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第2話 封じられた十歳

潮帳しおちょう――網元の婆さまの顔を、失くした。弔いの日のことも。

「断る」

 崖の上で、イサナはそう言った。ふたつの月が、まだ淵の底に沈んでいた。

「理由を聞かせなさい」
「王族の頼みは、たいてい高くつく。払うのは頼んだ方じゃねえ」

 彼は背を向けて、崖の道を下りはじめた。わたしはその背中に言った。

「あなたが失くしたもの。わたしは、知ってる」

 足が止まった。
 一歩ぶんだけ。それからまた、歩き出した。

「知ってる奴は、みんなそう言う」

 足音が遠ざかっていった。わたしは、崖の上にひとり残された。
 追いかけなかった。追いかけて袖をつかむ王女は、三流だ。そう自分に言い聞かせて、淵を見下ろした。月の片方が、ほんの少しだけ、にじんで見えた。


◇


 王宮の北の端に、わたしの部屋はある。
 窓からは海が見えない。見えるのは厨房の煙突と、干された敷布だけだ。泳げない娘に海の見える部屋は要らないだろう、と誰かが決めたらしい。決めた人の顔を、わたしは知らない。

 その晩、わたしは文箱の底から、一通の手紙を出した。
 折り目が擦れて、角が丸くなっている。三年前の、日付のない手紙。

――ミオへ。明日は早いので、これが最後です。奥院おくのいんに入っても、こっそり書きます。侍女のイネに渡しておくから、毎月、月の欠ける晩に受け取りなさい。泣かないこと。泳げなくても、あなたは溺れない子だから。

 イネは、その翌年に宿下がりをした。
 月の欠ける晩は、三十六回来た。

 手紙を文箱に戻して、わたしは真新しい帳面を開いた。一頁目は白いままだった。何を書けばいいのか、まだ分からなかった。ただ、書くべきことがこれから増えるのだということだけは、分かっていた。


◇


 翌日の晩、わたしは港の酒場にいた。
 浜木綿はまゆうという名の店で、昼の網の匂いが、夜になってもそのまま天井に溜まっている。漁師と荷揚げの人夫と、あとは潮読みしおよみが三人。潮読みは、すぐに分かる。誰もが卓の上に小さな帳面を置いているからだ。

 イサナは奥の卓にいた。
 向かいに座っているのは、髪も眉も塩をふいたように白い老人だった。背中が丸く、盃を持つ指の節がひとつずつ大きい。

「トモ爺。聞きてえことがある」
「酒を奢るなら聞いてやる」
「もう奢ってる。それ三杯目だ」
「数えてんじゃねえよ、しみったれが」

 わたしは隣の卓に背を向けて座り、干し烏賊を一枚頼んだ。硬くて、噛みきれなかった。

「祭りで玉座まで行った潮読みは、どうなる」

 老人の盃が、口の手前で止まった。
 酒場の喧騒は変わらなかった。わたしの耳にだけ、その卓の音が消えたように聞こえた。

「白くなる」
「なんで」
「なんでもだ」

 老人は盃を干した。空になったそれを、卓に伏せた。

「俺ぁ第一王子の若様に雇われた。カイリ様だ。どうせ白くなる寸前の爺だ、最後にでけえ仕事をしてえだけよ。だがてめえは若えだろうが。やめときな」
「誘われたなんて言ってねえ」
「言ってねえな。......で、誘ったのは、そこの鼠か」

 背中に、ふたりぶんの視線が刺さった。
 わたしは干し烏賊を皿に置き、椅子ごと向き直った。

「鼠じゃないわ」
「王女様だってんだろ。聞いてらあ」

 トモという老人は、わたしを頭から爪先までながめて、鼻を鳴らした。

「泳げねえ姫さんか。こいつぁいい。淵に落ちたら誰が拾うんだ」

 言い返そうとして、やめた。
 言い返す言葉なら、十年ぶん用意がある。けれど、今夜ここで使うためのものではなかった。わたしは懐から、四つに折った紙を出し、イサナの前に置いた。

「読みなさい。こっちは、潮じゃなくて字だから」


◇


 紙は、潮司庁しおつかさちょうの名簿の写しだった。
 登録された潮読みの名と、生まれと、登録の日付。その中の一行を、わたしは朱で囲っておいた。

 イサナ。生年不詳。
 十歳、鏡の淵かがみのふちにて保護。記憶欠落。封。

 イサナは長いこと、その一行を見ていた。
 指で、朱の線をなぞった。一度。二度。

「......どこで手に入れた」
「大潮司おおしおつかささまが見せてくださったの。祭りの候補に決まった日に。潮読みを選ぶなら、名簿をよく見て、腕のいい人を選びなさいって」

 言いながら、わたしは彼の顔を見ていた。
 怒るかと思った。笑うかとも思った。どちらでもなかった。彼は、何も写っていない水面のような顔で、紙を見ていた。

「封、ってのは」
「あなたの記録の、その先の頁が封じられているということ。潮司庁の封は、王しか開けられない」
「仮王かりおうでもか」
「仮王は、本当の王じゃないもの。仮王の父上には、その権限がない」

 トモが、伏せた盃を指で回した。何も言わなかった。

「それから、もう一つ」

 わたしは紙の上から、朱の中の一語を指した。
 鏡の淵。

「あなたが保護されたのは、淵のほとり。何があったのかを知りたいなら、答えは淵の底にある。でも、淵の底には誰も降りられない。潜って届く深さじゃないし、降りたら潮度しおどで頭がやられる」
「知ってる」
「降りられるのは、百年に一度だけ」

 わたしは窓の外を指した。
 低い屋根の上に、青白い遠月とおづきが出ていた。昨日より、また少し大きい。

「遠月がいちばん近づくと、鏡の淵の水が引く。四日かけて引いて、七日目の満ち潮で戻る。大干おおひ。引いた底に、三百年前に沈んだ旧い都が出てくる。王位の候補は、その七日のあいだに都へ降りて、玉座の淵から始祖王しそおうさまの記憶を持ち帰る。持ち帰った者が、真王しんおうになる」
「知ってる。祭りの話は、ガキでも知ってる」
「なら、これは知ってる? 候補一人につき、連れて降りられる潮読みは一人だけ。護衛はなし。七日のあいだ、都には王の法が届かない。候補どうしで何をしても、罪にならない」

 イサナの目が、初めてわたしを見た。

「......そいつは、知らなかった」
「あなたが一緒に来てくれれば、淵の底に行ける。わたしが王になれば、あなたの封を開けられる。報酬は二つ。悪くない取引でしょう」


◇


「あんたは」

 イサナが言った。

「あんたは、なんで王になりてえんだ。泳げねえ姫さんが」

 酒場の誰かが、大声で笑った。どこかの卓で、皿が割れた。
 わたしは、手の中の干し烏賊の欠片を握っていた。

「真王が立ったら、ほかの王族はみんな、潮送りしおおくりになるの」
「潮送り。神官になるってやつか」
「俗世の名も縁も捨てて、潮司庁の奥院で、一生を海に仕えて暮らす。そう教わってる」

 わたしは息を吸った。

「三年前、第五王女のサヨ姉さまが、潮送りになった。潮送りは、祭りのときだけじゃないの。嫁ぎ先の決まらない王女は、二十になったら、神官として奥院に入る。姉さまは縁談が壊れて、ほかに行くところがなかった。儀式の前の晩まで、姉さまは毎日わたしに手紙をくれた。奥院に入っても、こっそり書くって約束してくれた」

 干し烏賊の欠片が、指の間で折れた。

「それきり、一通も来ない」

 トモが、盃を伏せた手を止めた。

「わたしは、姉さまと同じところへは行かない。王になるか、名前を失くすか、二つに一つなら、わたしは王になる。泳げなくても」

 イサナは答えなかった。
 名簿の写しを、もう一度見た。朱で囲まれた一行を、今度は声に出さずに、唇だけで読んだ。

「条件がある」
「言いなさい」
「一つ。読むかどうかは、俺が決める。あんたが命じても、読まねえときは読まねえ」

 わたしは頷いた。

「二つ。玉座の淵には、潜らない」

 トモが、ふっと息を吐いた。笑ったのか、そうでないのか、分からなかった。

「それじゃ、勝てないでしょう」
「玉座の前まで道をつけるのが、俺の仕事だ。その先は、あんたが別に考えろ。それが呑めねえなら、この話はなしだ」

 わたしは、自分の帳面を出した。
 王宮の文房で一番上等な紙を綴じた帳面だった。まだ、一文字も書いていない。その一頁目に筆で、彼の言ったとおりに書いた。

 読むかどうかは、俺が決める。
 玉座の淵には、潜らない。

「......何してんだ」
「契約の写し。それから、あなたの帳面を見せなさい」
「は?」
「これから、あなたがわたしのために読んで、何かを失くしたら、それを全部ここに書き写す。前に失くしたものも、写させてもらうわ。あなたがどれだけ払ったか、わたしが知らないままでいるのは筋が通らない」
「なんのために」
「払わせた分の勘定くらい、払わせた方がつけるものでしょう」

 イサナは口を開けて、閉じた。
 トモが、とうとう声を立てて笑った。喉に痰の絡んだ、長い笑いだった。

「気に入った。この姫さん、気に入ったぜイサナ。てめえの負けだ」

 イサナは舌打ちをして、懐から擦り切れた帳面を出した。卓の上に、少し乱暴に置いた。

「最初の頁は、写すな」
「分かった」

 わたしは二頁目から開いた。
 網元の婆さまの顔を、失くした。弔いの日のことも。
 干し網の結び方を、失くした。
 初めて自分で稼いだ銭の使い道を、失くした。
 細い字が、何十行も並んでいた。その一行ずつを、わたしは自分の帳面に写していった。筆を運ぶたびに、彼の知らない彼が、わたしの紙の上に増えていった。

 写し終わるまで、イサナは黙って酒場の天井を見ていた。


◇


 店を出ると、夜の港に潮が満ちていた。
 桟橋の杭が、半分まで水に沈んでいる。ふたつの月の光が、黒い水の上に二本の道を敷いていた。

「明日から稽古だ」

 イサナが言った。

「七日も淵の底を歩くんだ。足場は濡れた瓦と石畳ばっかりだろ。水に落ちたら、自分で浮いて、自分で上がれ。まずは水に慣れろ。朝、港の浅瀬に来い」

 わたしは帳面を胸に抱えたまま、立ち止まった。
 桟橋の下で、水が杭を舐める音がした。ちゃぷ、ちゃぷ、と。その音だけで、足の裏が冷たくなった。

「......泳げないの、わたし」
「知ってる。さっき爺が言ってた」
「そうじゃなくて」

 わたしは、自分の声がどこから出ているのか分からなかった。

「水に、入れないの」

 イサナが振り返った。
 月明かりで、彼の顔の半分だけが見えた。
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【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
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第2話 封じられた十歳

潮帳しおちょう――網元の婆さまの顔を、失くした。弔いの日のことも。

「断る」

 崖の上で、イサナはそう言った。ふたつの月が、まだ淵の底に沈んでいた。

「理由を聞かせなさい」
「王族の頼みは、たいてい高くつく。払うのは頼んだ方じゃねえ」

 彼は背を向けて、崖の道を下りはじめた。わたしはその背中に言った。

「あなたが失くしたもの。わたしは、知ってる」

 足が止まった。
 一歩ぶんだけ。それからまた、歩き出した。

「知ってる奴は、みんなそう言う」

 足音が遠ざかっていった。わたしは、崖の上にひとり残された。
 追いかけなかった。追いかけて袖をつかむ王女は、三流だ。そう自分に言い聞かせて、淵を見下ろした。月の片方が、ほんの少しだけ、にじんで見えた。


◇


 王宮の北の端に、わたしの部屋はある。
 窓からは海が見えない。見えるのは厨房の煙突と、干された敷布だけだ。泳げない娘に海の見える部屋は要らないだろう、と誰かが決めたらしい。決めた人の顔を、わたしは知らない。

 その晩、わたしは文箱の底から、一通の手紙を出した。
 折り目が擦れて、角が丸くなっている。三年前の、日付のない手紙。

――ミオへ。明日は早いので、これが最後です。奥院おくのいんに入っても、こっそり書きます。侍女のイネに渡しておくから、毎月、月の欠ける晩に受け取りなさい。泣かないこと。泳げなくても、あなたは溺れない子だから。

 イネは、その翌年に宿下がりをした。
 月の欠ける晩は、三十六回来た。

 手紙を文箱に戻して、わたしは真新しい帳面を開いた。一頁目は白いままだった。何を書けばいいのか、まだ分からなかった。ただ、書くべきことがこれから増えるのだということだけは、分かっていた。


◇


 翌日の晩、わたしは港の酒場にいた。
 浜木綿はまゆうという名の店で、昼の網の匂いが、夜になってもそのまま天井に溜まっている。漁師と荷揚げの人夫と、あとは潮読みしおよみが三人。潮読みは、すぐに分かる。誰もが卓の上に小さな帳面を置いているからだ。

 イサナは奥の卓にいた。
 向かいに座っているのは、髪も眉も塩をふいたように白い老人だった。背中が丸く、盃を持つ指の節がひとつずつ大きい。

「トモ爺。聞きてえことがある」
「酒を奢るなら聞いてやる」
「もう奢ってる。それ三杯目だ」
「数えてんじゃねえよ、しみったれが」

 わたしは隣の卓に背を向けて座り、干し烏賊を一枚頼んだ。硬くて、噛みきれなかった。

「祭りで玉座まで行った潮読みは、どうなる」

 老人の盃が、口の手前で止まった。
 酒場の喧騒は変わらなかった。わたしの耳にだけ、その卓の音が消えたように聞こえた。

「白くなる」
「なんで」
「なんでもだ」

 老人は盃を干した。空になったそれを、卓に伏せた。

「俺ぁ第一王子の若様に雇われた。カイリ様だ。どうせ白くなる寸前の爺だ、最後にでけえ仕事をしてえだけよ。だがてめえは若えだろうが。やめときな」
「誘われたなんて言ってねえ」
「言ってねえな。......で、誘ったのは、そこの鼠か」

 背中に、ふたりぶんの視線が刺さった。
 わたしは干し烏賊を皿に置き、椅子ごと向き直った。

「鼠じゃないわ」
「王女様だってんだろ。聞いてらあ」

 トモという老人は、わたしを頭から爪先までながめて、鼻を鳴らした。

「泳げねえ姫さんか。こいつぁいい。淵に落ちたら誰が拾うんだ」

 言い返そうとして、やめた。
 言い返す言葉なら、十年ぶん用意がある。けれど、今夜ここで使うためのものではなかった。わたしは懐から、四つに折った紙を出し、イサナの前に置いた。

「読みなさい。こっちは、潮じゃなくて字だから」


◇


 紙は、潮司庁しおつかさちょうの名簿の写しだった。
 登録された潮読みの名と、生まれと、登録の日付。その中の一行を、わたしは朱で囲っておいた。

 イサナ。生年不詳。
 十歳、鏡の淵かがみのふちにて保護。記憶欠落。封。

 イサナは長いこと、その一行を見ていた。
 指で、朱の線をなぞった。一度。二度。

「......どこで手に入れた」
「大潮司おおしおつかささまが見せてくださったの。祭りの候補に決まった日に。潮読みを選ぶなら、名簿をよく見て、腕のいい人を選びなさいって」

 言いながら、わたしは彼の顔を見ていた。
 怒るかと思った。笑うかとも思った。どちらでもなかった。彼は、何も写っていない水面のような顔で、紙を見ていた。

「封、ってのは」
「あなたの記録の、その先の頁が封じられているということ。潮司庁の封は、王しか開けられない」
「仮王かりおうでもか」
「仮王は、本当の王じゃないもの。仮王の父上には、その権限がない」

 トモが、伏せた盃を指で回した。何も言わなかった。

「それから、もう一つ」

 わたしは紙の上から、朱の中の一語を指した。
 鏡の淵。

「あなたが保護されたのは、淵のほとり。何があったのかを知りたいなら、答えは淵の底にある。でも、淵の底には誰も降りられない。潜って届く深さじゃないし、降りたら潮度しおどで頭がやられる」
「知ってる」
「降りられるのは、百年に一度だけ」

 わたしは窓の外を指した。
 低い屋根の上に、青白い遠月とおづきが出ていた。昨日より、また少し大きい。

「遠月がいちばん近づくと、鏡の淵の水が引く。四日かけて引いて、七日目の満ち潮で戻る。大干おおひ。引いた底に、三百年前に沈んだ旧い都が出てくる。王位の候補は、その七日のあいだに都へ降りて、玉座の淵から始祖王しそおうさまの記憶を持ち帰る。持ち帰った者が、真王しんおうになる」
「知ってる。祭りの話は、ガキでも知ってる」
「なら、これは知ってる? 候補一人につき、連れて降りられる潮読みは一人だけ。護衛はなし。七日のあいだ、都には王の法が届かない。候補どうしで何をしても、罪にならない」

 イサナの目が、初めてわたしを見た。

「......そいつは、知らなかった」
「あなたが一緒に来てくれれば、淵の底に行ける。わたしが王になれば、あなたの封を開けられる。報酬は二つ。悪くない取引でしょう」


◇


「あんたは」

 イサナが言った。

「あんたは、なんで王になりてえんだ。泳げねえ姫さんが」

 酒場の誰かが、大声で笑った。どこかの卓で、皿が割れた。
 わたしは、手の中の干し烏賊の欠片を握っていた。

「真王が立ったら、ほかの王族はみんな、潮送りしおおくりになるの」
「潮送り。神官になるってやつか」
「俗世の名も縁も捨てて、潮司庁の奥院で、一生を海に仕えて暮らす。そう教わってる」

 わたしは息を吸った。

「三年前、第五王女のサヨ姉さまが、潮送りになった。潮送りは、祭りのときだけじゃないの。嫁ぎ先の決まらない王女は、二十になったら、神官として奥院に入る。姉さまは縁談が壊れて、ほかに行くところがなかった。儀式の前の晩まで、姉さまは毎日わたしに手紙をくれた。奥院に入っても、こっそり書くって約束してくれた」

 干し烏賊の欠片が、指の間で折れた。

「それきり、一通も来ない」

 トモが、盃を伏せた手を止めた。

「わたしは、姉さまと同じところへは行かない。王になるか、名前を失くすか、二つに一つなら、わたしは王になる。泳げなくても」

 イサナは答えなかった。
 名簿の写しを、もう一度見た。朱で囲まれた一行を、今度は声に出さずに、唇だけで読んだ。

「条件がある」
「言いなさい」
「一つ。読むかどうかは、俺が決める。あんたが命じても、読まねえときは読まねえ」

 わたしは頷いた。

「二つ。玉座の淵には、潜らない」

 トモが、ふっと息を吐いた。笑ったのか、そうでないのか、分からなかった。

「それじゃ、勝てないでしょう」
「玉座の前まで道をつけるのが、俺の仕事だ。その先は、あんたが別に考えろ。それが呑めねえなら、この話はなしだ」

 わたしは、自分の帳面を出した。
 王宮の文房で一番上等な紙を綴じた帳面だった。まだ、一文字も書いていない。その一頁目に筆で、彼の言ったとおりに書いた。

 読むかどうかは、俺が決める。
 玉座の淵には、潜らない。

「......何してんだ」
「契約の写し。それから、あなたの帳面を見せなさい」
「は?」
「これから、あなたがわたしのために読んで、何かを失くしたら、それを全部ここに書き写す。前に失くしたものも、写させてもらうわ。あなたがどれだけ払ったか、わたしが知らないままでいるのは筋が通らない」
「なんのために」
「払わせた分の勘定くらい、払わせた方がつけるものでしょう」

 イサナは口を開けて、閉じた。
 トモが、とうとう声を立てて笑った。喉に痰の絡んだ、長い笑いだった。

「気に入った。この姫さん、気に入ったぜイサナ。てめえの負けだ」

 イサナは舌打ちをして、懐から擦り切れた帳面を出した。卓の上に、少し乱暴に置いた。

「最初の頁は、写すな」
「分かった」

 わたしは二頁目から開いた。
 網元の婆さまの顔を、失くした。弔いの日のことも。
 干し網の結び方を、失くした。
 初めて自分で稼いだ銭の使い道を、失くした。
 細い字が、何十行も並んでいた。その一行ずつを、わたしは自分の帳面に写していった。筆を運ぶたびに、彼の知らない彼が、わたしの紙の上に増えていった。

 写し終わるまで、イサナは黙って酒場の天井を見ていた。


◇


 店を出ると、夜の港に潮が満ちていた。
 桟橋の杭が、半分まで水に沈んでいる。ふたつの月の光が、黒い水の上に二本の道を敷いていた。

「明日から稽古だ」

 イサナが言った。

「七日も淵の底を歩くんだ。足場は濡れた瓦と石畳ばっかりだろ。水に落ちたら、自分で浮いて、自分で上がれ。まずは水に慣れろ。朝、港の浅瀬に来い」

 わたしは帳面を胸に抱えたまま、立ち止まった。
 桟橋の下で、水が杭を舐める音がした。ちゃぷ、ちゃぷ、と。その音だけで、足の裏が冷たくなった。

「......泳げないの、わたし」
「知ってる。さっき爺が言ってた」
「そうじゃなくて」

 わたしは、自分の声がどこから出ているのか分からなかった。

「水に、入れないの」

 イサナが振り返った。
 月明かりで、彼の顔の半分だけが見えた。
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