第1話 港の舐め師
潮帳――嵐の夜のことを、失くした。見習い小屋の屋根。
その潮読みは、毎朝同じ屋台で、同じ鯵を食べる。
三日つけ回して、わたしに分かったのはそれだけだった。
潮見の港は、夜明けと同時に塩の匂いでふくらむ。網を揚げる男たちの声。樽を転がす音。濡れた石畳を叩く草履。その中で、屋台の炭だけが静かに赤い。
「鯵。塩。いつもの」
少年は腰掛けに尻を落とすなり、そう言った。十六と聞いている。背はそれほど高くない。日に焼けた首の後ろに、潮で色の抜けた髪がかかっている。
「毎朝よく飽きないねえ、イサナ」
「飽きたら困る」
「なんでさ」
「仕事の道具だからだ」
屋台の婆さんは笑って串を返した。冗談だと思ったのだろう。わたしは笑わなかった。三日前から、この問答まで一字一句同じだったからだ。
わたしは屋台の端で、麦湯の椀を両手で包んでいた。借りた漁師の娘の上着は袖が短くて、手首に朝の風が入る。頭巾の縁を指で引き下ろした。王宮の侍女に見つかれば、明日から部屋の外に鍵がかかる。
「兄ちゃん、今日は含みだろ」
少年の隣に、もっと小さな男の子が滑りこんだ。十二か十三。袖口に、潮司庁の見習いを示す青い紐を結んでいる。
「コチ。声がでかい」
「だって含みは半月ぶりじゃん。見てていい? 見ててもいい?」
「見ても分からねえよ」
「分かるって。おれだって、もうすぐ登録なんだし」
イサナは鯵の頭から齧った。骨ごと噛む音がした。答えのかわりに串の残りをコチの手に押しつける。コチはそれを当たり前のように受け取り、尻尾まで食べた。
潮読み。沈んだものの記憶を、自分の体験として読む者。二千人に一人しか生まれない、国になくてはならない人間。そして、使い潰されることが前提の人間。
王宮の教本には、そう書いてある。最後の一文だけは書いていない。わたしが余白に足したのだ。
港には、潮読みがほかに四人いる。
そのうち三人は、網元や商会のお抱えで、沈んだ積み荷の目録を読むのが仕事だ。もう一人は酒で手が震えていて、舐めしか受けない。
イサナは、どこのお抱えでもなかった。腕は港でいちばんだと、魚市場の誰に聞いても言う。そのくせ回ってくるのは、日銭にしかならない安い仕事ばかりだった。潮司庁の役人に頭を下げないからだ、と魚屋の親父は言った。あいつは役人の前に出ると、口より先に顔に出るんだ、と。
わたしがこの少年を選んだ理由は、ほかにもう一つある。
それは、まだ本人にも言えない。
◇
依頼人は、港のはずれの長屋に住む女だった。
黒い帯を締めていた。ひと月前の嵐で、漁師の夫が沖に出たまま戻らなかったという。舟は防波堤の先の浅瀬で見つかった。夫は見つからなかった。
「海に沈めて弔うつもりなんて、なかったんです」
女は小舟の艫に座り、揺れるたびに舟べりをつかんだ。
「焼いてやるお金もなかったけど。でも、あの人の最後を、せめて」
「最後に何を見たか。それだけでいいな」
イサナが櫂を置いた。わたしとコチは防波堤の上から見下ろしていた。距離があるのに、舟べりをつかむ女の指の白さが分かった。
イサナは身を乗り出し、海に手を差し入れた。掬った水を口へ運ぶ。飲まない。含んだまま、目を閉じる。
含み。数年分、一人分の記憶の筋道を、口の中の潮から読むやり方。
十数えるあいだ、何も起きなかった。
それから、イサナの肩が跳ねた。
右手が舟べりをつかみ、左手が空をかいた。何もないところで、何かを引いている。網だ、と思った。見えない網の綱を、彼は両手で手繰っていた。唇の端から、水が一筋こぼれた。顔が風上へ向いた。今日は凪いでいるのに、彼の髪だけが横へ流れているように見えた。
「......兄ちゃん、きてる」
コチが囁いた。いつの間にか、わたしの袖を握っていた。
「きてる、って」
「今、兄ちゃんの中に、その人がいるんだ。その人の舟に乗って、その人の手で網を引いてる」
コチは目を離さずに言った。自慢の兄の芸を披露するような、それでいて、見たくないものを見張っているような声だった。
「読み終わったら、代わりに兄ちゃんの方から、何か出てく。海に溶けてく。どれが出てくかは、兄ちゃんにも選べないんだって」
「......あなたも、いつかそうなるのね」
「おれ? なるよ。潮読みだもん」
当たり前のことを聞かれた顔で、コチはわたしを見上げた。
イサナが水を吐いた。舟の外へ、細く。
長いこと、ただ息を吸っていた。それから女の方を向いた。
「空が緑だった」
女が息を止めた。
「雲の下が、腐った瓜みたいな緑だった。旦那はそれを見て網を切った。帆を下ろそうとして、間に合わなかった。舟が横になる前に」
イサナは一度、口を閉じた。
「あんたの名前を呼んでた。オリエ、って。三回」
女の手が、舟べりを離れた。膝の上で、指と指が絡まった。ほどき方を忘れた結び目のように。
女は長いこと何も言わなかった。波が、舟の腹を叩いた。
「......あの人、わたしのことそんなふうに呼んだこと、一度もなかったのに」
声は笑っていた。顔は見えなかった。
◇
岸に上がると、イサナは代金を受け取り、女に頭を下げた。女が去ったあと、彼は防波堤の陰に座りこみ、懐から帳面を出した。
表紙の擦り切れた、手のひらほどの帳面だった。
わたしはコチの背中に隠れるようにして、少しずつ近づいた。
「なあ兄ちゃん。今の、何が溶けた?」
「知らねえ。今から探す」
イサナは帳面を膝に置き、目を閉じた。唇だけが動いていた。自分に向かって何かを尋ねているのだと、しばらくして気づいた。昨日の夕飯。先月の仕事。去年の冬。指で一つずつ数えるように。
やがて、目が開いた。
「嵐がねえ」
「え?」
「ここ何年かの嵐のこと、ひとつも出てこねえ。去年の秋にでかいのが来たろ。俺、あの夜どこにいた」
「おれたちの見習い小屋の屋根、一緒に押さえてくれたじゃん」
コチの声が、少しだけ細くなった。
「兄ちゃん、びしょびしょになって。朝まで」
「そうか」
イサナは筆の先を舐めて、書いた。わたしは、見た。
――嵐の夜のことを、失くした。見習い小屋の屋根。
読んだ嵐に似た嵐から、溶ける。相似溶解。教本の言葉としては知っていた。知っているのと、目の前で誰かの夜がひとつ消えるのを見るのとは、違った。
コチが、潮で湿った石を爪先で蹴った。
頁をめくる風で、帳面の最初の頁が一瞬だけ見えた。
子どもの字だった。線が震えて、墨が滲んでいた。
家族を思い出そうとするな
イサナが帳面を閉じた。そのまま、わたしを見た。
「で。三日も何の用だ、鼠」
「......気づいてたの」
「その上着、網元のとこの娘のだろ。あそこの娘は麦湯なんか頼まねえ。甘酒だ」
わたしは頭巾を下ろさなかった。
「夕方、もう一度来るわ。読んでほしいものがあるの」
「高えぞ」
「知ってる。あなたの値段なら、三日前から調べてある」
◇
夕暮れの港は、朝より静かだった。
南の空に、月がふたつあった。見慣れた白い月と、その隣の、ひとまわり大きな青白い月。遠月。百年ごとに、いちばん近くまで降りてくる二番目の月。ひと月前は爪の先ほどだったのに、今はもう、親指の爪では隠しきれない。
祭りまで、あと十日。
祭りが終わるとき、わたしは王になっているか、名前を失っているか、どちらかだ。
イサナは約束どおり、防波堤の先で待っていた。
「どこだ」
「ついてきて」
わたしは返事を待たずに歩いた。港を出て、漁師町を抜け、崖沿いの細い道を登る。足音がひとつ、ちゃんとついてきた。
「先に値段の話をしとく」
背中で声がした。
「舐めなら銅貨十。含みなら銀一枚。潜りは受けねえ。前払い。読んで何も出なくても返さねえ」
「安いのね」
「喧嘩売ってんのか」
「褒めてるの。港の相場の半分でしょう。どうしてそんなに安くするの」
「高くすると、潮司庁の旦那方の仕事が回ってくる。旦那方の仕事は、読む量が多い」
量が多ければ、溶ける量も多い。
その一言を、彼は言わなかった。言わなくても分かるように言った。わたしは、振り返らずに頷いた。
途中で一度だけ、足音が止まった。
「おい。この先は」
「知ってる」
「禁域だぞ」
「知ってるって言ったでしょう」
崖の上に出ると、風が変わった。
塩の匂いが濃くなった。舐めなくても分かる。舌の奥が、ひりつくほどだった。
眼下に、丸い海があった。
切り立った崖に囲まれ、外の海とは細い水道ひとつでしかつながっていない、閉じた内海。水面は凪いで、ふたつの月を一つずつ、傷ひとつなく映していた。
鏡の淵。
三百年前に沈んだ都が、この底に眠っている。
イサナは崖の縁で立ち止まった。
その顔を、わたしはずっと見ていた。何かを思い出しかけて、その手前で自分の手を押さえている顔だった。
「......ここを読めってのか。死ぬぞ。俺じゃなくてもな」
「今はまだ、読まなくていい」
わたしは頭巾を下ろした。髪を束ねていた紐をほどく。王家の娘だけが結う七つ編みが、肩に落ちた。
イサナの目が、わたしの髪から顔へ移った。
「ワダツ第七王女、ミオ」
名乗る声が、少しだけ揺れた。風のせいにした。
「わたしを王にしなさい。代わりに、あなたが失くしたものを返してあげる」
淵の底の月は、揺れもせずに、わたしたちを見上げていた。