第11話 三日目・神殿区
潮帳――祭りの話を初めて聞いた夜を、失くした。
神殿区の外壁には、裂け目が一つあった。
三百年の水が、石と石のあいだを少しずつ削って開けた穴だった。大人がひとり、横向きになってやっと通れるほどの幅だった。
昼を過ぎていた。
浜からここまで、わたしたちは一度も座らなかった。歩きながら眠れ、とイサナは言った。そのとおりにしたのかもしれない。途中で何度か、自分の足が勝手に前へ出ていることに気づいて、はっとした。
裂け目の前の石に、新しい擦り傷がいくつもあった。
濡れた貝の子が、帯の形に削げ落ちていた。誰かが、先にここを通ったのだ。
「カイリ組だ」
イサナが、傷を指でなぞった。
「刀の鞘が当たった跡だ。朝のうちに抜けてる」
わたしは、裂け目の向こうを覗いた。
暗かった。その暗がりの奥に、白いものが、ずらりと並んで立っていた。
◇
像だった。
石の像が、広い参道の両側に、向かい合って立ち並んでいた。どれも、見上げるほど高かった。
裂け目を抜けて、参道に出ると、像たちの全身が見えた。
長い衣をまとった男の姿だった。右の手を、胸の高さで前へ差し出している。手のひらを下に向けて、何かを鎮めるように。どの像も、同じ形をしていた。
始祖王の像だ、と分かった。
王宮の広間にも、同じ形の像がある。小さな、真新しい像だけれど。
けれど、ここの像には、顔がなかった。
三百年の海が、目も鼻も口も、同じように削っていた。額から顎まで、なめらかな丸い石になっていた。差し出した手の指も、半分は欠けていた。
顔のない王たちが、参道の奥へ、どこまでも並んでいた。
わたしは、昨日の潮霊を思い出していた。顔の場所に顔のない、水の人たち。
それから、首を振って、その考えを払った。
「足元を見ろ」
イサナが言った。
「参道の石は、割れてるとこが多い。下は、まだ水だ」
◇
参道の突き当たりに、神殿があった。
柱の太さは、わたしが両腕を回しても届かないほどだった。屋根は半分落ちていて、中に昼の光が斜めに差していた。
入ってすぐの壁に、絵があった。
色のついた小さな石を、一つずつ埋めこんで描いた絵だった。塩と貝の子に覆われて、ところどころしか見えなかった。
わたしは、袖で塩を拭った。
青い石。灰色の石。白い石。
「都だわ」
壁の真ん中に、丸い都があった。
灰色の線で、ぐるりと囲まれている。堤だ。都の中に、屋根が細かく描かれていた。その奥に、王宮の尖塔。
都の周りを、青い石が囲んでいた。内海だ。そして、内海のさらに外を、崖の茶色が輪のように囲んでいた。
輪の一か所だけが、切れていた。
細い青い水の道が、崖の輪の外へ抜けていた。
瓶口。
その水の道の上に、灰色の太い線が一本、横に引かれていた。
線の手前に、小さな荷車が、列を作っていた。十台、二十台。どの荷車にも、灰色の石が積んであった。
「塩問屋の荷車......」
わたしは、帳面を出した。
絵の形を、できるだけそのまま写した。丸い都。堤。内海。崖の輪。瓶口。その上の、灰色の太い線。荷車の列。
「堰だな」
イサナが、わたしの肩ごしに絵を見ていた。
「瓶口を、横に切ってる」
それだけ言って、彼は黙った。
わたしも、それ以上は何も言わなかった。見たとおりに書け、と彼は門楼で言った。わたしは、見たとおりにだけ写した。
絵の下の方に、文字が刻まれていた。
半分は削れていた。読めたのは、四文字だけだった。
王、海ヲ鎮
その先は、貝の子の下に埋もれていた。
◇
神殿の奥から、声がした。
祈りの言葉だった。柔らかい、澄んだ声。
祭壇の前に、ユラ姉さまが跪いていた。
淡い水色の衣の裾が、濡れた石の床に広がっていた。その少し後ろに、ウツロが立っていた。白い半分の髪が、光の中で、ほとんど銀色に見えた。
姉さまは、祈りを終えてから、振り向いた。
「ミオ」
わたしの名前を呼ぶ声は、宴のときより、ずっと優しかった。
「あなたも、ここまで来たのですね。泳げないと聞いていたのに」
「泳いでは、いないわ。歩いてきたの」
「そうでしたね」
姉さまは、微笑んだ。
そして、祭壇の上を見上げた。そこにも、顔のない始祖王の像が一体、手を差し出していた。
「わたくしは、毎朝ここを思って祈っておりました。この神殿で、始祖王さまの前に跪ける日を」
「王になるために?」
「いいえ」
姉さまは、静かに首を振った。
「始祖王さまは、お還りになるのです」
その言葉を、姉さまは、大事なものを手のひらに載せるように言った。
「三百年、海の底で、わたくしたちを待っていてくださった。誰が選ばれても、同じことです。あのお方が、この国にお還りになる。わたくしは、その日のために、少しでもお役に立ちたいだけ」
わたしは、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
お還りになる。
その言い方が、耳に残った。
ウツロが、イサナを見ていた。
宴のときと同じ、まばたきをしない目だった。イサナの顔から、胸の辺りへ視線が下りた。懐の、潮帳のある辺りへ。
それから、何も言わずに、目をそらした。
◇
祭壇の裏に、扉があった。
石の扉だった。わたしの背丈の倍ほどもある。表には、七つの波の紋が彫りこまれていた。王家の紋だ。
「その扉は、開きません」
姉さまが言った。
「カイリ兄さまも、朝のうちに試しておられました。トモという潮読みが、前の大干の話では、この扉は一度も開かなかったと。兄さまたちは、神殿の外を回って行かれました。わたくしたちも、これから」
わたしは、扉の前に立った。
石の表面は、塩で白く曇っていた。
扉と柱のあいだに、細い黒い筋があった。
隙間だった。
わたしが手を当てると、扉は、重たい音を立てて、内側へ動いた。
人がひとり通れるほどの幅で、止まった。
背中で、姉さまが息を呑んだ。
「......そんな。朝は、確かに」
イサナが、わたしの横に来た。
しゃがんで、扉の下の敷居を見た。塩の殻が、扇の形に削げていた。扉が開いたぶんだけ、きれいに。
削げた跡は、まだ濡れていた。敷居の内側から、濡れた草鞋の跡が、奥の暗がりへ続いていた。大人の足の大きさだった。
「今、開いたばかりだ」
イサナは、削げた跡を指で触った。
「朝は閉まってた。俺たちが参道を来るのを、どこかで見てたんだ。あんたが扉の前に立つ前に、中から閂を抜いて、奥へ引っこんだ」
扉の内側は、乾いた石の床だった。
その床の真ん中に、瓢箪が一つ、置かれていた。
◇
わたしは、瓢箪を持ち上げた。
重かった。振ると、中で水の揺れる、たっぷりとした音がした。口は、蝋で封じてあった。
首に、紙の札が結ばれていた。
この先も、お役に立ちますように。
几帳面な、美しい字だった。
王宮のわたしの部屋の卓に、あの朝、置いてあった札と、同じ字だった。
「......同じ人だわ」
わたしは、札をイサナに見せた。
イサナは、札と、扉と、わたしの顔を、順番に見た。
「祭りに降りてる組は、四つだけだ」
彼は、低い声で言った。
「カイリ組は、開かねえと言って回り道をした。ユラ組は、今ここで驚いてる。ハヤテは、舟で裏門から入った。この扉を使う理由がねえ。俺たちじゃねえ。四つのどれでもねえ誰かが、今の今まで、ここにいた」
「誰が」
「分からねえ」
イサナは、扉の奥の暗がりを見た。
「分からねえが、そいつは、俺たちを通したがってる。あんたの前でだけ開く扉と、あんたの喉が渇く前に置いてある水だ。......気に入らねえ」
わたしは、瓢箪を胸に抱えた。
重さが、腕に来た。
「罠かもしれないってこと?」
「罠かもしれねえし、そうじゃねえかもしれねえ。どっちにしても、誰かの思う通りに歩かされてる」
「それでも、道よ」
わたしは、背負い袋を下ろして、空になった瓢箪を出した。
かわりに、新しい瓢箪を入れた。空の方は、扉の内側の床に、そっと置いた。
「一日遅れた分、取り返さなきゃ。誰の思う通りでも、わたしは王になる」
イサナは、しばらく黙っていた。
それから、ため息をひとつついて、扉をくぐった。
◇
扉の奥は、神殿の裏へ抜ける細い通路だった。
草鞋の跡は、通路の途中の水たまりで途切れていた。その先は、どこへ行ったのか分からなかった。
通路の先に、低い家並みがあった。神殿の石を切り出し、刻んだ職人たちの町だったのだろう。軒先に、錆びた鑿がいくつも吊るされていた。
いちばん手前の家の戸口で、イサナが足を止めた。
戸口の石に、印が刻まれていた。
丸の中に、三本の横線。石工の組の印だと、あとで彼は言った。
家の中の土間に、潮溜まりが一つあった。
その縁に、小さな木の櫛が落ちていた。子どもの櫛だった。
「......ここで読む」
イサナが言った。
「今日のうちに、読む」
わたしは、帳面を開いた。
さっき写した壁の絵の頁だった。瓶口の上の、灰色の太い線が、筆の跡のまま乾いていた。
背中の方で、ユラ姉さまの祈りの声が、また聞こえはじめていた。