第3話 泳げない王女
潮帳――干し網の結び方を、失くした。
水は、膝までしかなかった。
それなのに、わたしの足は石になっていた。
「そこで止まるな。もう一歩」
「分かってる」
「分かってる奴の足は、もう少し動くもんだ」
朝の浅瀬は、港の裏手の小さな入り江にある。岩に囲まれて波が立たず、漁師の子どもたちが最初に泳ぎを覚える場所だと、イサナは言った。今朝は子どもの姿はない。わたしが頼んで、人払いをしてもらったからだ。人払いの代金は、干し柿ひと袋だった。
水は澄んでいた。底の砂に、小さな蟹の影が走った。
冷たさが、脛から這い上がってくる。塩が、肌の細かい傷に沁みる。
「腰まで来たら、仰向けになれ。背中は俺が支える。耳まで水に浸けて、空を見てろ。それだけだ」
「それだけ」
「それだけだ。溺れようがねえ。ここで溺れたら、港の笑いもんだぞ」
わたしは一歩、進んだ。
もう一歩。水が腿を包んだ。
イサナの手が、わたしの背に添えられた。思っていたより大きくて、硬い手だった。網の綱で擦れた皮膚が、薄い上着ごしに分かった。
「倒れろ」
わたしは、空を見た。
青白い遠月が、朝の空にまだ薄く残っていた。背中が傾いた。耳の縁に、水が触れた。
その瞬間だった。
指が、わたしの指ではなくなった。
節くれだって、皺だらけで、爪の割れた指。それがわたしの手首の先についていて、わたしの意思とは関係なく、ゆっくりと何かをつかもうとしている。耳の奥で、誰かが息をしていた。わたしのではない、長くて、深くて、ひどく古い息。その誰かが、わたしの目の奥から、外を見ようとしていた。
「――いや」
水を蹴った。腕を振りまわした。
自分の叫び声を、どこか遠くで聞いた。塩辛い水が鼻に入り、喉を焼いた。イサナの腕が、わたしの胴をつかんで引き上げた。わたしはその腕に爪を立てて、しがみついた。
気がつくと、浜の砂の上に座りこんでいた。
膝を抱えていた。歯が鳴っていた。朝日が当たっているのに、止まらなかった。
イサナは少し離れたところに立っていた。腕に、赤い爪の跡が四本、並んでいた。
「......ごめんなさい」
「謝る前に、何があったか言え」
責める声ではなかった。仕事の段取りを確かめる声だった。それが、今のわたしにはありがたかった。
◇
「潮試し、って知ってる?」
わたしは膝を抱えたまま言った。
「王族の子は、六つになると、潮司庁で潮を舐めるの。鏡の淵から汲んで、何百倍にも薄めた潮を、一滴だけ。それで潮読みの素質があるかを見る。ついでに、王族としての健やかさを見るんだって」
「で、あんたは」
「一滴、舐めた。そしたら、知らない人になった」
わたしは、自分の手のひらを見た。
まだ少し震えている。小さくて、指の細い、十五の娘の手。
「年寄りだった。すごく年寄りの、男の人。その人の手になって、その人の目で、天井を見てた。わたし、泣いたって聞いてる。覚えてないの。覚えてるのは、自分の手が自分の手じゃなかったことだけ」
「それから水が駄目になった」
「水に顔をつけると、あの人が戻ってくる気がする」
イサナは、しばらく入り江の水面を見ていた。
「潮酔いだな」
「......潮酔い」
「濃い潮を飲むと、読んだ奴に頭を持っていかれる。何百倍に薄めても、淵の潮だろ。ガキには濃すぎたんだ。大人でも吐く奴はいる」
彼は、腕の爪痕を指でこすった。
「別に珍しくもねえ。港にも、昔の潮酔いで川にしか入れねえ漁師がいる」
それだけ言って、彼はわたしに手を差し出した。
「今日はここまでだ。明日も来い」
わたしは、その手を見た。
「......もう一回」
「は?」
「もう一回、やる。今日のうちに」
イサナは眉を寄せた。わたしは自分で立ち上がった。膝の砂を払い、入り江の方へ歩いた。水が、足首に触れた。脛に触れた。そこで、足がまた止まった。
今度は、止まったまま動かなかった。
「......分かったよ」
背中で、イサナの声がした。
「足首までで、百数えろ。それが今日の稽古だ」
わたしは足首まで水に浸かって、百を数えた。
六十を過ぎたあたりで、声が震えなくなった。
◇
昼すぎ、わたしたちは王宮の書庫にいた。
七日のあいだに、都のどこを通って玉座まで行くのか。その手がかりを探すためだ。旧い都の地図は、三百年前の水とともに失われている。残っているのは、潮記だけだった。
潮記。潮から読み出した記憶を、字に書き起こした記録。
瓶に吐き戻した記憶は、何十年かで読めなくなる。字にしたものは、紙が朽ちないかぎり残る。そのかわり、言葉にできたぶんしか残らない。
書庫番の老人は、イサナの潮で色の抜けた髪と、洗いざらしの着物を見て、はっきりと顔をしかめた。
「潮読み風情を、王家の書庫に入れるわけには」
「第七王女の名で、わたしの付き人として入れます」
「しかし、殿下」
「祭りの候補には、書庫の閲覧が許されているはずでしょう。付き人を一人連れて。規則のどこにも、付き人が潮読みであってはならないとは書いていないわ」
書庫番は口をもごもごさせ、それから鍵を出した。
旧王都ウナサカの潮記は、奥の棚の三段を占めていた。
表紙に「海坂溺死者証言録」とある。都が沈んで百年ののち、最初の大干で潮読みたちが読み、書き起こしたもの。沈んだ民の、最後の記憶。
わたしは道の手がかりを探して、頁を繰った。イサナは、隣で別の巻を読んでいた。
魚売りの女。瓦職人。神殿の下働き。染物屋の隠居。
名前と生業と、住んでいた町の名は書いてある。けれど、どの証言にも、通りの名前が出てこなかった。どの角を曲がって家に帰ったのか。朝、どの井戸で水を汲んだのか。三百年前にそこで暮らしていた人なら、当たり前に覚えているはずのことが、どこにもない。
「道が、ひとつも書いてない」
わたしは帳面の上で、筆を止めたまま言った。
「これじゃ、地図にならない。前の祭りの候補たちは、何を頼りに玉座まで行ったの」
「潮読みが、その場で読んだんだろ。都に降りて、沈んでる奴を片っ端から」
「読んだものを、書き残さなかったの?」
「書き残したら、次の祭りで誰でも道が分かっちまう。潮司庁が、そんなもんを王家の書庫に置いとくかよ」
イサナは、自分の巻から目を上げずに言った。皮肉のつもりだったのかもしれない。わたしには、そうは聞こえなかった。
しばらくして、彼の手が止まった。
「......おかしい」
「何が」
イサナは、開いた頁をわたしの方へ滑らせた。
それから、別の巻の別の頁を、その横に並べた。さらにもう一冊。
「読んでみろ。三人とも、最後に何て言ってる」
わたしは読んだ。
――海神の御怒りを鎮めんと、王は御身を捧げ給う。我らもまた、王と共に海へ参る。
――海神の御怒りを鎮めんと、王は御身を捧げ給う。我らもまた、王と共に海へ参る。
――海神の御怒りを鎮めんと、王は御身を捧げ給う。我ら、王と共に海へ参る。
一字違いだった。
わたしは、さらに頁を繰った。四人目。五人目。十人目。言い回しが、揃っている。
「溺れた奴の記憶ってのは、こんなにきれいじゃねえんだ」
イサナは、指で紙の上を叩いた。
「息ができねえ。寒い。母ちゃん。足が何かに挟まってる。......そういうのが、最後にぐちゃぐちゃに来る。俺は十何人、溺れた漁師を読んでる。王様のために海へ参りますなんて考えながら沈んだ奴は、一人もいなかった」
「三百年前の人たちは、信心深かったのかもしれないわ」
「三十人いて、三十人とも同じ言い方でか」
わたしは、答えなかった。
書庫の高い窓から、午後の光が斜めに差していた。埃が、その中でゆっくりと回っていた。
「誰かが、読んだものを書き直した」
イサナが、低く言った。
「少なくとも、書き起こした奴は、読んだとおりには書いてねえ」
◇
わたしは、証言録の棚を離れた。
隣の棚に、王家の年代記がある。始祖王の治世の、最後の年。都が沈む前の出来事を、一行ずつ拾っていった。
遠月の祭り。港の拡張。北の島の反乱の鎮圧。
そして、沈む一月前の項に、一行だけ。
始祖王、瓶口に堰を築き、淵を鎮む。
「瓶口」
わたしは声に出して読んだ。
「鏡の淵と、外の海をつなぐ水道のこと。あの細い口」
イサナが、わたしの肩ごしにその一行を覗きこんだ。
「淵を鎮めるために、堰を築いた。......で、その一月後に、都は沈んだ」
「鎮めたはずの淵に」
わたしたちは、顔を見合わせた。
書庫の外で、刻を告げる鐘が鳴りはじめた。一つ、二つ。その音が、埃の中でやけに遠く聞こえた。
わたしは自分の帳面を開き、年代記の一行をそのまま書き写した。それから、証言録の一字違いの三行も。
筆を置いてから、ふと、棚に並んだ証言録の背を見た。
どの巻も、同じ墨の色だった。どの巻も、同じ筆の癖で題が書かれていた。二百年前に、何十人もの潮読みが書き起こしたはずの記録なのに。
「イサナ」
「なんだ」
「この証言録、最後に写し直したのは、いつだと思う」
イサナは答えなかった。
かわりに、一番端の巻を抜き出して、最後の頁を開いた。
奥付に、小さな朱の印が押されていた。
潮司庁、書写。