてるつもり?」
「事実を言ってる」

 名乗りが終わると、陸の国の使節が進み出た。
 大陸から来たという男で、襟の高い黒い服を着ていた。海の国の者なら、誰もそんな服は着ない。汗で首が蒸れるからだ。

「大潮司閣下。新しい王がお立ちになる前に、潮瓶しおがめの格付けについて、わが国の商館にもひとつ、席をいただきたい」

 広間が静かになった。
 潮瓶の格付けは、この国の財布の口そのものだ。わたしにも、それくらいは分かる。

「ご遠路、ありがとうございます」

 大潮司さまは、座ったまま、深く頭を下げた。

「たいへん大切なお話です。ですから、この国の新しい王に、直接お伝えいただくのがよろしいでしょう。祭りの七日が明ければ、お立ちになりますから」

 使節は、何か言いかけた。大潮司さまは、もう一度にこやかに頭を下げた。それで、話は終わった。
 誰も声を荒げていないのに、使節が負けたのだと分かった。


◇


 宴が始まると、わたしは壁ぎわに立っていた。
 候補の王女に話しかけにくる臣は、いなかった。泳げぬ姫に今から顔を売っても、得になることはない。わたしは杯の果実水を、少しずつ減らしていた。

「ミオ」

 名前を呼ばれて、振り向いた。
 大潮司さまが、そこにいた。座を降りて、ひとりでわたしのところまで歩いてきていた。

「お顔を、よく見せてくださいね。大きくなって」
「......大潮司さま」
「あなたの潮試ししおだめしのこと、覚えていますよ」

 わたしは、杯を持つ手を止めた。

「ひどく泣いて、泣き止んだあとで、わたくしに尋ねましたね。水はどこから来るのですか、と。六つの子が、泣き腫らした目で」

 大潮司さまは、目尻に皺を寄せて笑った。

「わたくしは、答えられませんでした。今でも、答えられません」

 乾いた、温かい手が、わたしの手の甲に一度だけ触れた。

「よく、ここまで来ましたね」

 それだけ言って、大潮司さまは座へ戻っていった。
 わたしは、その背中を見送った。
 潮試しのあと、あの日のことをわたしに尋ねた人は、一人もいなかった。父上も。姉さまたちも。泣いた王女のことを、覚えていてくれた人がいた。手の甲に、まだぬくもりが残っていた。


◇


「あなた、どこかで」

 声がして、わたしは顔を上げた。
 イサナの前に、ウツロが立っていた。
 さっきまで、どこも見ていなかった灰色の目が、まっすぐにイサナを見ていた。まばたきもしないで。

「港だろ。舐めの仕事で、何度か潮司庁とかち合ってる」
「......違う」

 ウツロは首を振った。
 それ以上、何も言わなかった。もう一度だけイサナの顔を見て、それから、音のない足取りでユラ姉さまの方へ戻っていった。

 イサナは、その背中を見送っていた。
 顔には、何も浮かんでいなかった。困ってもいなかった。思い出そうとしている顔でもなかった。凪いだ潮溜まりのような顔だった。
 その何もなさが、なぜか、わたしには気になった。


◇


 ハヤテ兄さまが来たのは、宴が半ばを過ぎたころだった。
 わたしにではなく、イサナに向かって、杯を掲げた。

「港の舐め師くん。噂は聞いてるよ。腕がいいのに、安く働くんだって?」
「安くねえ。適正だ」
「うちの潮読みにならないか」

 兄さまは、わたしの目の前でそう言った。

「七日で金十枚。今の姫さんの倍は出す。いや、倍じゃきかないか。姫さんの手持ちじゃ、金一枚も怪しい」

 イサナの指が、動いた。
 卓の縁で、親指が人差し指、中指、薬指と、順に叩いていった。数えている。金十枚が、港の舐め仕事の何年分になるのか。わたしにも数えられた。十年ではきかない。

「......いい話だな」
「だろう?」
「封は、開けてくれるのか」

 兄さまが、眉を上げた。

「俺の潮司庁の記録には、封がかかってる。開けられるのは、王だけだ。あんたが王になったら、開けてくれるか」
「開けるさ。約束しよう」
「いくらで」

 兄さまは、笑った。悪びれない笑いだった。

「言うねえ。商人の約束には、そりゃ値段がつくよ。そのときの相場で」
「だから断る」

 イサナは杯を置いた。

「あんたは、約束を値で売り買いする。今日の金十枚が、七日後に俺の封の値段より安くなってねえって、誰が決める」

 兄さまは、しばらくイサナを見ていた。
 それから肩をすくめて、指輪の光る手をひらひらと振った。

「残念。気が変わったら、いつでも千尋屋へ。値段は、その日の相場で」


◇


 回廊に出ると、夜風が冷たかった。
 わたしは、イサナの半歩うしろを歩いた。

「どうして断ったの」
「損得だ」
「金十枚よ。わたしじゃ、払えない」
「知ってる」

 彼は、それ以上何も言わなかった。
 わたしも、それ以上は聞かなかった。聞いたら、何かを台無しにしてしまいそうな気がした。
 自分の帳面を開きかけて、やめた。今夜、彼は何も失くしていない。書き写すものは、ない。それでも何か書いておきたくて、指が帳面の角を撫でていた。

 回廊の角を曲がったとき、向こうから、頭巾の列が来た。
 ハヤテ兄さまの、千尋屋の潮読みたちだった。七人が、一言も口をきかずに、わたしたちの横をすれ違っていく。

 最後のひとりが、わたしたちの前で、つまずいた。
 頭巾がずれた。

 潮で色の抜けかけた、短い髪。まだ丸い頬。
 十二か十三の、男の子だった。

 コチは、イサナを見た。
 それから、目をそらした。頭巾を深くかぶり直して、列の後ろを小走りに追いかけていった。

 その袖口には、もう青い紐が結ばれていなかった。
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