第4話「俺は車なんて必要ない」
第4話「俺は車なんて必要ない」
―――
木曜日 7時15分
赤坂レジデンス――東京都港区・1203号室
蓮は、説明のつかない感覚とともに目を覚ました。
悪夢を見たわけではない。
騒音がしたわけでもない。
外から何かに邪魔されたわけでもない。
ただ――
ベッドが快適すぎた。
広すぎる。
今までとは違いすぎる。
蓮は完全に目を開ける。
数秒間、ただ頭上の白い天井を見つめていた。
やがて上半身を起こし、ベッドの端に腰を下ろす。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
東京の空は淡い青色だった。
薄い雲がゆっくりと流れている。
ここ数日とは違い、今朝は雨が降っていない。
蓮は目をこする。
まだ、この広い部屋で目を覚ますことには慣れていなかった。
手を伸ばし、ベッド脇のテーブルからスマートフォンを取る。
画面が点灯する。
この二日間で、奇妙な人生の一部となったアイコンが、まだそこにある。
蓮はそれを開いた。
《絶対資産支配システム》
黒瀬 蓮
年齢:21歳
純資産:22億円
物欲:2%
無欲倍率:×22
状態:稼働中
蓮は、その数字を見つめる。
22億円。
しばらく黙る。
そして画面を閉じた。
「22億......」
蓮は髪をかく。
「それでも俺、朝7時に起きてるんだな」
これ以上眠る理由はない。
大学は大学だ。
予定は予定。
蓮は立ち上がった。
キッチンへ向かう。
電気ケトルは昨日から同じ場所に置かれている。
蓮は水を入れる。
スイッチを押す。
カチッ。
加熱が始まる音が聞こえる。
キッチンの棚を一つ開ける。
インスタントコーヒーはまだ残っている。
蓮は一袋取り出す。
それからバッグを開く。
古いアパートから持ってきた数少ない荷物の中に、一つの白いマグカップがあった。
縁には小さなひびが入っている。
そのマグカップは、この高級マンションのキッチンにはあまりにも似合っていなかった。
木製の床。
現代的なキッチン設備。
綺麗なカウンター。
そして、長年蓮とともに過ごしてきた安物の白いマグカップ。
蓮はコーヒーを入れる。
お湯を注ぐ。
かき混ぜる。
それで終わり。
一口飲む。
苦い。
熱い。
いつも通り。
蓮は小さく頷いた。
「少なくとも、これは変わらないな」
マグカップを窓際へ運ぶ。
12階から東京を眺める。
昨日まで、蓮は練馬に住んでいた。
今は赤坂で目を覚ましている。
昨日まで、大学へ行くために電車を使っていた。
今は、この建物の地下に、自分が一度も望んでいない車がある。
蓮は息を吐く。
「車......」
昨日見つけた黒い箱を思い出す。
金色のリボンが巻かれた箱。
その中に入っていた車の鍵。
蓮はマグカップを置いた。
―――
7時40分
赤坂レジデンス――1203号室
蓮はリビングの床に座っていた。
まだ椅子は買っていない。
テーブルも買っていない。
他の家具も買っていない。
広い部屋は、まだ空っぽに感じられる。
蓮は、部屋の隅に置かれた金色のリボン付きの黒い箱を見る。
それを手に取る。
蓋を開ける。
中には、まだ車の鍵が入っていた。
そして駐車場のアクセスカード。
B2-47。
蓮はカードを見る。
それから鍵を見る。
地下に何があるのかは分かっている。
だが昨日は、ほんの少し確認しただけだった。
今日は、なぜか自分の目で確かめておきたい気がした。
「この車......」
蓮はスマートフォンの画面を見る。
「放っておくほうが、かえって変だな」
小さく息を吐く。
「俺、車なんて必要ないんだけどな」
その言葉は変わらない。
それでも数秒後、蓮は立ち上がった。
ジャケットを手に取る。
鍵をポケットへ入れる。
それからリュックを背負う。
出る前に、コーヒーの入ったマグカップを見る。
まだ半分ほど残っている。
蓮はそれを手に取り、飲み干した。
そしてマグカップを洗う。
そのまま置いていく気にはならなかった。
「自分で見ないと、落ち着かないか」
駐車場のアクセスカードを取る。
部屋を出る。
―――
7時55分
赤坂レジデンス――地下2階
エレベーターが下降する。
1。
2。
3。
数字が変わり続ける。
蓮は一人でエレベーターの中に立っている。
金属製の扉に映る自分の姿を見る。
黒いTシャツ。
灰色のジャケット。
ジーンズ。
古いスニーカー。
昨日と変わらない格好だ。
エレベーターが地下2階に到着すると、短い音が鳴った。
チン。
扉が開く。
地下駐車場の空気が、すぐに蓮を包んだ。
冷たい。
少し湿っている。
コンクリートとオイル、そして閉ざされた空気の匂い。
白い照明が並んだ車を照らしている。
蓮は外へ出る。
区画番号を追って歩く。
1。
2。
3。
4。
何台かの高級車が並んでいる。
黒いメルセデス・ベンツSクラス。
白いBMW 7シリーズ。
灰色のレクサスLS。
蓮は特に反応することなく通り過ぎる。
そして、次の番号を見つけて足を止めた。
47。
そこには、昨日見た車が停まっていた。
だが今朝は、地下駐車場の照明がより明るいため、その姿がはっきりと見える。
蓮は立ち止まった。
「......」
マンソリーP9LM EVO 900。
ポルシェ911ターボS・992型をベースとしているが、もはや標準仕様のポルシェを思わせる雰囲気はほとんど残っていない。
ボディは大幅にワイド化されている。
ラインは攻撃的だ。
いくつかの部分では、カーボンファイバー製のパネルがはっきりと見える。
フロントには大きなエアインテーク。
低く構えたバンパー。
リアには大型のスポイラー。
中央には三本のエキゾーストパイプ。
ボディカラーは、一言では説明しにくい。
暗い。
だが蓮が数歩横へ移動すると、表面が変化したように見える。
一つの塗装の中に二つの色が混ざっている。
ネオンの光が、角度によって違った反射を見せる。
蓮には、その塗装技術がどういうものなのか分からない。
そして、実のところ、そこまで知りたいとも思っていなかった。
ただ、その車を見ている。
それから手元のカードを見る。
蓮はシステムを開いた。
《初回車両報酬》
初回車両報酬
車両:
マンソリーP9LM EVO 900
ベース車両: ポルシェ911ターボS(992型)
生産数: 世界限定10台
最高出力: 900馬力
最大トルク: 1050Nm
0~100km/h: 2.5秒
最高速度: 340km/h
状態: 黒瀬 蓮名義で登録済み
税金: 納付済み
保険: 有効
駐車場所: 地下2階・47番区画
蓮は最後まで読む。
「......」
車を見る。
「900馬力か」
沈黙。
「俺、大学へ行くだけなんだけどな」
蓮はスマートフォンをポケットへ戻す。
少し横を見る。
数メートル先には、もう一つの駐車区画がある。
48。
その区画にも、特別な予約表示が出ている。
柱に取り付けられた小さなプレートには、その場所も黒瀬 蓮名義の車両用として登録されていることが記されていた。
蓮は、以前システムから与えられた車両報酬を思い出す。
Ghost Series II by MANSORY。
つまり、今は二台ある。
一台は47番。
もう一台は48番。
蓮は二台を見つめる。
「......」
二台の車。
一人の人間。
蓮は息を吐く。
「本当に過剰だな」
しかしシステムは何も答えない。
当然だ。
システムは、自分を弁護する必要など一度も感じたことがない。
蓮は再びP9LM EVO 900を見る。
アクセスカードをポケットへ入れる。
「まずは、こっちからだ」
蓮は近づく。
鍵を取り出す。
ボタンを押す。
車両のライトが点滅した。
ピッ。
蓮はドアを開けた。
―――
8時00分
赤坂レジデンス――地下2階
車内は、蓮がこれまで見てきた車とはまったく違っていた。
レザーシート。
金色のステッチ。
カーボンパネル。
上質な素材で仕上げられたダッシュボード。
マンソリーのロゴが入ったステアリング。
新しい革の匂いが車内に満ちている。
蓮は運転席に座る。
ドアを閉める。
空気が一変した。
地下駐車場の音が、ずっと遠くなった。
蓮はダッシュボードを見る。
それほど複雑には見えない。
少なくとも、今のところは。
蓮は運転したこと自体はある。
こんな車ではない。
レンタカーだけだ。
トヨタ。
ホンダ。
高性能な機械の中に座っているような感覚とは無縁の車ばかりだった。
蓮は息を吸う。
「......試してみるか」
鍵を差し込む。
ボタンを押す。
エンジンが始動する。
低く、重い音が響いた。
耳を直接痛めるような音ではない。
むしろ、シートにまで伝わってくる深い振動のような感覚だった。
蓮は黙る。
「......」
メーターを見る。
すべて正常。
ブレーキを踏む。
シフトを操作する。
そして、ゆっくりアクセルを踏む。
車が動く。
ゆっくりと。
蓮はすぐにアクセルを戻した。
「反応が速いな」
ハンドルを握る手の位置を調整する。
そして、ゆっくり駐車区画から出る。
急がない。
加速も試さない。
何かを試そうともしていない。
ただ、この車を安全に運転できるか確認したいだけだった。
―――
8時10分
赤坂の街 → 六本木通り → 大学へ向かう道
蓮は慎重に運転していた。
非常に慎重に。
P9LM EVO 900は、これまで運転した車とはまるで違う。
アクセルの反応が非常に速い。
ステアリングの操作は正確。
方向を変えるたび、その動きがすぐに車体へ伝わる。
蓮は速度を抑える。
急ぐ理由はない。
赤坂の通りでは、何人かが振り返っている。
蓮は視界の端でそれを確認する。
見なかったことにする。
こんな車なら、無視するほうが難しい。
特に朝の街では。
蓮が交差点を通過すると、隣の車線にトヨタ・プリウスが停まった。
運転していた中年の男性が、こちらを振り向く。
目を見開いている。
蓮は信号だけを見る。
青。
車を進める。
P9LM EVO 900は滑らかに走り出した。
蓮はアクセルを深く踏まない。
ただ交通の流れに合わせて走る。
前方には六本木通りが伸びている。
蓮は息を吐く。
「みんな、ずっとこんなふうに見るなら......」
言葉を止める。
「......面倒だな」
怖いわけではない。
ただ、注目を集めるのが好きではない。
それだけだった。
―――
8時40分
大学駐車場――地下1階
蓮は大学の駐車場へ入った。
できるだけ奥を選ぶ。
比較的暗い隅。
学生があまり通らない場所。
慎重に車を停める。
エンジンを切る。
静寂が戻る。
蓮は数秒間、運転席に座ったままだった。
それから周囲を見る。
「ここまでなら、少なくとも大丈夫だな」
車を降りる。
施錠する。
そしてエレベーターへ向かう。
その後ろでは、P9LM EVO 900が一台だけ停まっている。
幅が広い。
暗い色。
攻撃的なデザイン。
トヨタ・ヴィッツやホンダ・フィットのような学生たちの車に囲まれるには、あまりにも場違いだった。
蓮は振り返らない。
ただ歩いていく。
―――
9時00分
大学――経済学部棟・3階
蓮は時間通りに教室へ入った。
昨日とは違う。
田中はすでに自分の席に座っていた。
少し眠そうな顔をしている。
「おはよう」
「おはよう」
田中は蓮を見る。
そして眉を寄せる。
「なんか疲れてないか?」
「いつも通り」
「本当に?」
「ああ」
田中は椅子にもたれかかる。
そして何気なく言った。
「お前、車で来た?」
蓮が振り向く。
「なんで?」
「いや、なんとなく」
田中は蓮を上から下まで見る。
「なんか今日のお前、朝から車で来た奴みたいな雰囲気がある」
蓮は黙る。
田中は小さく笑った。
「俺も何言ってるのか分かんねえけど」
「分からないなら聞くな」
「それでこそ蓮だな」
教授が入ってくる。
会話が止まる。
蓮はノートを開く。
授業が始まる。
だが何度か、思考が大学の地下駐車場へ戻った。
誰にもあの車へ近づいてほしくない。
そう思った。
だが――
その願いが長く続くことはなかった。
―――
12時30分
大学食堂
蓮はいつもの隅の席に座っていた。
カレーライスを注文する。
420円。
料理が運ばれてくる。
蓮はスプーンを手に取る。
静かに食べる。
数メートル離れたテーブルでは、何人かの大学生が何かを話していた。
「なあ、B1に停まってる車見た?」
「どの車?」
「隅にあるやつ」
「黒いやつ?」
「ああ」
「めちゃくちゃ幅広くない?」
「レーシングカーみたいだった」
「誰のだよ?」
「知らない」
「教授じゃないか?」
「どの教授があんな車持ってんだよ」
笑い声が上がる。
蓮は食べ続ける。
そちらを見ることもしない。
ただ水を一口飲む。
そして、また食べる。
「......」
食べ終わる。
蓮はスプーンを置く。
立ち上がる。
トレーを持つ。
返却する。
そして、その場を離れた。
この話が広がることは望んでいなかった。
―――
15時00分
大学 → 地下駐車場B1
蓮は駐車場へ向かって歩いていた。
授業もほとんど終わりだ。
本当なら、そのまま帰りたかった。
他に予定はない。
地下へ続く扉が開く。
蓮は階段を下りる。
そして、足が遅くなった。
自分の車の近くに誰かいる。
若い男だった。
20代前半くらい。
デニムジャケット。
首にはカメラを下げている。
しゃがみ込みながら、写真を撮っていた。
蓮は足を止めた。
「......」
男が、もう一度シャッターを切る。
カシャ。
蓮は近づいていく。
男がようやく蓮の存在に気づく。
振り向く。
目を大きくする。
「えっ――!」
すぐに立ち上がる。
「すみません! 俺、違っ――いや、ただ......」
蓮は男を見る。
男は明らかに慌てている。
「この車、あなたのですか?」
「なんで?」
男はカメラを指す。
「俺......写真を専攻してる学生で」
蓮は黙る。
「今朝、この車を見たんです」
男は息を吸う。
「それで......撮らずにはいられなくて」
蓮はカメラを見る。
それから車を見る。
そして男を見る。
男はさらに早口になった。
「これ、マンソリーP9LMですよね? P9LM EVO 900?」
蓮は答えない。
「限定モデルの?」
まだ黙ったまま。
「インターネットで写真を見たことしかなくて」
男は車のフロントを指す。
「生産数もすごく少ないですよね。10台ですよね?」
蓮がようやく口を開く。
「お前、この大学の学生?」
男は少し驚く。
「え?」
「学生って言っただろ」
「あ、はい」
男は素早く頷く。
「5年生です。視覚伝達デザイン学科で」
蓮は頷く。
「もう撮るな」
男が瞬きをする。
「え?」
「この車、俺のだから」
蓮は淡々と言う。
「写真は撮られたくない」
男はすぐにカメラを下ろした。
「わ、分かりました」
頭を下げる。
「すみません。本当にすみません。持ち主だとは知らなくて」
「別にいい」
蓮は車のドアを開ける。
だが乗り込む前に言った。
「次からは、先に聞け」
男は何度も頷いた。
「もちろんです」
そして、何かを思い出したように声を上げる。
「あ、そうだ」
蓮が少し振り向く。
「俺、佐野 悠斗っていいます」
男は気まずそうに笑った。
「もし、いつか写真を撮ってほしいときがあったら、俺――」
蓮はすでに車へ乗り込んでいた。
ドアが閉まる。
佐野は黙る。
エンジンが始動する。
蓮は駐車区画から車を出す。
佐野 悠斗は、その場に立ち尽くしていた。
カメラはまだ首から下がっている。
表情には、恥ずかしさと驚きが混ざっていた。
「......すげえ」
車はゆっくりと視界から消えていった。
―――
16時30分
赤坂レジデンス――1203号室
蓮はマンションへ戻った。
車の鍵をテーブルの上に置く。
今度はテーブルがあった。
いつ置かれたのか、蓮には分からない。
マンションの設備として最初から用意されていたのかもしれない。
あるいはシステムが準備したのかもしれない。
蓮は尋ねなかった。
ジャケットを脱ぐ。
床に座る。
大きな窓を見る。
朝の運転を思い出す。
それから大学の駐車場。
そして佐野 悠斗。
「やっぱり、あの車は本当に分かる人には分かるんだな」
蓮はスマートフォンを取る。
システムを開く。
《無欲行動を確認》
利用者の無欲行動を確認しました。
利用者は車両を使用した際、驕りを示していません。
他者へ車両を見せびらかしていません。
追加の装飾品やアクセサリーを購入していません。
無欲ボーナス:×25
報酬:6億円
実績解除:【初回高級車両】
蓮はすべてを読む。
黙ったまま。
そして報酬額を見る。
「6億......」
計算する。
22億円。
+6億円。
=28億円。
蓮は息を吐く。
「車を運転しただけで?」
システムは答えない。
当然だ。
蓮は画面を見る。
「欲しくないものほど、どんどん与えてくるのか」
顔を手で覆う。
「本当に意味が分からない」
画面が変わる。
《現在の総資産:28億円》
物欲:2%
無欲倍率:×25
蓮は数秒間、その数字を見つめる。
そしてシステムを閉じる。
立ち上がる。
キッチンへ向かう。
緑茶を淹れる。
湯呑みを持ってバルコニーへ出る。
―――
19時00分
赤坂レジデンス――1203号室
東京の街が明るくなり始めている。
ビルの明かり。
車のライト。
マンションの窓。
街は光の海へと変わっていく。
蓮はバルコニーに座る。
手には緑茶の入った湯呑み。
下を見る。
車が光の流れのように動いている。
仕事を終えた人々が帰宅していく。
レストランは次第に賑わい始める。
東京は動き続けている。
蓮はお茶を一口飲む。
「今日は......」
大学での出来事を思い出す。
写真を専攻している学生。
佐野 悠斗。
そして車。
室内の小さなテーブルを見る。
車の鍵が置かれている。
「やっぱり、あの車を知ってる人間は外にもいるんだな」
蓮は黙る。
大きな問題ではない。
だが、それは自分の存在が以前より目立ちやすくなったことを意味する。
これまでは、大学を普通に歩いていても注目されることはなかった。
今は、生産台数が限られた車が大学の駐車場に停まっている。
これで目立たないほうが難しい。
蓮は息を吐く。
「もっと気をつけないとな」
お茶を飲み干す。
立ち上がる。
部屋へ戻る。
バルコニーの扉を閉める。
車の鍵は、まだテーブルの上にある。
蓮は一度だけそれを見る。
そして寝室へ向かう。
今夜はもう考えたくなかった。
蓮はベッドに横になる。
まだ少しだけ、あまりにも快適に感じるベッド。
毛布を引き寄せる。
目を閉じる。
だが眠る前、再び一つのことが頭に浮かんだ。
地下駐車場にある二台の車。
一台はP9LM EVO 900。
もう一台はGhost Series II by MANSORY。
そして、蓮はそのどちらも一度も望んでいない。
蓮は一度だけ目を開ける。
「......」
そして、再び閉じる。
「明日は大学だ」
それが大事だ。
数分後、呼吸がゆっくりと整っていく。
蓮は眠りについた。
外では、東京がいつも通り動き続けている。
だが、これまで質素だった蓮の生活は、少しずつ変わり始めていた。
蓮が富を追い求めているからではない。
有名になりたいからでもない。
誰かに何かを見せたいからでもない。
むしろ、その逆だった。
普通に暮らそうとすればするほど――
システムは、普通の生活を維持することを難しくするものを与えてくる。
そしてその夜、赤坂レジデンスの地下駐車場では、黒瀬 蓮の二台の高級車が隣り合って停まっていた。
B2――47番区画
マンソリーP9LM EVO 900
B2――48番区画
Ghost Series II by MANSORY
その所有者本人は、自分が普通の大学生の生活をはるかに超える価値を持つ二台の車の持ち主になったことを、少しも実感しないまま眠っていた。
―――
次話予告
第5話「初めてのスキル」
(「初めてのスキル」)
蓮は、初めてのスキル――《資産分析 EX》――を手に入れる。
それは財務諸表、資産価値、企業構造、投資リスクなどを瞬時に理解できる能力だった。
だが、そのスキルは単なる数字を読むための能力ではない。
システムは、蓮をさらに面倒なことへと導き始める。
他人の問題を解決すること。
大学で知り合った人物が複雑な金銭問題を抱えたことで、蓮は初めてその能力を使わざるを得なくなる。
そして初めて、蓮は気づく。
システムから与えられる能力は、金よりもはるかに面倒なものなのかもしれない。
なぜなら――
関わらないようにすればするほど、
システムは蓮をその問題へ引きずり込もうとするからだ。
【第5話へ続く......】