第7話「強い人ほど、騒がない」
第7話「強い人ほど、騒がない」
―――
土曜日、05時30分
如月美雪のマンション — 渋谷区、東京
美雪は、アラームが鳴る前に目を覚ました。
まだ暗い部屋の中で、ゆっくりと目を開く。
音はない。
聞こえるのは、エアコンのかすかな駆動音と、窓の向こうから時折届く街の音だけだった。
美雪は天井を見つめる。
05時30分。
アラームが鳴るのは、あと数分後のはずだった。
しかし、身体のほうが先に目を覚ましていた。
もう慣れている。
何年もの訓練によって、身体には身体なりのリズムが染みついている。
起きる。
鍛える。
シャワーを浴びる。
朝食を取る。
仕事へ行く。
順番を変える理由はない。
美雪はベッドの端に腰を下ろした。
そして、窓へ視線を向ける。
渋谷は、まだ暗い。
高層ビルの明かりだけが消えずに残っている。
まるで、決して眠らない人工の星のようだった。
美雪は立ち上がった。
デスクライトを点ける。
そして部屋の隅へ向かった。
そこには一本の木刀が置かれている。
美雪は木刀を手に取った。
音楽は流さない。
タイマーも使わない。
ただ、部屋の中央に立つ。
そして――
木刀を構えた。
一度目。
正確に。
制御された動き。
続いて二度目。
三度目。
四度目。
素振り。
長年繰り返してきた、居合道の基本動作。
余計な動きはない。
無駄な力も使わない。
一振り一振りに、明確な目的がある。
時間が流れていく。
三十分後、美雪は稽古を終えた。
木刀を下ろす。
呼吸は少しだけ荒くなっていた。
それでも、その表情は変わらない。
木刀を元の場所へ戻す。
そのまま浴室へ向かった。
―――
06時15分
シャワーを浴びた美雪は、仕事用の服に着替えた。
白いシャツ。
黒いパンツ。
ダークグレーのジャケット。
長い髪は、後ろで綺麗にまとめている。
鏡の前に立つ。
服装に乱れがないか確認する。
問題なし。
美雪は食卓へ向かった。
簡単な朝食が用意されていた。
白米。
卵。
味噌汁。
余計なものはない。
美雪はゆっくりと食事を取る。
食べ終えると、スマートフォンを手に取った。
昨夜から、頭の片隅に残り続けている報告書が一つある。
美雪は、そのファイルを開いた。
【警備報告 — 銀座シックス】
日時: 金曜日、20時00分~21時30分
担当: 如月美雪
記録:
黒瀬蓮という名の来場者が投資家向け説明会に出席。
男性。
21歳。
大学生。
警護なし。
同行者なし。
MANSORY P9LM EVO 900を運転して来場。世界10台限定の車両。
観察結果:
・単独で来場。
・多くの人間とは会話しない。
・隅の席に座り、周囲を観察。
・早めに会場を退出。
・不審な行動は確認されず。
・しかし......一般的な来場者の人物像とは一致しない。
美雪は最後の一文で手を止めた。
一般的な来場者の人物像とは一致しない。
もう一度、その文章を読む。
そしてスマートフォンを机の上に置いた。
視線が窓へ移る。
黒瀬蓮。
21歳。
大学生。
非常に高価な車を運転している。
警護もつけていない。
同行者もいない。
目立とうともしていない。
投資家や企業幹部に囲まれていたにもかかわらず――
彼は、むしろ一人で会場の隅に立っていた。
美雪は指先で机を軽く叩く。
「......」
表立った収入はない。
裕福な家庭だと分かるような経歴もない。
それなのに、あの青年の生活は、確認できる情報と一致していない。
美雪は小さく息を吐いた。
「あなたは、誰?」
答えはない。
美雪は立ち上がる。
仕事用のバッグを手に取った。
今日も仕事が始まる。
―――
07時00分
マンション → 渋谷駅 → 東京メトロ銀座線 → 溜池山王駅
美雪は渋谷駅へ向かって歩いていた。
土曜日の朝なら、もっと静かなはずだった。
それでも渋谷は人が多い。
さまざまな方向へ、人々が流れていく。
ゴルフバッグを持っている人。
子供を連れている人。
仕事用のバッグを持っている人。
美雪は、そんな人々の間を急ぐことなく歩いていく。
駅へ入る。
やがて電車が到着した。
美雪は乗り込む。
いつも通りの移動だった。
特別なことは何もない。
それでも――
彼女の思考は、何度も一つの名前へ戻っていた。
黒瀬蓮。
数駅後、美雪は溜池山王駅で降りた。
そこから、国際セキュリティサービスの本社ビルへ向かう。
六階建ての建物。
灰色の外壁。
正面には、濃紺のロゴがはっきりと掲げられている。
美雪は建物へ入った。
エレベーターが彼女を八階へ運ぶ。
―――
07時30分
国際セキュリティサービス — 8階、ブリーフィングルーム
美雪が部屋へ入った時、すでに五人が中にいた。
全員、特別警備部のメンバーだ。
男性も女性もいる。
年齢は25歳から40歳まで。
この部屋にいる誰一人として、経験不足の人間はいない。
美雪はテーブルの端の席に座った。
ノートパソコンを開く。
「おはようございます」
全員が返事をする。
美雪はすぐに議題へ入った。
「始めます」
大型モニターが点灯する。
前日の銀座シックスでの警備報告が表示された。
「昨日の警備は問題なく終了しました」
美雪が画面をスクロールする。
「事故、トラブルともにありません」
何人かが頷いた。
「ですが、一つだけ話しておきたいことがあります」
部屋の空気が静かになる。
美雪がボタンを押す。
画面に名前が表示された。
KUROSE REN
「男性」
美雪が続ける。
「21歳。大学生です」
メンバーの一人が眉を上げた。
相良武。
35歳。
短く切った髪。
顎には小さな傷跡がある。
彼は少し身体を後ろへ預けた。
「大学生?」
「はい」
「銀座シックスの投資家向け説明会に?」
「はい」
相良は眉をひそめる。
「どうして?」
「それを確認したいんです」
美雪が次のボタンを押す。
監視カメラの映像が表示された。
蓮が出口へ向かって歩いている。
服装はシンプルだった。
Tシャツ。
ジャケット。
ジーンズ。
スニーカー。
美雪が画面を指す。
「会場に対して、服装が合っていません」
画像が切り替わる。
車両の写真が表示された。
黒い。
幅広い。
そして、攻撃的なフォルム。
「そして、彼が乗っていた車とも一致しません」
相良が身を乗り出した。
「これは......」
画面を凝視する。
「MANSORY P9LM?」
「はい」
「限定モデル?」
「はい」
「10台?」
「はい」
部屋が静まり返った。
藤本彩、28歳が少しだけ手を挙げる。
「如月さん」
「はい?」
「彼の経歴について、何か情報はありますか?」
美雪は画面を切り替えた。
「東京都内の私立大学に在籍」
データを読み上げる。
「経済学部。5年次」
そして――
「以前の住所は練馬区」
相良が頷く。
「それで?」
「現在は、その住所は無効です」
美雪がボタンを押す。
「最近、赤坂へ転居しています」
藤本が画面を見る。
「赤坂?」
「はい」
「高級マンション?」
「はい」
相良は身体を預けた。
「大学生が赤坂へ引っ越した?」
美雪は答えない。
相良が続ける。
「親が金持ち?」
「そのような記録はありません」
美雪が家族情報を開く。
「父親、黒瀬隆。中堅企業の会社員」
画面をスクロールする。
「母親、黒瀬由美。専業主婦」
相良は眉をひそめる。
「家業は?」
「ありません」
「遺産は?」
「記録なし」
藤本が画面を見つめる。
「じゃあ、金はどこから?」
美雪は一瞬だけ黙った。
「それを確認したいんです」
再び、部屋が静かになる。
美雪はチーム全員を見る。
「情報を集めてください」
相良が彼女を見る。
「どこまで?」
「積極的に動く必要はありません」
美雪ははっきりと言った。
「怪しまれるようなことも必要ありません」
一度ノートパソコンを閉じる。
「軽い観察だけでいいです」
「彼が誰なのか」
「何をしているのか」
「そして、なぜあのような場に参加できるのか」
相良が頷く。
「クライアントからの依頼ですか?」
「違います」
美雪は相良を見る。
「私自身の判断です」
相良が少しだけ眉を上げる。
「如月さん、普段はそういうことを――」
「分かっています」
美雪が言葉を遮る。
「ですが、あの人には何かあります」
一拍置く。
「それが何なのか、知りたいんです」
相良は最後には頷いた。
「分かりました」
「調べます」
―――
10時00分
国際セキュリティサービス — 8階、美雪の執務室
美雪は自分のデスクに座っていた。
ノートパソコンの画面には、黒瀬蓮の情報が表示されている。
氏名: 黒瀬蓮
年齢: 21歳
生年月日: 3月12日
出生地: 東京
住所: 赤坂レジデンス、港区
以前の住所: 練馬区
学歴: 東京都内の私立大学、経済学部、5年次
職業: なし
収入: 記録なし
銀行口座: ―
美雪は指先で机を叩く。
収入なし。
職業なし。
それなのに、限定車を所有している。
高級マンションに住んでいる。
次のページを開く。
黒瀬アセットマネジメント
設立: 最初の送金の3日前
所在地: 港区赤坂
代表取締役: 黒瀬蓮
初期資本金: 10億円
事業内容: 投資・資産管理・企業買収
美雪は身を乗り出した。
「3日......」
もう一度、読み返す。
その会社は、最初の送金が行われる三日前に設立されている。
そして初期資本金は――
10億円。
美雪は次のページを開く。
ヤマト・ロジスティクス株式会社
所在地: 新宿区
状況: 黒瀬アセットマネジメントによる買収
負債: 48億円
資産: 62億円
従業員: 87名
美雪は画面を見つめる。
48億円の負債を抱えた会社。
それを設立されたばかりの会社が買収している。
そして、その所有者は21歳の大学生。
「......」
あり得ない。
美雪はスマートフォンを手に取った。
相良との会話を開く。
美雪: 相良さん、黒瀬アセットマネジメントを設立した人物を調べてください。
美雪: 設立書類に署名したのは誰か。
美雪: そして、初期資本金を用意したのは誰か。
しばらくして、返信が届いた。
相良: 分かりました。少し時間がかかります。
美雪: 待っています。
スマートフォンを置く。
美雪は再び画面を見る。
黒瀬蓮。
あの青年の顔を思い出す。
落ち着いていた。
身構えていなかった。
何かを隠そうとしているようにも見えなかった。
しかし――
合わない点が多すぎる。
「あなたは、本当は何者なの?」
―――
13時00分
国際セキュリティサービス — 8階、社員食堂
美雪は一人で座っていた。
目の前には、冷たいそば。
冷水で締めたそば。
あっさりしたつゆ。
シンプルな食事。
美雪はこういう食事が好きだった。
周囲では、同僚たちが食事をしながら話している。
クライアント。
作戦。
スケジュール。
美雪は会話に加わらない。
それでも、いくつかの言葉ははっきりと聞こえてきた。
「なあ、聞いたか?」
「何を?」
「買収された物流会社の話」
「どこ?」
「ヤマト・ロジスティクス」
美雪の箸が止まった。
「新しいオーナー、かなり若いらしいぞ」
「どれくらい?」
「二十代」
「マジで?」
「ああ」
「どうやって?」
「知らない」
誰かが小さく笑った。
「金持ちの息子らしいぞ」
美雪はそばつゆを一口すする。
「......」
金持ちの息子。
しかし、裕福な家庭だという記録はない。
遺産もない。
家業もない。
美雪はそばを食べ終えた。
立ち上がる。
器を返却する。
そして執務室へ戻った。
―――
15時00分
国際セキュリティサービス — 8階、美雪の執務室
美雪のスマートフォンが振動した。
相良からのメッセージだった。
すぐに開く。
相良: 如月さん、情報が取れました。
美雪: 送ってください。
相良: 黒瀬アセットマネジメントは、高橋健司という人物が設立したようです。
相良: 彼が登記上の手続きを行っています。
相良: ただし、代表取締役と株主は黒瀬蓮のままです。
美雪は、そのメッセージを読む。
美雪: 高橋健司?
相良: はい。男性。58歳。
相良: 元・投資会社の幹部です。
相良: 犯罪歴はありません。
相良: 以前から黒瀬蓮と関係があった記録もありません。
美雪が文字を入力する。
美雪: つまり、高橋が黒瀬蓮のために会社を設立した?
数秒後。
相良: そのようです。
相良: ただ、なぜなのかまでは確認できていません。
美雪は画面を見つめる。
そして尋ねる。
美雪: 高橋について、他に情報は?
返信が来る。
相良: 30年間、投資会社に勤務。
相良: 昨年、退職。
相良: その他の記録はありません。
美雪: ありがとう、相良さん。
次のメッセージが届いた。
相良: もう一つあります、如月さん。
美雪が入力する。
美雪: 何?
相良: 高橋健司は現在、新宿のヤマト・ロジスティクス本社にいます。
美雪は読む。
そして、次のメッセージ。
相良: 黒瀬蓮と一緒です。
美雪の指が画面の上で止まった。
「......」
黒瀬蓮と一緒。
今日。
ヤマト・ロジスティクスで。
美雪はノートパソコンの画面を見つめる。
そして、仕事用のバッグを手に取った。
―――
16時00分
国際セキュリティサービス → 溜池山王駅 → 東京メトロ丸ノ内線 → 新宿駅
美雪は新宿駅で降りた。
西口方面へ歩く。
オフィスビル。
飲食店。
店舗。
仕事を終えて帰宅する人々。
新宿はいつも人が多い。
それでも、美雪の歩調は変わらない。
数分後――
彼女は一つの建物の前で足を止めた。
六階建て。
灰色の外壁。
壁面には会社のロゴが見える。
ヤマト・ロジスティクス株式会社
美雪は建物を見上げる。
「......」
ここが、買収された会社。
そして、黒瀬蓮が中にいる。
美雪はロビーへ入った。
髪をきれいにまとめた若い女性の受付係が、彼女を迎える。
「こんにちは。どのようなご用件でしょうか?」
「国際セキュリティサービスの如月美雪です」
美雪は身分証を提示する。
「高橋健司さんにお会いしたいのですが」
受付係はコンピューターを確認する。
「お約束はございますか?」
「ありません」
美雪は彼女を見る。
「ですが、重要な件です」
受付係がいくつか入力する。
そして頷いた。
「少々お待ちください」
美雪は待った。
五分。
十分。
そして――
エレベーターの扉が開いた。
高橋健司が出てくる。
グレーのスーツ。
濃紺のネクタイ。
こめかみには白髪が混じり始めている。
落ち着いた眼差し。
「如月さん」
美雪が立ち上がる。
高橋は軽く頭を下げた。
「どうぞ、お入りください」
―――
16時15分
ヤマト・ロジスティクス — 3階、会議室
部屋はシンプルだった。
木製のテーブル。
革張りの椅子。
通りに面した窓。
三階から見える新宿の道路は、車で混雑している。
美雪は一方の席に座る。
高橋は向かい側に座った。
高橋の隣には、一つ空いた椅子がある。
高橋が茶を淹れる。
「何かお力になれることが?」
美雪は回りくどい言い方をしなかった。
「黒瀬蓮さんについてです」
高橋が顔を上げる。
「黒瀬様が、何か?」
「彼が何者なのか知りたいんです」
高橋は薄く笑った。
「難しい質問ですね」
「なぜですか?」
高橋は茶の入った湯呑みを手にする。
「黒瀬様は、簡単に説明できる方ではありません」
美雪は彼を見る。
「自分のことを話したがりません」
高橋が続ける。
「注目されるのも好みません」
茶を一口飲む。
「ただ、静かに暮らしたいだけなのです」
美雪は眉をひそめる。
「でも、会社を持っています」
「はい」
「車も」
「はい」
「高級マンションも」
高橋は頷く。
「はい」
美雪は鋭く彼を見る。
「静かに暮らしたい人間が、なぜそれほどのものを持っているんですか?」
高橋は黙った。
そして、小さく笑う。
「それは、いい質問ですね」
湯呑みを置く。
「如月さん」
美雪は黙って待つ。
「私は三十年間、ビジネスの世界で働いてきました」
高橋は少しだけ背もたれに身体を預ける。
「多くの人間と会ってきました」
「金を持つ人間」
「権力を持つ人間」
「野心を持つ人間」
高橋は美雪を見る。
「ですが、黒瀬様は違います」
「どう違うんですか?」
高橋はすぐには答えなかった。
「彼は、富を望んでいません」
「......」
「権力を追い求めてもいません」
「......」
「肩書きにも興味がない」
高橋は一度言葉を止める。
「だからこそ......」
美雪は待つ。
「すべてが彼のもとへ集まってくるんです」
美雪は眉をひそめる。
「どういう意味ですか?」
高橋は微笑んだ。
「申し訳ありません」
首を横に振る。
「これ以上は説明できません」
「なぜ?」
「話したくないからではありません」
高橋は隣の空いた椅子へ視線を向けた。
「私自身、完全には理解できていないからです」
美雪は高橋を見つめる。
一つだけ分かったことがある。
高橋は何かを隠している。
しかし――
無理に話させることはできない。
その時だった――
部屋のドアが開いた。
美雪が振り向く。
一人の青年が入口に立っていた。
黒いTシャツ。
グレーのジャケット。
ジーンズ。
少し黄ばんだ白いスニーカー。
美雪は、すぐに彼だと分かった。
黒瀬蓮。
蓮が立ち止まる。
視線が高橋から美雪へ移る。
「客?」
高橋が答える。
「国際セキュリティサービスの如月さんです」
蓮が美雪を見る。
「......」
美雪は立ち上がった。
「昨日、会いましたね」
蓮が頷く。
「銀座で」
「はい」
蓮が部屋へ入ってくる。
「如月美雪」
美雪は少しだけ驚いた。
彼は、まだ自分の名前を覚えていた。
「そうです」
蓮は空いている椅子へ座る。
そして急須を手に取った。
自分で茶を注ぐ。
一口飲む。
「何か用ですか?」
美雪は蓮を見る。
「あなたが何者なのか知りたいんです」
蓮は美雪を見返した。
「黒瀬蓮」
迷いなく答える。
「大学生」
そして付け加える。
「21歳です」
美雪は黙る。
「私が知りたいのは、そういう答えではありません」
蓮は湯呑みを置く。
「では、何を知りたいんですか?」
「説明です」
美雪は落ち着いた声で話す。
「なぜ大学生が会社を持っているのか」
蓮は黙る。
「車を持っている」
沈黙。
「マンションも」
沈黙。
「そして、投資家向け説明会に参加できるのか」
蓮は数秒間、美雪を見つめた。
そして、息を吐く。
「如月さん」
「はい?」
「初対面の人間に、いつもこんな質問をするんですか?」
美雪は答えない。
蓮は再び湯呑みを手に取った。
「分かりました」
美雪を見る。
「あなたは警備担当なんですね」
「はい」
「脅威がないか確認したい」
「はい」
「それが仕事」
美雪は頷く。
蓮は茶を一口飲む。
「でも、俺は脅威じゃない」
美雪は表情を変えずに答えた。
「すべての人間は、脅威ではないと証明されるまでは脅威です」
蓮は黙った。
そして――
部屋へ入ってから初めて、
口元がほんの少しだけ上がった。
「いい原則ですね」
美雪は彼を観察した。
「......」
怒っていない。
身構えてもいない。
反論しようともしていない。
それどころか――
その原則を評価している。
蓮は湯呑みを置いた。
「如月さん」
「はい?」
「正直に言います」
蓮はテーブルを見る。
「全部を説明することはできません」
美雪は蓮を見つめる。
「説明したくないわけじゃない」
蓮が顔を上げる。
「ただ、説明するのが難しいこともあります」
「例えば?」
蓮は数秒黙った。
「なぜ俺が会社を持っているのか」
美雪は瞬きもしない。
「俺は、それを望んだわけじゃない」
「......」
「勝手にやってきたんです」
美雪は蓮の目を見る。
「それ以上は説明できません」
青灰色の瞳が、蓮へ向けられたままだった。
何かを探している。
疑い。
嘘。
恐怖。
傲慢さ。
何でもいい。
しかし、蓮はただそこに座っている。
静かに。
やがて美雪は、一つのことに気づいた。
自分を納得させようとしている人間には見えない。
ただ、自分が真実だと思っていることを口にしているだけだ。
しかし――
それは本当なのか?
それとも、この青年は何かを隠すことに長けているのか?
蓮が立ち上がる。
「俺は行きます」
ドアへ向かう。
そして、足を止める。
「如月さん」
美雪が振り向く。
「ありがとうございます」
美雪は少し眉を寄せた。
「何に対してですか?」
蓮が美雪を見る。
「聞いてくれたことに」
美雪は黙った。
蓮が続ける。
「ほとんどの人は、俺の車しか見ない」
一度、言葉を止める。
「それか、マンション」
蓮はドアを開ける。
「誰も聞かない」
少しだけ振り返る。
「勝手に決めつけるだけです」
美雪は答えない。
蓮は部屋を出る。
「それじゃ」
ドアが閉まる。
部屋に静寂が戻った。
美雪は、まだドアを見つめていた。
「......」
高橋が茶を一口飲む。
「面白いでしょう?」
美雪が振り向く。
「何がですか?」
「黒瀬様ですよ」
高橋は薄く笑った。
「見た目通りの方ではありません」
美雪は答えなかった。
立ち上がる。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
軽く頭を下げる。
そして部屋を出た。
―――
17時30分
ヤマト・ロジスティクス → 新宿駅 → 東京メトロ丸ノ内線 → 溜池山王 → 国際セキュリティサービス
美雪は会社へ戻った。
自分のデスクに座る。
ノートパソコンを開く。
新しい報告書を作成する。
【観察報告 — 黒瀬蓮】
日時: 土曜日
場所: ヤマト・ロジスティクス、新宿
記録:
黒瀬蓮と直接面談。
警戒する様子はない。
傲慢でもない。
嘘をついている兆候も見られない。
彼は、自分の財産について「望んだわけではない」と話した。
すべてが「勝手にやってきた」と。
印象:
・冷静。
・合理的。
・物欲が薄い。
・プライバシーを重視する。
・注目を好まない。
推奨:
現時点で直接的な脅威はなし。
ただし、黒瀬蓮の背景は依然として不明。
引き続き観察が必要。
美雪は報告書を保存した。
しばらく画面を見つめる。
そして、蓮の言葉が再び頭をよぎった。
俺は、それを望んだわけじゃない。
美雪は、あの青年の目を思い出す。
落ち着いていた。
身構えていない。
傲慢でもない。
自分を大きく見せようともしていない。
美雪は椅子に背を預けた。
「......」
本当に強い人間ほど――
騒がない。
ただ......
そこにいる。
美雪はノートパソコンを閉じる。
立ち上がる。
バッグを手に取る。
ドアへ向かって歩く。
そして、足を止める。
「黒瀬蓮」
前を見つめる。
「あなたが何者なのか、私が確かめます」
美雪は部屋を出た。
―――
20時00分
如月美雪のマンション — 渋谷
夜になった。
美雪は自宅の床に座っていた。
手には湯呑み。
ゆっくりと茶をすする。
窓の外では、再び渋谷が光に包まれている。
高層ビル。
広告看板。
車のライト。
決して完全には静かにならない街。
美雪はスマートフォンを手に取った。
相良との会話を開く。
そして文字を入力する。
美雪: 相良さん、観察を続けてください。
数秒後――
相良: 分かりました。
美雪は続けて入力する。
美雪: ただし、慎重に。
相良: 了解しました。
美雪: 気づかれないようにしてください。
相良: 分かりました。
美雪は画面を見つめる。
そして最後のメッセージを入力した。
美雪: 何かおかしなことがあれば、すぐに報告してください。
返信が届く。
相良: 承知しました。
美雪はスマートフォンを置いた。
再び窓を見る。
「黒瀬蓮......」
その名前を小さく口にする。
答えはない。
美雪はしばらく目を閉じる。
あの青年には、何かがある。
説明できない何か。
脅威ではない。
恐怖でもない。
ただ――
不一致。
あまりにも多くのことが噛み合っていない。
大学生。
会社経営者。
莫大な資産。
物欲の薄さ。
そして、それらすべてとはまるで一致しない態度。
美雪は目を開く。
「......」
彼には、何かがある。
美雪は天井を見つめる。
「私には説明できない何かが......」
手にした湯呑みを、もう一度握り直す。
そして、かなり久しぶりに――
美雪は、データを見るだけではすぐに理解できない人間と出会った。
茶を一口飲む。
そして湯呑みを置く。
「それが何なのか......知りたい」
―――
【次回予告】
第8話「俺の日常が、少しだけ変わった」
蓮は再び、大学生としての日常を送る。
しかし、彼の生活には今まで望んでもいなかった重荷が加わっていた。
自分が管理しなければならない会社。
その経営判断に左右される87人の従業員。
そして、彼に目を向け始めた警備担当者――
如月美雪。
その一方で、ヤマト・ロジスティクスで抱えていた問題が、ついに蓮の前へ姿を現す。
新たに手に入れた能力を使わなければならない、難しい決断。
初めて――
《資産分析 EX》と《企業管理》は、システムの中に保存されているだけのスキルではなくなる。
蓮は、それを実際に使わなければならない。
そして、その問題を解決した時――
システムはまた、蓮がまったく望んでいなかった報酬を与える。
第8話へ続く......