第6話「彼女は、金より規則を信じていた」
第6話「彼女は、金より規則を信じていた」
――――――――――
金曜日・午後4時30分
赤坂レジデンス――1203号室・港区
蓮はリビングの床に座っていた。
背中をソファに預けている。
手にしたスマートフォンには、新しい通知が表示されていた。
大学からではない。
友人からでもない。
そして、もちろん――
普通のメッセージでもない。
蓮は通知を開いた。
《緊急連絡》
緊急メッセージ
黒瀬アセットマネジメントより
―――
黒瀬様
本日夜、銀座にて開催される投資家向け説明会へのご出席をお願いいたします。
開催時刻は19時からとなっております。
服装: ビジネスカジュアル
開催概要:
・会場:GINZA SIX・6階――The Grand Hall
・住所:東京都中央区銀座六丁目・GINZA SIX
・内容:四半期業績報告、経営戦略に関する協議、交流会
ヤマト・ロジスティクス買収後、初めて開催される説明会となるため、黒瀬様のご出席を強く希望しております。
高橋健司
―――
蓮はメッセージを最後まで読む。
そして、数秒間画面を見つめた。
「......」
投資家向け説明会。
銀座。
19時。
ビジネスカジュアル。
蓮はスマートフォンを床に置いた。
天井を見上げる。
最大の問題は、説明会そのものではない。
銀座でもない。
投資家でもない。
問題は、もっと単純だった。
「俺、ビジネスカジュアルなんて持ってないんだけどな」
蓮は立ち上がる。
寝室へ向かう。
クローゼットを開ける。
何もない。
中に掛かっているのは、普段着ばかりだった。
Tシャツ。
パーカー。
シンプルなジャケット。
大学へ着ていくいつものズボン。
ブレザーもない。
まともなフォーマルシャツもない。
蓮はクローゼットの中を見つめる。
「......」
数日前まで、こんな服を持つ理由すらなかった。
生活は単純だった。
大学へ行く。
帰る。
必要な分だけ勉強する。
食べる。
寝る。
それで終わり。
それが今では――
40億円。
一つの会社。
そして、以前の生活では到底手が届かなかった二台の車。
そのうえ今夜は、投資家向け説明会に出席しなければならない。
蓮は息を吐く。
「服、買うか」
車の鍵を手に取った。
―――
午後5時00分
赤坂レジデンス → 赤坂通り → 六本木
蓮は六本木へ向かって車を走らせていた。
どの店へ行けばいいのか、正確には分からない。
スマートフォンで検索する。
いくつかの服屋。
いくつかの百貨店。
いくつかのブティック。
蓮はブランドには、それほど興味がなかった。
重要なのは――
失礼にならないこと。
シンプルであること。
派手すぎないこと。
蓮は六本木のあるビルの駐車場へ入った。
地下に車を停める。
車を降り、上階へ向かって歩く。
数分後、ガラス張りのショーウィンドウを持つブティックが目に入った。
暖色系の照明が、整然と並べられた服を照らしている。
蓮は店内へ入った。
スーツ。
シャツ。
ブレザー。
パンツ。
どれも高そうだ。
蓮はシャツを一枚手に取る。
値札を見る。
18万円。
蓮は黙った。
もう一度シャツを見る。
そして値札。
それから、またシャツを見る。
「......」
一枚で18万円?
蓮は慎重にシャツを元へ戻した。
「......ないな」
踵を返す。
そのままブティックを出た。
買えないからではない。
ただ――
必要だとは思えなかった。
数分後。
蓮は、もっと大きな百貨店を見つけた。
中へ入る。
フロアごとに大量の服が並んでいる。
選択肢も多い。
価格帯も幅広い。
白いシャツに黒いネクタイを合わせた若い男性店員が近づいてきた。
「こんばんは。何かお探しでしょうか?」
蓮は頷く。
「仕事関係のイベントで着る服を探してます」
店員は笑顔を見せた。
「ビジネスカジュアルでしょうか?」
「はい」
「夜のイベントですか?」
「7時からです」
店員は頷いた。
「それでしたら、3階にいくつか合いそうなものがございます」
「ありがとうございます」
蓮はエレベーターへ向かった。
―――
午後5時30分
百貨店――3階
蓮は服のラックの前に立っていた。
白いシャツ。
淡い青のシャツ。
グレーのブレザー。
ネイビーのブレザー。
黒いパンツ。
グレーのパンツ。
蓮はそれらを見つめる。
「......」
難しい。
財務諸表を読むより、服を選ぶほうが面倒だった。
蓮は白いシャツを手に取る。
サイズM。
次にグレーのブレザー。
サイズM。
黒いパンツ。
サイズ30。
それらを持って試着室へ向かう。
数分後――
蓮は鏡の前に立っていた。
白いシャツ。
グレーのブレザー。
黒いパンツ。
そして――
少し黄ばんできた、昔から履いている白いスニーカー。
蓮は鏡に映った自分を見る。
「......」
大学生が発表でもしに来たみたいだな。
少し首を傾げる。
だが、別におかしくはない。
シンプル。
やりすぎていない。
目立たない。
これで十分だ。
蓮は小さく頷いた。
「これでいい」
試着室を出る。
会計を済ませる。
合計――
4万5000円。
蓮はレシートを見る。
「......」
思っていたより高い。
だが、財布をポケットへ戻す。
問題ない。
買い物袋を持つ。
そして駐車場へ戻る。
時計は18時を示していた。
イベント開始まで、あと一時間。
―――
午後6時45分
六本木 → 銀座
蓮は車へ戻った。
買い物袋を後部座席へ置く。
そしてエンジンを始動する。
P9LM EVO 900が地下駐車場から出る。
東京の道路は、次第に混雑してきていた。
店の明かりが灯る。
仕事を終えた人々が帰路につく。
交差点を、高級車が何台も通り過ぎていく。
蓮は静かに銀座へ向かって走る。
やがて――
前方にGINZA SIXが見えてきた。
蓮は地下駐車場へ入る。
車を停める。
エンジンを切る。
車を降りる。
そして、その建物を見上げた。
GINZA SIX。
銀座を代表する高級商業施設の一つ。
蓮はポケットに手を入れる。
「......」
こういう場所に来るのは初めてだ。
エレベーターへ向かう。
扉が開く。
蓮は中へ入る。
6階のボタンを押した。
―――
午後7時00分
GINZA SIX――6階・The Grand Hall
エレベーターの扉が開く。
蓮が外へ出る。
そして、一瞬だけ足を止めた。
目の前の会場は、想像していたよりもずっと広かった。
磨き上げられた大理石の床。
中央には大きなシャンデリア。
白いテーブルクロスが掛けられた円卓が整然と並んでいる。
招待客たちは、値札を見るまでもなく質の良さが分かるようなビジネスウェアを身につけている。
スタッフがトレーを持って歩いている。
グラスが綺麗に並べられている。
蓮は入口に立ったまま、会場を見つめた。
「......」
俺、場所間違えてないか?
そのとき、横から声がかかった。
「黒瀬様」
蓮が振り向く。
高橋健司が近づいてきた。
グレーのスーツ。
濃紺のネクタイ。
こめかみには白髪が混じっている。
昨日、ヤマト・ロジスティクスの書類を渡してきた男だ。
高橋は一礼する。
「お越しいただき、ありがとうございます」
蓮は頷いた。
「これ......どういう会なんですか?」
「投資家向け説明会です」
高橋は会場を指し示す。
「複数の投資家や取引先が参加しております。企業業績の報告、経営戦略に関する協議、その後に交流会が予定されています」
蓮は人の集まりを見る。
「みんな、俺のこと知ってるのか?」
高橋は一瞬、言葉を止めた。
「まだ、ご存じないかと」
蓮は高橋を見る。
「皆様が知っているのは、ヤマト・ロジスティクスが買収されたという事実だけです」
高橋は続ける。
「新しい所有者がどなたなのかは、まだ広く公表されておりません」
蓮はゆっくり頷いた。
「それならよかった」
高橋は小さく笑う。
「なぜでしょう?」
「少なくとも、まだ隠れていられる」
高橋は小さく笑った。
「そこまでご心配なさらなくてもよろしいかと思いますが」
蓮は答えなかった。
そのまま高橋について会場へ入る。
―――
午後7時15分
The Grand Hall
蓮は指定されたテーブルに座った。
周囲にいるのは――
明らかに自分より年上の人間ばかりだった。
男性。
女性。
投資家。
経営幹部。
企業経営者。
何十年もの時間をビジネスの世界で過ごしてきたような人々。
蓮は彼らを見渡す。
「......」
俺、ここにいるべきじゃないだろ。
隣に座っていた中年男性が蓮を見る。
「君、大学生かい?」
蓮は振り向く。
「はい」
男は少し驚いた様子を見せる。
「大学生? こういう会に?」
蓮は少し考える。
「知り合いの投資家に呼ばれました」
一番簡単な答えだった。
男は頷く。
「なるほど」
そして笑う。
「若いうちからビジネスを学ぶのはいいことだ」
蓮は小さく頷く。
「そうですね」
それ以上は説明しなかった。
数分後、会場の照明が少し落とされた。
プレゼンテーションが始まる。
大きなスクリーンに、ヤマト・ロジスティクスのデータが映し出された。
売上。
営業費用。
負債。
資産。
キャッシュフロー。
将来予測。
蓮はそれを見つめる。
一つの数字。
次の数字。
そして、また次の数字。
《資産分析 EX》
そのスキルは、手動で発動させる必要すらなかった。
スクリーンに映ったデータが、そのまま頭の中で整理されていく。
数字同士の関係。
傾向。
不均衡。
リスク。
可能性。
すべてが読み取れる。
蓮は少しだけ身体を椅子へ預ける。
この会社には確かに問題がある。
しかし――
希望がないわけではない。
負債は重すぎる。
経営体制は非効率的。
キャッシュフローには改善が必要。
だが、物理的な資産は十分な強さを持っている。
長期契約にも、まだ価値がある。
車両も事業上の価値を保っている。
再編の余地はある。
蓮はメモを取らない。
すべて頭の中に入っている。
「......」
この会社は救える。
ただし――
事業の再編が必要だ。
プレゼンテーションは続く。
蓮は黙っている。
手を挙げない。
自分が賢く見えるようなこともしない。
この場にいる誰よりも速くデータを理解していることも、決して見せない。
ただ、話を聞いていた。
―――
午後8時30分
The Grand Hall――交流会
プレゼンテーションが終わった。
会場の雰囲気が変わる。
人々が立ち上がり始める。
話す。
名刺を交換する。
ビジネスについて話す。
投資について語る。
蓮は会場の隅に立っていた。
手にはミネラルウォーターのグラス。
会話に参加する気はない。
怖いわけではない。
ただ――
何を話せばいいのか分からない。
「......」
俺、知り合いなんて誰もいないんだけどな。
蓮は水を一口飲む。
周囲では、ビジネスの会話が途切れることなく続いている。
誰かが投資について話している。
誰かが事業拡大について話している。
誰かが市場について話している。
蓮はしばらく聞いていた。
そして、視線を別の方向へ向ける。
自分には関係ない。
そのとき――
視界の端で何かが動いた。
入口の近くに、一人の女性が立っている。
蓮はそちらを見る。
女性は黒いスーツを着ていた。
きちんとしている。
非常にきちんとしている。
長くまっすぐな、青みがかった黒髪。
その髪色は非常に暗く、一見すると黒に見える。
しかし、シャンデリアの光が当たると、深い青色の反射が浮かび上がる。
瞳は青灰色。
鋭い。
真剣な表情。
姿勢はまっすぐで、鍛えられた身体つきをしている。
彼女は誰とも話していない。
グラスも持っていない。
食べ物も持っていない。
ただ、そこに立っている。
観察している。
視線が会場の一方からもう一方へ動く。
出入口。
避難経路。
招待客。
スタッフ。
部屋の隅。
蓮は数秒間、その女性を見つめた。
「......」
客じゃない。
警備員か?
女性が動いた。
歩みは落ち着いている。
会場の端を歩きながら、隅々まで確認している。
無駄な動きはない。
余計な表情もない。
プロだ。
蓮は視線を戻した。
「俺には関係ないな」
再びミネラルウォーターを口にする。
―――
午後8時45分
The Grand Hall――入口付近
蓮は、もう十分だと思っていた。
プレゼンテーションには参加した。
会社の状況も理解した。
話し合いも聞いた。
これ以上ここに残る理由はない。
蓮は出口へ向かう。
しかし、出口まであと数歩というところで――
一人の人間が目の前に立った。
先ほどの女性だった。
黒いスーツ。
青みがかった黒髪。
青灰色の瞳。
「失礼いたします」
声は落ち着いている。
よく制御されていた。
「こちらの会場のお客様でしょうか?」
蓮は足を止める。
「はい」
「招待状を拝見してもよろしいでしょうか?」
蓮は気にしなかった。
スマートフォンを取り出す。
高橋から届いたメッセージを見せる。
女性はそれを読む。
視線が上から下へ素早く動く。
そして頷いた。
「ありがとうございます」
女性は横へ移動する。
「どうぞ」
蓮はその横を通り過ぎる。
二歩。
三歩。
そして――
足を止めた。
「......」
蓮は振り返る。
「あなた......」
女性が蓮を見る。
「警備員?」
「はい」
「名前は?」
女性は一瞬、黙った。
まるで、その情報を伝える必要があるのか考えているようだった。
そして答える。
「如月美雪です」
蓮は黙った。
「国際セキュリティサービス、特別警備部門の責任者を務めています」
蓮は頷く。
「黒瀬蓮」
美雪の視線が、わずかに変化する。
「黒瀬様」
声の調子は変わらず、プロフェッショナルなままだった。
「この会場では、黒瀬様が最年少のお客様です」
「そうですか」
「そして、お一人でお越しになっています」
「はい」
美雪は数秒間、蓮を見つめた。
その視線は、誰かを称賛するようなものではなかった。
普通の好奇心でもない。
むしろ――
観察。
分析。
確認。
蓮はそれに気づいた。
しかし、特に気にしなかった。
やがて美雪は丁寧に一礼する。
「お引き止めして申し訳ございません」
一歩下がる。
「お疲れさまでした」
美雪は背を向ける。
そして、元の位置へ戻っていった。
蓮は数秒間、その場に立っていた。
女性の背中を見る。
「如月美雪......」
小さく名前を繰り返す。
そして振り返る。
エレベーターへ向かった。
―――
午後9時15分
GINZA SIX――地下駐車場
蓮は車へ向かって歩いていた。
足取りは落ち着いている。
一定のリズム。
もう少しで駐車場へ着くというところで、背後から足音が聞こえた。
蓮は振り返る。
美雪だった。
数メートル後ろを歩いている。
黒いスーツは相変わらず乱れがない。
表情にも変化はない。
蓮が立ち止まる。
「......」
美雪も立ち止まった。
蓮が尋ねる。
「何か?」
「いいえ」
美雪は迷いなく答えた。
「お客様が安全に退出されることを確認しているだけです」
蓮は美雪を見る。
「俺、重要な客じゃないだろ」
美雪はまっすぐ蓮を見る。
「すべてのお客様が重要です」
蓮は黙った。
「......」
「それが、私の原則です」
蓮はゆっくり頷いた。
本気だ。
社交辞令ではない。
蓮は再び歩き始める。
美雪も数メートルの距離を保ちながらついてくる。
近すぎない。
遠すぎない。
そして、ようやく蓮は車の前へ到着した。
Mansory P9LM EVO 900。
黒い。
低い。
幅が広い。
銀座の地下駐車場に並ぶ高級車の中でも、ひときわ目立っている。
美雪が足を止める。
その視線が車へ向いた。
「......」
蓮はドアを開ける。
そして振り返った。
「何か問題ある?」
美雪は首を横に振る。
「いいえ」
もう一度、車を見る。
「ただ......」
「何?」
「この車は、普通ではありませんね」
蓮は答えない。
美雪が続ける。
「こちらは黒瀬様のお車ですか?」
「ああ」
美雪はゆっくり頷いた。
「承知しました」
それ以上の質問はなかった。
価格についても何も言わない。
羨ましそうな表情もない。
過剰な感嘆もない。
ただ一度、頷いただけ。
まるで――
一つの事実を確認しただけのように。
蓮はしばらく彼女を見た。
「......」
やっぱり、変わった人だな。
蓮は車に乗り込む。
ドアが閉まる。
エンジンを始動する。
低いエンジン音が地下駐車場に響き渡る。
美雪はその場に立ったままだった。
蓮は駐車スペースから車を出す。
車は出口へ向かって進む。
美雪は、車が地下駐車場の曲がり角へ消えるまで見送った。
そしてようやくスマートフォンを取り出す。
警備報告アプリを開く。
入力する。
【警備報告】
催事: 投資家向け説明会・GINZA SIX
時刻: 21時15分
記録:
黒瀬蓮名義の来場者が退館。
男性。
21歳。
大学生。
単独で来場。
Mansory P9LM EVO 900――限定車を運転。
脅威は確認されず。
美雪は報告内容をもう一度読む。
そして、一行を追加する。
推奨:要観察。
保存する。
スマートフォンをポケットへ戻す。
美雪は振り返る。
そして、再び建物の中へ戻っていった。
―――
午後9時45分
赤坂へ向かう道――車内
蓮は帰宅のため車を走らせていた。
街の明かりが、窓の外を流れていく。
しかし、頭の一部は先ほどの女性のことを考えていた。
如月美雪。
特別警備部門の責任者。
国際セキュリティサービス。
鋭い視線。
落ち着いた声。
制御された動き。
簡単には威圧されない。
簡単には何かに感心もしない。
蓮は少しだけ身体をシートへ預ける。
「......」
他の人とは違う。
だが、なぜ自分がそんなことを考えているのかは分からない。
蓮は息を吐く。
そして再び道路へ意識を戻した。
P9LM EVO 900は銀座を離れていく。
―――
午後10時15分
赤坂レジデンス――1203号室
蓮はマンションのドアを開けた。
車の鍵をテーブルへ置く。
買ったばかりのグレーのブレザーを脱ぐ。
そしてリビングの床に座った。
「......」
静かだ。
蓮はスマートフォンを取り出す。
システムアプリを開く。
画面がすぐに切り替わる。
《無欲行動を確認》
無欲行動を確認。
利用者はビジネスイベントに参加したが、驕りを示していません。
利用者は自身の資産を見せびらかしていません。
利用者は自身について過剰に語っていません。
無欲ボーナス:×28
報酬:4億円
達成項目:
【初のビジネスイベント】
初のビジネスイベント。
蓮は画面を見つめる。
「......」
また4億円。
イベントに行っただけで。
蓮はアプリを閉じた。
スマートフォンを床に置く。
天井を見つめる。
そして、あることを思い出した。
如月美雪。
青灰色の瞳。
落ち着いた声。
プロフェッショナルな態度。
招待状を確認していたときの彼女の姿を思い出す。
時間はかからなかった。
過剰な反応もなかった。
ただ――
すべてが規則通りなのかを確認していただけだ。
「......」
あの人、簡単には人を信用しないタイプだな。
蓮は立ち上がる。
キッチンへ向かう。
緑茶を淹れる。
湯呑みを持ってベランダへ向かう。
ガラス戸を開ける。
夜の空気がゆっくりと部屋へ入ってくる。
蓮は腰を下ろす。
高所から東京を見下ろす。
ビルの明かりが、光の海のように広がっている。
蓮はお茶を一口飲む。
そして背もたれへ身体を預けた。
「如月美雪......」
名前が、自然と口から出た。
蓮は黙る。
「......」
なぜか――
また会う気がする。
会いたいからではない。
探しているわけでもない。
ただの、小さな予感だった。
蓮はもう一度、お茶を飲んだ。
―――
東京――別の場所
その頃、蓮が一人でベランダに座っている一方で――
美雪はまだオフィスにいた。
机の前に座っている。
先ほど作成した警備報告が、画面に表示されている。
その名前が、はっきりと見えていた。
黒瀬蓮。
21歳。
大学生。
一人で来場。
限定車を運転。
そして、会場にいる間――
富を見せびらかしたい人間のような振る舞いを一切見せなかった。
美雪は椅子に背中を預ける。
報告書を見つめる。
「......」
何かが噛み合わない。
危険というわけではない。
まだ。
しかし――
普通ではないことが多すぎる。
21歳の大学生。
投資家向け説明会に参加している。
新たに買収された会社の所有者として現れた。
一人で来場している。
落ち着きすぎている。
そして、普通ならその年齢の人間が簡単には手に入れられないはずの車を運転している。
美雪は画面を閉じる。
そして窓の外を見る。
遠くに東京の明かりが見える。
「......一体、何者なの?」
答えはない。
美雪は先ほどの報告書をもう一度手に取る。
読む。
そして、机の上へ戻す。
「......」
何かがおかしい。
―――
【NEXT 第7話――「強い人ほど、騒がない」】
「強い人ほど、騒がない」
視点は如月美雪へ移る。
黒瀬蓮との短い出会いは、美雪に答えよりも多くの疑問を残した。
21歳の大学生。
年齢に似合わないほど、冷静すぎる。
その立場にいる人間とは思えないほど、質素すぎる。
そして、会社の新しい所有者になったばかりの人間とは思えないほど、あまりにも普通に振る舞っている。
そんな中、美雪のもとに新たな任務が舞い込む。
その任務は、つい最近買収された会社に関係するものだった。
そして、その資料の中に再び――
黒瀬蓮の名前が現れる。
今度、美雪が彼を見る目は、単なる一人の来場者を見るものではない。
理解すべき一人の人物として、彼を観察し始める。
黒瀬蓮とは、一体何者なのか?
そして、なぜ人々が彼について話すたびに、いつも同じ感覚が残るのか――
彼は、見た目通りの人間ではない。
[第7話へ続く......]