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第9話 二日目・潮霊の市

潮帳しおちょう――白潮院しらしおいんの潮溜まりで、わたしが四つ浮いた日を、失くした。

 朝になると、石段の下に市場があった。
 昨日の夕方まで、そこは黒い水だった。一晩で水は引き、石畳の広場が、濡れた背中を空に向けていた。

 広場を囲んで、石の台が並んでいた。売り台だ、とすぐに分かった。台の上に、底の抜けた籠が伏せてある。割れた甕が、口を空に向けている。どれも白い貝の子に覆われて、形だけが三百年前のまま残っていた。
 台と台の間には、潮溜まりがいくつも光っていた。

「あの子の市場ね」

 わたしが言うと、イサナは短く頷いた。
 スズが石段を駆け下りて、魚と果物の匂いの中へ飛びこんでいった市場。今は、潮と、腐った海草の匂いしかしなかった。

 カイリ兄さまとトモは、夜明けとともに門楼を発っていた。広場の南の、大きな通りへ入っていくのが見えた。ユラ姉さまたちの姿は、どこにもなかった。
 ハヤテ兄さまの小舟だけが、広場の西の水路に浮いていた。舳先の頭巾の者が、こちらを見ていた。


◇


「足を止めるな。溜まりを踏むな」

 イサナが言った。石段を下りきる前だった。

「どうして」
「二日目からは、出る」

 何が、と聞く前に、広場の真ん中の潮溜まりが、ふくらんだ。
 水が、立ち上がった。

 人の形をしていた。
 背丈は大人ほど。顔の場所に、顔はなかった。ただ、濡れた泡がゆっくりと渦を巻いていた。肩のあたりに、籠を担いでいるような形のふくらみがあった。水でできた魚売りが、三百年ぶりに売り台の方へ歩き出した。

 一つではなかった。
 潮溜まりという潮溜まりから、水が立ち上がっていった。籠を抱えた女。手を引かれた子ども。杖をついた老人。音はなかった。水の足が石畳を踏むたびに、ちゃぷ、と小さな音がするだけだった。

「潮霊しおだまだ」

 イサナの声が、低かった。

「沈んだ連中の記憶が、固まって歩いてる。触られるな。触られたら、そいつの溶けてる分だけ、こっちから持っていかれる」
「持っていかれるって、何を」
「知るか。選べねえのは、読むのと同じだ」

 潮霊たちは、市場の中を歩いていた。売り台の前で止まり、籠を下ろす形をした。呼び声のかわりに、泡が弾けた。
 それから、一つが、こちらを向いた。
 顔のない顔が、石段の上のわたしたちを、見た。

 一つが向くと、全部が向いた。


◇


 イサナが、わたしの前に出た。
 腕を横に広げて、わたしを石段の壁に押しつけた。

「下がってろ」
「下がる場所なんてないわ」

 後ろは石段で、その上は門楼だった。潮霊たちは、もう石段の下まで来ていた。水の手が、一段目にかかった。二段目。
 先頭の潮霊が、イサナの足首へ手を伸ばした。

 わたしは、背負い袋を下ろしていた。
 考えるより先に、手が瓢箪の栓を抜いていた。

 手のひらに真水を受けて、潮霊の顔へ振りかけた。

 音がした。
 焼けた石に水をかけたような、鋭い音だった。潮霊の顔が、ほどけた。頭から肩へ、肩から胸へ、ほどけて、ただの塩辛い霧になって、風に散った。石段の上に、水たまりが一つ残った。

 後ろにいた潮霊たちが、止まった。
 わたしは、もう一度、手のひらに受けた。振りかけた。二つ目が、ほどけた。三つ目。

「もういい」

 イサナが、わたしの手首をつかんだ。

「散った。残りは、下がってる。......それ以上使うな」

 潮霊たちは、潮溜まりへ戻っていった。立ち上がったときと同じように、ゆっくりと。水の中へ沈んで、ただの溜まりになった。
 市場は、また、静かになった。

 わたしは、瓢箪を振った。
 底の方で、ひと口ぶんほどの水が、頼りなく揺れた。

「......ほとんど、なくなった」
「こいつがなけりゃ、今ごろ俺は、何を持ってかれてたか分からねえ」

 イサナは、わたしの手から瓢箪を取って、栓を固く押しこんだ。それから、わたしの背負い袋に、そっと戻した。


◇


 市場の東の端に、石造りの蔵があった。
 屋根の半分が落ちて、中に朝日が差しこんでいた。床には、潮溜まりが一つ。その横に、腐りきった樽の箍たがが、輪の形のまま転がっていた。

「ここだ」

 イサナは、箍の横に膝をついた。潮溜まりを指で掬い、口に含んだ。
 わたしは、帳面を開いて待った。

 彼の両腕が、何かを抱えた。
 胸の前で、丸いものを抱く形。指が、見えない木の板をつかんで、白くなった。体が、ゆっくりと左右に揺れた。水の上に浮いている者の揺れ方だった。唇が、何かを数えるように、小さく動いていた。
 それから、腕がほどけた。

 イサナは、水を吐いた。
 いつもより長く、咳きこんだ。

「塩問屋だ」

 息を整えながら、彼は言った。

「この蔵の主。荷車を十台持ってた。......道は取れた。蔵の裏から、荷車の道が神殿区の東の裏門まで通ってる。荷を入れるための門だ。表の大門より、ずっと近い」

 わたしは、道順を書き取った。蔵の裏。井戸を右。坂を上る。裏門。
 イサナは、まだ何か言いたそうに、箍を見ていた。

「それから、こいつは、沈む前のひと月、荷車を全部取り上げられてた」
「取り上げられた?」
「王の命令で、都じゅうの荷車が、石を運ばされた。行き先は、瓶口かめぐちだ。何に使う石かは、誰も知らされてなかった。この男は、荷車を返してもらえねえまま、商売ができなくて腐ってた」

 瓶口。
 書庫で写した年代記の一行が、帳面の数頁前にあった。始祖王しそおう、瓶口に堰を築き、淵を鎮む。

「その石で、堰を」
「たぶんな」

 イサナは、立ち上がった。

「最後は、洪水だ。空の樽にしがみついて、しばらく浮いてた。息の数を数えながら。......樽ごと、沈んだ」

 わたしは、それも書いた。
 樽にしがみついて、浮いていた。息を数えていた。


◇


 裏門は、坂を上りきったところにあった。
 石の門柱が二本。その間に、朽ちた門扉の鉄の枠だけが残っていた。

 門の前の水路に、小舟が一艘、舫もやってあった。

「やあ」

 ハヤテ兄さまが、舟の上で手を振った。
 指輪が五つ、朝日に光った。

「いい道だね。助かったよ、舐め師くん」

 イサナの足が、止まった。
 舟の舳先で、頭巾の者が、口元を拭っていた。

「......蔵の溜まりを、舐めたのか」
「うちの子は、鼻がいいんだ。君たちが出てきた蔵に、あとから入らせただけさ。同じ水に、同じ男が溶けてる。そうだろう? 禁じられちゃいない」

 兄さまは、裏門を顎で示した。

「悪いけど、この門は先に使わせてもらう。舟ごと通れるんでね。君たちは、歩いて別の道を探すといい。まだ昼前だ」

 舟が、門の下をくぐっていった。
 わたしたちは、それを見送るしかなかった。門の向こうの水路は、わたしの背丈より深かった。

「戻るぞ」

 イサナが、踵を返した。
 坂を下りる途中で、あの蔵の前を通った。
 崩れた屋根の下の潮溜まりで、銀色の小さなものが、一つ、身をひるがえしたような気がした。
 気のせいだったかもしれない。


◇


 別の道は、夕方まで見つからなかった。
 イサナは、もう読まなかった。わたしが、一日に一度と言ったからではない。読む場所を、見つけられなかったからだ。

 日が落ちかけたころ、わたしたちは市場の端の、崩れた鐘楼の下にいた。
 今夜は、ここで眠る。明日の朝には、神殿区の外壁まで水が引く。

 イサナは、目を閉じていた。
 唇が動いていた。昨日の夕飯。門楼。干し飯ほしいい。スズ。港の路地。今朝の市場。
 やがて、目が開いた。

「......分からねえ。どこも抜けてねえ気がする」
「そう」

 わたしは、何か言わなければと思った。
 今日の彼は、蔵で読んだきり、ずっと黙っていた。道を盗られたのは、彼のせいではない。

「明日は、瓦の上を渡るところがあるかもしれないわね」
「ある。神殿区の外壁の手前は、屋根が崩れてる」
「平気よ。白潮院の潮溜まりで、四つ浮けたんだもの。瓦から落ちても、四つ数えるうちに、何とかするわ」

 冗談のつもりだった。
 イサナは、笑わなかった。

「白潮院で?」

 彼は、わたしを見た。

「あんたが? 浮いた?」

 その目に、何も浮かんでいなかった。
 塩田の水門で、鯵の話をしたときと同じ目だった。知らない誰かの話を、聞く顔だった。

 わたしは、口を開けた。
 杏の匂い。水の上に寝ていた白い髪。一つ、二つ、三つ、四つ。四本の指を立てたわたしを、潮溜まりの縁で、杏を齧りながら見ていた彼。見てた、と彼は言った。最初の稽古よりは、だいぶましだ、と。

「......なんでもない」

 わたしは言った。

「言い間違えたわ。浮けたらいいのに、って言いたかったの」

 イサナは、少しのあいだ、わたしを見ていた。
 それから、目をそらして、縄の結び目を確かめはじめた。


◇


 樽にしがみついて、浮いていた男。
 その男を読んで、彼の中から、浮いていたわたしが溶けた。似ているから。

 わたしは、帳面を膝に置いた。
 彼は、自分では書けない。何を失くしたのか、知らないのだから。

 筆を取った。
 いつもは、彼の字を写す。今日は、写す字がなかった。自分で書いた。

 白潮院の潮溜まりで、わたしが四つ浮いた日を、失くした。

 書き終えてから、しばらく、その一行を見ていた。
 わたしのために読んで、わたしを失くした。これが、最初の一行だった。

 鐘楼の上に、月が遅れて昇ってきた。
 わたしは、帳面を閉じた。彼には、見せなかった。
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【完結】第七王女は海に沈まない—泳げないわたしと、王位継承の七日間—作者:甕星 慶(ミカボシケイ)
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第9話 二日目・潮霊の市

潮帳しおちょう――白潮院しらしおいんの潮溜まりで、わたしが四つ浮いた日を、失くした。

 朝になると、石段の下に市場があった。
 昨日の夕方まで、そこは黒い水だった。一晩で水は引き、石畳の広場が、濡れた背中を空に向けていた。

 広場を囲んで、石の台が並んでいた。売り台だ、とすぐに分かった。台の上に、底の抜けた籠が伏せてある。割れた甕が、口を空に向けている。どれも白い貝の子に覆われて、形だけが三百年前のまま残っていた。
 台と台の間には、潮溜まりがいくつも光っていた。

「あの子の市場ね」

 わたしが言うと、イサナは短く頷いた。
 スズが石段を駆け下りて、魚と果物の匂いの中へ飛びこんでいった市場。今は、潮と、腐った海草の匂いしかしなかった。

 カイリ兄さまとトモは、夜明けとともに門楼を発っていた。広場の南の、大きな通りへ入っていくのが見えた。ユラ姉さまたちの姿は、どこにもなかった。
 ハヤテ兄さまの小舟だけが、広場の西の水路に浮いていた。舳先の頭巾の者が、こちらを見ていた。


◇


「足を止めるな。溜まりを踏むな」

 イサナが言った。石段を下りきる前だった。

「どうして」
「二日目からは、出る」

 何が、と聞く前に、広場の真ん中の潮溜まりが、ふくらんだ。
 水が、立ち上がった。

 人の形をしていた。
 背丈は大人ほど。顔の場所に、顔はなかった。ただ、濡れた泡がゆっくりと渦を巻いていた。肩のあたりに、籠を担いでいるような形のふくらみがあった。水でできた魚売りが、三百年ぶりに売り台の方へ歩き出した。

 一つではなかった。
 潮溜まりという潮溜まりから、水が立ち上がっていった。籠を抱えた女。手を引かれた子ども。杖をついた老人。音はなかった。水の足が石畳を踏むたびに、ちゃぷ、と小さな音がするだけだった。

「潮霊しおだまだ」

 イサナの声が、低かった。

「沈んだ連中の記憶が、固まって歩いてる。触られるな。触られたら、そいつの溶けてる分だけ、こっちから持っていかれる」
「持っていかれるって、何を」
「知るか。選べねえのは、読むのと同じだ」

 潮霊たちは、市場の中を歩いていた。売り台の前で止まり、籠を下ろす形をした。呼び声のかわりに、泡が弾けた。
 それから、一つが、こちらを向いた。
 顔のない顔が、石段の上のわたしたちを、見た。

 一つが向くと、全部が向いた。


◇


 イサナが、わたしの前に出た。
 腕を横に広げて、わたしを石段の壁に押しつけた。

「下がってろ」
「下がる場所なんてないわ」

 後ろは石段で、その上は門楼だった。潮霊たちは、もう石段の下まで来ていた。水の手が、一段目にかかった。二段目。
 先頭の潮霊が、イサナの足首へ手を伸ばした。

 わたしは、背負い袋を下ろしていた。
 考えるより先に、手が瓢箪の栓を抜いていた。

 手のひらに真水を受けて、潮霊の顔へ振りかけた。

 音がした。
 焼けた石に水をかけたような、鋭い音だった。潮霊の顔が、ほどけた。頭から肩へ、肩から胸へ、ほどけて、ただの塩辛い霧になって、風に散った。石段の上に、水たまりが一つ残った。

 後ろにいた潮霊たちが、止まった。
 わたしは、もう一度、手のひらに受けた。振りかけた。二つ目が、ほどけた。三つ目。

「もういい」

 イサナが、わたしの手首をつかんだ。

「散った。残りは、下がってる。......それ以上使うな」

 潮霊たちは、潮溜まりへ戻っていった。立ち上がったときと同じように、ゆっくりと。水の中へ沈んで、ただの溜まりになった。
 市場は、また、静かになった。

 わたしは、瓢箪を振った。
 底の方で、ひと口ぶんほどの水が、頼りなく揺れた。

「......ほとんど、なくなった」
「こいつがなけりゃ、今ごろ俺は、何を持ってかれてたか分からねえ」

 イサナは、わたしの手から瓢箪を取って、栓を固く押しこんだ。それから、わたしの背負い袋に、そっと戻した。


◇


 市場の東の端に、石造りの蔵があった。
 屋根の半分が落ちて、中に朝日が差しこんでいた。床には、潮溜まりが一つ。その横に、腐りきった樽の箍たがが、輪の形のまま転がっていた。

「ここだ」

 イサナは、箍の横に膝をついた。潮溜まりを指で掬い、口に含んだ。
 わたしは、帳面を開いて待った。

 彼の両腕が、何かを抱えた。
 胸の前で、丸いものを抱く形。指が、見えない木の板をつかんで、白くなった。体が、ゆっくりと左右に揺れた。水の上に浮いている者の揺れ方だった。唇が、何かを数えるように、小さく動いていた。
 それから、腕がほどけた。

 イサナは、水を吐いた。
 いつもより長く、咳きこんだ。

「塩問屋だ」

 息を整えながら、彼は言った。

「この蔵の主。荷車を十台持ってた。......道は取れた。蔵の裏から、荷車の道が神殿区の東の裏門まで通ってる。荷を入れるための門だ。表の大門より、ずっと近い」

 わたしは、道順を書き取った。蔵の裏。井戸を右。坂を上る。裏門。
 イサナは、まだ何か言いたそうに、箍を見ていた。

「それから、こいつは、沈む前のひと月、荷車を全部取り上げられてた」
「取り上げられた?」
「王の命令で、都じゅうの荷車が、石を運ばされた。行き先は、瓶口かめぐちだ。何に使う石かは、誰も知らされてなかった。この男は、荷車を返してもらえねえまま、商売ができなくて腐ってた」

 瓶口。
 書庫で写した年代記の一行が、帳面の数頁前にあった。始祖王しそおう、瓶口に堰を築き、淵を鎮む。

「その石で、堰を」
「たぶんな」

 イサナは、立ち上がった。

「最後は、洪水だ。空の樽にしがみついて、しばらく浮いてた。息の数を数えながら。......樽ごと、沈んだ」

 わたしは、それも書いた。
 樽にしがみついて、浮いていた。息を数えていた。


◇


 裏門は、坂を上りきったところにあった。
 石の門柱が二本。その間に、朽ちた門扉の鉄の枠だけが残っていた。

 門の前の水路に、小舟が一艘、舫もやってあった。

「やあ」

 ハヤテ兄さまが、舟の上で手を振った。
 指輪が五つ、朝日に光った。

「いい道だね。助かったよ、舐め師くん」

 イサナの足が、止まった。
 舟の舳先で、頭巾の者が、口元を拭っていた。

「......蔵の溜まりを、舐めたのか」
「うちの子は、鼻がいいんだ。君たちが出てきた蔵に、あとから入らせただけさ。同じ水に、同じ男が溶けてる。そうだろう? 禁じられちゃいない」

 兄さまは、裏門を顎で示した。

「悪いけど、この門は先に使わせてもらう。舟ごと通れるんでね。君たちは、歩いて別の道を探すといい。まだ昼前だ」

 舟が、門の下をくぐっていった。
 わたしたちは、それを見送るしかなかった。門の向こうの水路は、わたしの背丈より深かった。

「戻るぞ」

 イサナが、踵を返した。
 坂を下りる途中で、あの蔵の前を通った。
 崩れた屋根の下の潮溜まりで、銀色の小さなものが、一つ、身をひるがえしたような気がした。
 気のせいだったかもしれない。


◇


 別の道は、夕方まで見つからなかった。
 イサナは、もう読まなかった。わたしが、一日に一度と言ったからではない。読む場所を、見つけられなかったからだ。

 日が落ちかけたころ、わたしたちは市場の端の、崩れた鐘楼の下にいた。
 今夜は、ここで眠る。明日の朝には、神殿区の外壁まで水が引く。

 イサナは、目を閉じていた。
 唇が動いていた。昨日の夕飯。門楼。干し飯ほしいい。スズ。港の路地。今朝の市場。
 やがて、目が開いた。

「......分からねえ。どこも抜けてねえ気がする」
「そう」

 わたしは、何か言わなければと思った。
 今日の彼は、蔵で読んだきり、ずっと黙っていた。道を盗られたのは、彼のせいではない。

「明日は、瓦の上を渡るところがあるかもしれないわね」
「ある。神殿区の外壁の手前は、屋根が崩れてる」
「平気よ。白潮院の潮溜まりで、四つ浮けたんだもの。瓦から落ちても、四つ数えるうちに、何とかするわ」

 冗談のつもりだった。
 イサナは、笑わなかった。

「白潮院で?」

 彼は、わたしを見た。

「あんたが? 浮いた?」

 その目に、何も浮かんでいなかった。
 塩田の水門で、鯵の話をしたときと同じ目だった。知らない誰かの話を、聞く顔だった。

 わたしは、口を開けた。
 杏の匂い。水の上に寝ていた白い髪。一つ、二つ、三つ、四つ。四本の指を立てたわたしを、潮溜まりの縁で、杏を齧りながら見ていた彼。見てた、と彼は言った。最初の稽古よりは、だいぶましだ、と。

「......なんでもない」

 わたしは言った。

「言い間違えたわ。浮けたらいいのに、って言いたかったの」

 イサナは、少しのあいだ、わたしを見ていた。
 それから、目をそらして、縄の結び目を確かめはじめた。


◇


 樽にしがみついて、浮いていた男。
 その男を読んで、彼の中から、浮いていたわたしが溶けた。似ているから。

 わたしは、帳面を膝に置いた。
 彼は、自分では書けない。何を失くしたのか、知らないのだから。

 筆を取った。
 いつもは、彼の字を写す。今日は、写す字がなかった。自分で書いた。

 白潮院の潮溜まりで、わたしが四つ浮いた日を、失くした。

 書き終えてから、しばらく、その一行を見ていた。
 わたしのために読んで、わたしを失くした。これが、最初の一行だった。

 鐘楼の上に、月が遅れて昇ってきた。
 わたしは、帳面を閉じた。彼には、見せなかった。
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