第12話 石工の娘
潮帳――港の入り江で、明日も来いと言った朝を、失くした。
土間の潮溜まりは、手のひらを二つ並べたほどの大きさだった。
イサナは、その縁に膝をついた。木の櫛を、指先でどけた。歯が三本欠けて、残りは塩で白く固まっていた。
「子どもだな」
「女の子よ。その櫛、男の子は使わないわ」
ミオが、戸口の段に腰を下ろした。帳面を膝に開いて、筆の先を舐めた。
一日を失くした朝から、彼女は一度も座っていなかった。それでも、帳面を開く手つきは、いつもと変わらなかった。
イサナは、潮溜まりを見下ろした。
舌の奥が、もう痺れていた。この辺りの潮は、市場よりずっと濃い。舐めなくても、分かる。
読むかどうかは、俺が決める。
自分で言った条件だった。今は、読むと決めていた。
指で水を掬い、口に含んだ。
◇
父ちゃんの肩の上は、高かった。
祭りの夜だった。通りという通りに提灯が吊るされて、屋根の上に、月がふたつ昇っていた。白い月と、青い大きな月。
「ハル。落ちるなよ」
「落ちないよ」
父ちゃんの髪をつかんでいた。石の粉の匂いがした。いつも、そうだった。
「祭りが済んだら、また瓶口へ行く。堰の仕上げだ。今度のは長くかかる」
「またあ」
「仕上がったら、帰る。帰ったら、もうどこへも行かねえ。約束だ」
父ちゃんの手が、足首をぎゅっとつかんだ。痛いくらいだった。
◇
夜中だった。
戸の隙間から、灯りが漏れていた。父ちゃんと母ちゃんの声がした。
「鎮めるための堰だと、お触れには書いてあったろう」
「ああ。お触れにはな」
父ちゃんの声は、低かった。
「だが、図面を見りゃ分かる。水を通す口が、ひとつもねえ。あの堰はな、海を閉じるためのもんなんだと。棟梁の俺にだけ、王宮の役人がそう言った。閉じて、淵をひとつの瓶にするんだとよ」
「なんのために」
「知らねえ。知らねえほうがいいんだろう」
それきり、声は聞こえなくなった。
◇
昼だった。
父ちゃんの弁当を持って、王宮の裏へ走った。
表の門からは入れない。石工は、裏の坑道を使う。王宮の北の塀の下に、石を運ぶための低い坑道があった。入口に、丸の中に三本線の印。父ちゃんの組の印。
坑道は、途中で二つに分かれていた。右は倉。左は、上り坂。坂を上りきると、王宮の奥の中庭に出た。そこの石畳の上で、父ちゃんたちが石を割っていた。
中庭の向こうに、高い塀があった。
その向こうに、堤の灰色の背が見えた。
「ハル。ここに来ちゃならねえと言ったろう」
父ちゃんは怒ったけれど、弁当は全部食べた。
◇
父ちゃんは、帰ってこなかった。
祭りが済んで、十日。二十日。ひと月近く。
毎晩、戸口の段に座って、櫛で髪を梳いた。
父ちゃんが仕事から帰るときは、いつも、あの角を曲がってくる。石の粉だらけの鉢巻で。櫛を百回通すうちに、角から出てくる。そう決めて、梳いた。
百回を、何度も数えた。角からは、誰も出てこなかった。
夕方、組の寄合所の物見に登った。
いちばん高い屋根だった。そこからなら、内海の向こうまで見えた。
崖の輪の、切れたところ。瓶口。
その上に、黒い線が一本、横に通っていた。堰だった。
堰の上に、松明がいくつも並んでいた。
その灯りの間を、人が歩いていた。一列に。背中に何かを担いでいるのではなかった。手を、後ろで縛られていた。
槍の穂先が、光った。
兵たちの盾に、波の紋が見えた。七つの波。王さまの紋だった。
列の先頭の人が、堰の縁から、落ちた。
押されたのだと分かった。その次の人も。その次も。水の音は、ここまで届かなかった。灯りの中から、人が一人ずつ、消えていった。
父ちゃん、と呼んだ。
呼んでも、届かなかった。
後ろで、音がした。
振り向くと、王宮の向こうの堤から、白いものが噴き上がっていた。
物見の梯子を、転がるように下りた。家へ走った。
櫛を、握っていた。父ちゃんが削ってくれた櫛。
戸を開けた。
水が、来た。
◇
イサナは、水を吐いた。
土間に両手をついた。指の下の土が、冷たかった。息が、なかなか戻らなかった。
「イサナ」
ミオの声がした。背中に、手があった。
イサナは、その手をそのままにしておいた。
「......道が、分かった」
最初に言ったのは、それだった。
「王宮の北の塀の下に、石工の坑道がある。入口に、この家と同じ印。中で二つに分かれて、左の坂を上がれば、王宮の奥の中庭に出る。......この子が、親父に弁当を届けてた道だ」
ミオの筆が、走った。
北の塀の下。丸に三本線。左の坂。中庭。
それから、筆を止めずに聞いた。
「その子の名前は」
「ハル。親父が、そう呼んでた」
ミオは、道順の横に、小さく書いた。
ハル。石工の棟梁の娘。櫛。
門楼の夜から、彼女はそうしていた。読んだ相手の名前を、道順と同じ頁に残す。イサナの中から、何日かで消えていくものを。
「それだけ?」
「それだけじゃねえ」
イサナは、座り直した。
土間の潮溜まりを見た。子どもの櫛が、その縁に落ちていた。
「この子の親父は、瓶口の堰を築いた石工の棟梁だった。堰は、淵を鎮めるためのもんじゃねえ。海を閉じるためのもんだった。水の抜け口がひとつもねえ図面だったと、親父が言ってた。王宮の役人が、棟梁にだけそう言ったと」
ミオが、顔を上げた。
「閉じる」
「トモ爺が言ってたろ。淵の水は外と混ざらねえ、三百年ずっとだと。......閉じてあるんだ。瓶の口に栓をするみてえに」
ミオは、何か言いかけた。
イサナは、先を続けた。言ってしまわなければ、自分の中から消える気がした。数日で消えるのだ。どうせ。
「祭りのあと、親父は帰ってこなかった。この子は、物見から瓶口を見た。堰の上で、縛られた石工たちが、兵に一人ずつ突き落とされてた。盾に、七つの波の紋があった」
ミオの筆が、止まった。
「それから、王宮の方の堤が崩れて、水が来た。......屋根の子と、同じだ」
ミオは、長いこと筆を止めていた。
それから、書いた。見たとおりに。
イサナは、その手元を見ていた。彼女は、考えたことは一字も書かなかった。筆を押しつける力だけが、いつもより強かった。
◇
日が傾いていた。
イサナは、目を閉じた。何が溶けたのか、探さなければならなかった。
昨日の夕飯。浜。コチ。砂の上の二文字。
市場。潮霊。門楼。スズ。
港。港の朝。港の入り江。
入り江。
そこで、引っかかった。
入り江で、誰かに、何かを言った気がした。何を言ったのか、出てこなかった。誰に言ったのかも。水の匂いと、朝の光だけが残っていて、その真ん中が、白かった。
約束だ、と思った。
娘の親父の、帰るという約束。それに似た、何か。
目を開けた。
「港の入り江で、俺は、誰かに何か言ってる。......分からねえ」
ミオが、帳面から顔を上げた。
彼女は、すぐには答えなかった。筆を置いて、両手を膝の上で重ねた。
「わたしに、よ」
「あんたに?」
「稽古の最初の朝。わたしは水に入れなくて、あなたの腕に爪を立てた。あなたは、今日はここまでだ、明日も来いって言った。わたしがもう一回やるって言ったら、足首までで百数えろって」
イサナは、黙って聞いていた。
知らない二人の話だった。水に入れない娘と、腕に爪の跡をつけた男の話。
自分の右腕を見た。
爪の跡は、もう残っていなかった。
「......そうか」
潮帳を出した。油紙の包みを解いて、筆を取った。
――港の入り江で、明日も来いと言った朝を、失くした。
書き終えてから、筆の尻で、その一行を叩いた。
ミオのために読んだ。ミオと約束した朝が、溶けた。
契約したときから、分かっていたはずだった。何が溶けるかは、選べない。読んだ記憶に似たものから溶ける。王宮の、祭りの、王女の記憶を読めば、溶けるのは、それに似たものだ。
ミオが、自分の帳面を開いていた。
彼の一行を、写していた。今度は、筆を押しつけていなかった。一字ずつ、ゆっくりと、きれいに写していた。
「三度目は」
イサナは言った。
「あんたが読んで聞かせる、って言ったな」
「言ったわ」
「......今のが、それか」
ミオは、写し終えてから、答えた。
「そうよ」
◇
夜になった。
石工の家の土間で、二人は壁にもたれて座っていた。瓢箪は、ミオの膝の上にあった。
月の出は、また少し遅くなっていた。
暗い戸口の外で、潮が引いていく音だけがしていた。
足音がしたのは、その音に紛れるようにだった。
濡れた石を踏む、音のない足音。
イサナは、戸口を見た。
月のない暗がりに、半分だけ白い髪が、ぼんやりと浮かんでいた。
「......イサナ」
ウツロの声だった。
平らな声だった。宴のときより、少しだけ掠れていた。
「話が、ある」