第10話 継ぎ読み
潮帳――コチに字を教えた晩のことを、失くした。
鐘楼の下で、わたしは眠れずにいた。
崩れた壁の隙間から、市場の広場が見えた。潮溜まりは、月の光を受けて、ただの水の顔をしていた。昼に立ち上がったものたちは、どこにもいなかった。
櫂の音がしたのは、夜が半ばを過ぎたころだった。
広場の西の水路を、小舟が一艘、戻ってきた。
舳先に、提灯が一つ揺れていた。その灯りの下で、頭巾の者がうずくまっていた。座っているのではなかった。舟べりに寄りかかって、揺れるままに揺れていた。
「ハヤテだ」
隣で、イサナが言った。起きていたのだ。
◇
舟は、市場の石畳の縁で止まった。
櫂を置いたのは、ハヤテ兄さま自身だった。上衣の袖を肘までまくり上げて、額の汗を拭っていた。
「やあ。まだ起きてたのか」
兄さまは、鐘楼のわたしたちに気づいて、提灯を掲げた。昼と変わらない、屈託のない声だった。
「こんな夜中に、どこへ」
わたしが聞くと、兄さまは崖の方を顎で示した。
「交代だよ。この子はもう、今日の分を読んだ。崖の下に次の子が待ってる。朝までに入れ替えなきゃね。同じときに二人は乗せちゃいけない決まりだから、夜のうちに漕いで往復するのさ。これがなかなか骨でね」
頭巾の者が、舟べりで小さく呻いた。
兄さまは、それを見もしなかった。舟底から、蓋をした甕を一つ持ち上げた。
蓋を取って、甕を傾けた。
水と一緒に、銀色の小さなものが、何十も水路へこぼれ落ちた。月の光に、一瞬だけ背中が光った。それから、水の中へ散っていった。
「......忘れ魚」
イサナが、呟いた。
「さすが。よく知ってる」
兄さまは、空になった甕を舟底に戻した。
「今日うちの子が読んだ水は、全部こいつらに食わせておく。後から来た組に、同じ道を読まれちゃ困るからね。君たちに今朝やったことを、誰かにやられないように、さ」
「蔵の溜まりも、か」
「もちろん。あそこには、もう何も溶けてない。ただの塩水だよ」
わたしは、昼に見た銀色のひるがえりを思い出した。
気のせいでは、なかった。
◇
「コチは」
わたしは、鐘楼の段を下りていた。
イサナが後ろで何か言いかけたが、止まらなかった。
「兄さまの潮読みだった子。十二か十三の男の子。昨日の夕方、西の屋根に置いていったでしょう」
「コチ? ......ああ、初日の子か」
兄さまは、少し考えてから言った。考えなければ、思い出せないようだった。
「使い切ったよ。あの子は素直でね、読めと言えば、いくらでも読んだ。あっという間だった」
「あの子は、潮司庁の見習いだったはずよ。登録もまだだった」
「登録なら、ちゃんとしてある」
兄さまは、懐から紙を一枚出して、ひらひらと振ってみせた。潮司庁の朱の印が、提灯の灯りに見えた。
「養い所には、あの子を育てた分の借りがあった。千尋屋がそれを肩代わりして、潮司庁に繰り上げで登録してもらった。判子も、証文も、全部そろってる。盗んだわけじゃない。ちゃんと買ったんだ」
「買った」
「そう。潮読みは、消耗品だ」
兄さまは、提灯を少し下げた。灯りの外で、顔の半分が暗くなった。
「読めば減る。減ったら替える。港の網と同じさ。王族も同じだろ? 祭りで選ばれて使われるか、選ばれずに捨てられるか。姫さんも、どっちかだ。違うかい」
わたしは、答えなかった。
答えのかわりに、兄さまの顔をまっすぐに見た。
「わたしは、拾いに行くわ」
「何を」
「兄さまが捨てたものを」
兄さまは、目を丸くした。それから、声を立てて笑った。
「いいね。好きにしなよ。ただの白い子だ。拾っても、何にもならない」
舟が、水路を崖の方へ漕ぎ出していった。
うずくまった頭巾の者は、最後まで顔を上げなかった。
◇
「よせ」
鐘楼に戻ると、イサナが言った。
「明日の朝には、神殿区の外壁まで水が引く。今夜寝ねえと、明日の昼に動けねえ。コチを浜まで担いでったら、一日遅れる。カイリ組にも、ハヤテにも」
「一日遅れても、わたしは困らない」
「困るだろうが。王になるんだろ」
「あの子は、困るわ」
わたしは、背負い袋を背負った。
「二晩、屋根の上よ。真水もない。明日の昼には、干からびる」
「......白いんだぞ」
イサナの声が、低くなった。
「連れて帰っても、あいつは俺たちを覚えちゃいねえ。礼も言わねえ。明日になりゃ、担いでくれた奴の顔も忘れる」
「覚えてなくても、喉は渇くわ」
イサナは、黙った。
わたしは、帳面を開いて、月明かりにかざした。昨日の夜、門楼で書いた二行。
「門楼から西へ、屋根二十。水路三本。水は、明日の昼には膝まで引く」
読み上げてから、帳面を閉じた。
「水は、もう膝より低いはずよ。夜でも歩ける。道は、わたしが書いておいた」
イサナは、長いこと、わたしを見ていた。
それから、黙って縄の束を肩にかけた。
◇
外郭の街は、昨日とは別の街になっていた。
屋根の下にあった通りが、ほとんど水から出ていた。月の光が、濡れた石畳を白く光らせていた。軒の下は、真っ暗だった。
わたしは、先を歩いた。
門楼まで戻り、そこから西へ。屋根を数えながら、下の通りを進んだ。水路だった場所は、膝ほどの深さの流れになっていた。一本目。二本目。三本目で、わたしは足を止めた。
見上げた屋根の棟に、小さな影が座っていた。
イサナが、先に登った。
縄を下ろして、わたしを引き上げた。
コチは、昨日と同じ形で、膝を抱えていた。
髪が、月の光よりも白かった。唇が、乾いて割れていた。わたしたちが瓦を踏む音に、ゆっくりと顔を上げた。
「コチ」
イサナが呼んだ。
コチは、首を傾げた。海鳥の声を聞いたときのように。
わたしは、背負い袋から瓢箪を出した。
振ると、底の方で、ひと口ぶんの水が揺れた。潮霊に使った残りの、最後のひと口だった。
栓を抜いて、コチの口元へ差し出した。
コチは、しばらく瓢箪の口を見ていた。それから、両手で抱えて、喉を鳴らして飲んだ。最後の一滴まで。
「......あんた、それ」
「いいの」
わたしは、空になった瓢箪を振ってみせた。軽い音がした。
イサナは、何も言わなかった。
懐から、干した魚の身を一切れ出して、半分を噛みちぎった。残りを、コチに渡そうとした。
その前に、コチの手が伸びてきた。
手のひらを上にして、イサナの口元の高さで、止まった。待っていた。当たり前のように。
イサナの手が、止まった。
「......なんだ」
わたしには、分かった。
港の屋台。鯵の串。イサナが頭から齧って、残りを押しつける。コチが受け取って、尻尾まで食べる。毎朝、毎朝。
イサナは、それを失くした。コチも、失くした。それでも、コチの手だけが、覚えていた。
「尻尾を、あげて」
わたしは言った。
「毎朝、そうしてたのよ。あなたたちは」
イサナは、わたしを見た。
それから、手の中の魚の切れ端を、コチの手のひらに置いた。コチは、それを口に入れて、ゆっくりと噛んだ。尻尾の先まで、残さずに。
◇
崖の下の浜に着いたときには、東の空が白みはじめていた。
淵が引いたあとに現れた、細い砂の帯だった。縄梯子の下に、潮司庁の天幕が一つ張ってあった。そこに、見覚えのある男がいた。
白潮院の、世話役の男だった。
「祭りのあいだは、ここに詰めてる。上がってくる白いのを、院へ連れてくのが役目でな」
男は、イサナの背中から下ろされたコチを見た。
「名前は」
コチは、答えなかった。
かわりに、しゃがみこんで、砂の上に指を走らせた。ゆっくりと、一画ずつ。
コ、チ。
子どもの字だった。線が震えていた。
イサナが、その二文字を見下ろしていた。
「......誰に習った、それ」
わたしは、帳面の、契約の写しに続く頁を思い出していた。
彼の潮帳から写した、何十行のうちの一行。そのときは、ただの一行だった。
コチに字を教えた晩のことを、失くした。
「あなたよ」
わたしが言うと、イサナは、わたしの方を見なかった。
砂の上の二文字を、ずっと見ていた。
世話役の男が、コチの肩に手を置いた。
「院には、潮溜まりがある。浮き方でも覚えりゃいい。覚えたことは、体に残る」
◇
縄梯子の上で、朝日が崖の縁を越えた。
淵の奥の方で、神殿区の外壁が、水の上に長い灰色の背を現していた。その手前の屋根の上を、小さな人影が二つ、先へ進んでいくのが見えた。先を行く組だった。
一日。
わたしたちは、一日を失くした。
「行くぞ」
イサナが言った。空になった瓢箪を、わたしの背負い袋に押しこみながら。
「神殿区だ。......寝るのは、歩きながらにしろ」