第2話「一度見なかったことにした」
第2話「一度見なかったことにした」
―――
火曜日、午前6時40分。
黒瀬アパート――東京都練馬区。
蓮は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
ゆっくりと目を開ける。
少しくすんだ白い天井が、いつも通り視界に入った。
雨の音はしない。
車の音も、いつも以上にうるさいわけではない。
聞こえるのは、外の雨樋からまだ落ちている水滴の小さな音だけだった。
*ぽた......*
*ぽた......*
*ぽた......*
蓮は数秒間、天井を見つめた。
それから、もう一度目を閉じる。
「......」
五秒。
十秒。
そして、再び目を開けた。
「ああ」
思い出した。
昨日。
十億円。
奇妙なシステム。
本来ならあり得ないはずの振り込み。
そして――
「......黒瀬アセットマネジメント」
蓮はベッドの端に腰を下ろした。
黒い髪はまだ乱れている。
顔を手で擦る。
「やっぱり夢じゃない」
手を伸ばし、折り畳み式の小さなテーブルの上に置いてあるスマートフォンを取る。
画面が点灯した。
黒い背景に金色のダイヤモンド。
昨日現れた、見覚えのないアイコンはまだそこにあった。
変わっていない。
消えてもいない。
削除することもできない。
蓮はそれを見つめた。
「おはよう」
返事はない。
「......俺、アプリに話しかけてるな」
蓮はため息をついた。
そして、そのアイコンを押す。
画面が切り替わった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《絶対資産支配システム》**
**使用者:** 黒瀬 蓮
**年齢:** 21歳
**純資産:** 10億円
**物質欲求:** 3%
**生活平穏度:** 97%
**無欲状態:** 有効
**無欲倍率:** ×12
**状態:** 稼働中
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮はその数字を見つめた。
「......×12」
眉をひそめる。
昨日は十だった。
今は十二。
「なんで上がってる?」
画面が切り替わる。
**《使用者は初回報酬を受け取った後も、物質欲求のない状態を維持しています》**
蓮はその文章を読む。
「つまり、俺が何もしなかったから?」
**《その通りです》**
「俺、寝ただけだけど」
**《その通りです》**
「寝ると倍率が上がるのか?」
**《睡眠そのものが倍率を上昇させたわけではありません》**
「じゃあ?」
**《使用者が報酬による行動変化を示さなかったためです》**
蓮は黙った。
「......普通に生活してれば、倍率が上がる?」
**《その通りです》**
蓮は画面を見つめる。
「問題だな」
**《問題は確認されていません》**
「俺にとっては問題」
**《使用者の意見を記録しました》**
蓮はアプリを閉じた。
「もういい」
そして、モバイルバンキングのアプリを開く。
暗証コードを入力する。
待つ。
数秒後、残高が表示された。
**10億円**
蓮は動かなかった。
一度ログアウトする。
もう一度ログインする。
残高は同じ。
入出金明細を確認する。
昨日の入金記録も残っている。
取り消されていない。
引き戻されてもいない。
消えてもいない。
蓮はしばらく画面を見つめた。
「......本物か」
スマートフォンを置く。
そして立ち上がった。
「よし」
蓮は小さなキッチンへ向かった。
「それなら、一つだけ確認しておかないとな」
電気ケトルのスイッチを入れる。
カチッ。
表示ランプが点灯した。
蓮は、取っ手をテープで補修した白いマグカップを取る。
インスタントコーヒーを入れる。
湯が沸くのを待ちながら、頭の中では考え続けていた。
十億円。
何もないところから現れるはずがない。
本物の金なら、必ず出所がある。
銀行なら確認できるはずだ。
もし銀行にも説明できないのなら――
問題はもっと大きい。
ケトルが鳴った。
蓮は熱湯を注ぐ。
コーヒーの香りが部屋に広がった。
一口飲む。
「苦い」
昨日と同じ味だった。
蓮は窓の外を見る。
雨上がりの朝空は、晴れていた。
近所の住人が洗濯物を干している。
道路を自転車が走っていく。
何もかも普通だった。
蓮はもう一度コーヒーを飲む。
「少なくとも、世界は変わってない」
マグカップを置く。
「銀行に行くか」
―――
午前7時30分。
黒瀬アパート――東京都練馬区。
蓮は白いシャツに、シンプルな黒の薄手ジャケット、暗い色の長ズボン、そしてかなり長く履いている靴を身につけた。
財布をポケットに入れる。
スマートフォンを確認する。
そして玄関の前で立ち止まった。
「......待て」
蓮は部屋へ戻る。
ATMカードを取り出す。
「本当に十億あるなら......」
カードを財布に入れる。
「現物の証拠も必要だ」
玄関を開ける。
そして鍵をかける。
一度。
ドアノブを確認する。
施錠されている。
「よし」
蓮は駅へ向かって歩き出した。
―――
午前8時15分。
練馬駅 → 西武池袋線 → 池袋駅。
朝の東京は、すでに再び人であふれていた。
蓮は電車の中に立っている。
頭上の吊り革につかまる。
目の前のサラリーマンがあくびをする。
二人の大学生が課題について話している。
一人の母親が、小さな子どもの面倒を見ながらスマートフォンを見ている。
車内にいる誰一人として、ドアの近くに立っている二十一歳の青年が、十億円の残高を持っていることなど知らない。
蓮はむしろ、そのことに安心していた。
「このほうがいい」
窓の外を見る。
誰にも知られたくない。
聞かれたくない。
特別扱いされたくない。
そして何より――
生活を変えたくない。
―――
午前8時45分。
東京中央銀行・池袋支店。
蓮は電車を降り、銀行へ向かって歩いた。
五階建ての建物が、大通り沿いに建っている。
ガラス張りの壁が朝の光を反射していた。
蓮は入口の前で一度立ち止まる。
「......」
息を吸う。
そして中へ入った。
冷たい空調の風が、すぐに身体を包む。
入口の近くには警備員が立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
「口座を確認したいんですが」
「左手にある発券機から番号札をお取りください」
「わかりました」
蓮は番号札を取る。
**A-027。**
椅子に座る。
目の前には何人かの客がいる。
中年の女性が書類に記入している。
若い男性がスーツ姿で窓口係と話している。
蓮は順番表示を見る。
A-021。
「あと六人か」
座って待つ。
五分。
十分。
十五分。
番号が次々と進んでいく。
A-025。
A-026。
そして――
**A-027。3番窓口。**
蓮は立ち上がる。
窓口へ向かう。
きちんと髪をまとめた若い女性の窓口係が、職業的な笑顔を浮かべた。
「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「残高を確認したいです」
「かしこまりました」
蓮は身分証明書とATMカードを渡す。
「それと」
蓮が続ける。
「一件、入金された取引について確認したいです」
窓口係が頷く。
「かしこまりました。入金ですね?」
「はい」
「日付や金額など、何かお分かりになりますか?」
蓮は一瞬だけ言葉を止めた。
「十億円です」
窓口係が入力していた指を止めた。
「......申し訳ありません。もう一度よろしいでしょうか?」
「十億円です」
「金額が、十億円でしょうか?」
「はい」
窓口係は引きつった笑顔を浮かべた。
「かしこまりました。少々お待ちください」
再びモニターを見る。
指が動く。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
そして止まった。
表情が変わる。
「......」
蓮はその様子を見る。
「何か問題でも?」
「いいえ、黒瀬様」
窓口係が立ち上がる。
「少々お待ちください」
いくつかの書類を持って奥へ向かった。
蓮は椅子に背を預ける。
「これが嫌だったんだよな」
数分後。
窓口係が戻ってきた。
しかし、今度は一人ではなかった。
その隣には中年の男性がいる。
灰色のスーツ。
濃紺のネクタイ。
こめかみには白髪が混じっている。
細い眼鏡。
胸元の名札には、こう書かれていた。
**中村 誠――支店長**
中村が頭を下げる。
「黒瀬様」
蓮は立ち上がった。
「はい?」
「ご不便をおかけして、申し訳ございません」
「何か問題が?」
「口座そのものには問題ございません」
「では?」
中村は丁寧な笑顔を浮かべる。
「今回の取引金額が非常に大きいため、安全の確認と、お客様のプライバシー保護を兼ねまして」
一度言葉を切る。
「もし差し支えなければ、応接室でお話しさせていただいてもよろしいでしょうか?」
蓮は少し黙った。
「わかりました」
―――
午前8時45分。
東京中央銀行・池袋支店――4階応接室。
その部屋は一階の窓口よりも、はるかに静かだった。
中央には楕円形の木製テーブル。
その周囲には黒い革張りの椅子が並んでいる。
右側には大きな窓があり、池袋の通りを見下ろしていた。
蓮は椅子に座る。
向かい側には中村。
先ほどの窓口係も同席している。
「小林 由美と申します」
彼女が言う。
「先ほど、お客様の口座を担当させていただきました」
「わかりました」
中村がファイルを開く。
「黒瀬様」
「はい」
「先ほどの取引について確認が取れました」
蓮は黙って待つ。
「昨日の19時42分、黒瀬様の個人口座へ十億円の資金が入金されています」
蓮は頷く。
「はい」
「この資金の出所について、お心当たりはございますか?」
「ありません」
中村が一瞬止まる。
「ありませんか?」
「はい」
「どなたかから、この金額を受け取る予定などは?」
「ありません」
「最近、何か資産を売却されたことは?」
「ありません」
「相続でしょうか?」
「違います」
「賞与などでは?」
「違います」
「事業上の支払いでは?」
「違います」
中村は蓮を見る。
「なるほど」
ファイルをさらに開く。
「では、こちらで確認できた内容をご説明します」
蓮は頷いた。
「お願いします」
中村が書類を取り出した。
「今回の資金は、黒瀬アセットマネジメントという会社から送金されています」
蓮はその瞬間、黙った。
「......何?」
「黒瀬アセットマネジメントです」
「会社?」
「はい」
蓮は書類を見る。
「その会社は誰のものですか?」
中村は次のページを確認する。
「公的な登録情報によりますと......」
顔を上げる。
「黒瀬様です」
「......」
蓮はすぐには答えなかった。
小林も慎重に蓮の様子を見ている。
中村が続ける。
「その会社は三日前に設立されています」
「三日前?」
「はい」
「所在地は?」
「港区です」
「オフィスの住所は?」
中村が書類を差し出す。
蓮は受け取る。
そこには赤坂の住所が記載されていた。
オフィスビル。
フロア。
区画番号。
すべてが詳細に書かれている。
蓮は顔を上げる。
「俺、その場所に行ったことありません」
中村はすぐには答えなかった。
「ですが、登録上は黒瀬様が代表取締役であり、所有者でもあります」
「俺じゃない」
「書類上では、そうなっております」
蓮は書類の一枚を取る。
そこに記載された名前。
**黒瀬 蓮**
そして――
署名。
蓮はその署名を見つめる。
自分のものだった。
文字の形も同じ。
筆圧も同じ。
最後の文字を書くときに無意識に生じる、小さな癖まで同じだった。
蓮は眉をひそめる。
「俺は、これに署名してない」
中村は頷く。
「その点については、承知しております」
「どうして俺の署名がある?」
「社内でどのような手続きが行われたのかまでは、当行では確認できません」
「審査は?」
「すでに完了しております」
「それで?」
「書類上、すべて有効です」
蓮は黙った。
中村が別の書類を開く。
「また、当該会社には法人名義の口座も開設されております」
蓮は中村を見る。
「資本金はいくらですか?」
「現時点では、十億円です」
「......」
蓮は背もたれに身体を預けた。
つまり、自分の口座に入った十億円は、自分が一度も設立した覚えのない会社から送られてきた。
自分の名前を正式に使っている会社。
しかも、その会社にはすでに銀行口座まで存在している。
蓮は息を吸った。
「その会社、本当に存在するんですか?」
「はい」
「住所は?」
「赤坂で登録されています」
「オフィスはもうある?」
「当行が確認している情報では、ございます」
「従業員は?」
中村が書類を見る。
「当行に提出されている情報では、会社組織そのものがすでに稼働している状態です」
蓮はテーブルを見つめる。
「......」
小林がゆっくりと口を開く。
「黒瀬様......」
蓮が顔を上げる。
「はい?」
「もしかすると、以前に会社設立の書類へ署名されたことをお忘れになっている可能性は......」
「ないです」
「かしこまりました」
「そもそも、俺には会社を作る理由がありません」
中村が頷く。
「ですが、銀行側から確認できる範囲では、すべて正常です」
「マネーロンダリングの疑いは?」
「ございません」
「詐欺は?」
「ございません」
「違法資金は?」
「ございません」
「誤送金は?」
「ございません」
蓮は中村を見る。
「じゃあ銀行から見れば、俺が受け取った十億円は合法なんですか?」
「はい」
「送金元の会社も合法?」
「はい」
「俺が所有者?」
「公的な登録情報上は、はい」
蓮はこめかみを押さえる。
「......面倒くさい」
中村は少しだけ苦笑した。
「申し訳ございません」
「あなたのせいじゃないです」
蓮は再び書類を見る。
「全部の写しをもらえますか?」
「もちろん可能です」
「お願いします」
中村から何枚もの書類を受け取る。
蓮は一枚ずつ確認していく。
定款。
会社情報。
銀行口座。
税務関連書類。
所有構造。
どれも異様なほど整っていた。
整いすぎている。
簡単に「ただの事務処理上のミスだった」と片付けられる隙がない。
蓮はファイルを閉じる。
「ありがとうございました」
中村が立ち上がる。
「さらに詳しい調査をご希望でしょうか?」
蓮は少し考えた。
そして首を横に振る。
「必要ありません」
「黒瀬様?」
「自分で確認します」
中村は少し驚いたようだった。
「かしこまりました」
そして、一言付け加える。
「差し出がましいようですが......」
「何ですか?」
「これほどの資産規模になりますと、専用の銀行サービスをご利用いただいたほうがよろしいかと」
「専用サービス?」
「プライベートバンキングです」
蓮は黙った。
「必要ありません」
中村は笑顔を崩さない。
「承知いたしました。お気持ちが変わりましたら、いつでもご連絡ください」
「わかりました」
蓮は立ち上がる。
「説明、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
蓮は軽く頭を下げ、部屋を出る。
扉が閉まった直後――
廊下で立ち止まった。
「......プライベートバンキングか」
蓮はため息をつく。
「銀行まで俺を見る目が変わり始めてる」
書類をバッグへ入れる。
「俺はただ、残高を確認したかっただけなのに」
―――
午前9時30分。
池袋――大学へ向かう道。
蓮は大学へ向かって歩いていた。
朝の街はさらに人が増えている。
人々が足早に歩く。
車がゆっくりと進む。
遠くから店のスピーカーの音が聞こえてくる。
蓮はジャケットのポケットに両手を入れた。
十億円。
黒瀬アセットマネジメント。
正式な会社。
完全な書類。
税務処理も済んでいる。
すべて合法。
「......システム」
その瞬間、スマートフォンが震えた。
**ピン。**
蓮が取り出す。
画面が点灯する。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《絶対法的保護》**
状態:**有効**
すべてのシステム報酬には、
・合法的な資金源
・正式な証明書類
・有効な所有構造
・必要な行政および税務手続きの完了
・報酬に関連する法的問題への保護
が付与されています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は画面を見つめる。
「なるほど。これが答えか」
**《その通りです》**
「銀行は、この金を怪しいとは思わない?」
**《その通りです》**
「税務当局は?」
**《報酬に関連するすべての義務は、適用される規定に従って処理済みです》**
「会社は?」
**《合法です》**
「書類は?」
**《合法です》**
「所有者としての身分は?」
**《合法です》**
蓮はため息をつく。
「......本当に全部用意してあるんだな」
**《その通りです》**
「だったら、俺は何もしなくていい」
**《その通りです》**
蓮はスマートフォンをしまう。
「それならいい」
数歩歩く。
そして、あるカフェの前で立ち止まった。
「......」
時計を見る。
大学の講義までは、まだ時間がある。
蓮は中へ入った。
―――
午前9時45分。
池袋近くのカフェ。
「いらっしゃいませ」
「アメリカーノ」
「通常サイズでよろしいですか?」
「はい」
「380円になります」
蓮は支払う。
窓際の席に座る。
コーヒーが運ばれてくる。
蓮は一口飲む。
そしてスマートフォンを開いた。
システムの画面が再び表示される。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《無欲行動を確認しました》**
使用者は専用銀行サービスを拒否しました。
使用者の物質欲求に上昇は確認されません。
**無欲ボーナス:×15**
**報酬:3億円**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮の動きが止まる。
「......」
もう一度読む。
三億円。
「いや」
画面は消えない。
蓮は画面を指差す。
「俺、プライベートバンキングを断っただけだぞ」
**《その通りです》**
「なんで三億円もらえる?」
**《使用者が必要としていない物質的なサービスを拒否したためです》**
「それが無欲行動になる?」
**《その通りです》**
「それで報酬が三億円?」
**《その通りです》**
蓮は目を閉じる。
「......だんだん分かってきた」
**《説明してください》**
「俺が金を追いかければ、報酬は下がる可能性がある」
**《その通りです》**
「俺が追いかけなければ......」
**《報酬は増加します》**
「普通に生活しようとすると......」
**《報酬は増加します》**
蓮は目を開ける。
「つまり、このシステムは金を欲しがらないことで、俺をもっと金持ちにしようとしてるわけだ」
**《その解釈で問題ありません》**
蓮は画面を見つめる。
「笑えないな」
**《システムに冗談を言う意図はありません》**
「分かってる」
画面が再び切り替わる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**純資産:13億円**
**物質欲求:2%**
**生活平穏度:98%**
**無欲倍率:×15**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮はその数字を見る。
昨日は十億。
今は十三億。
「......やばいな」
コーヒーを一口飲む。
そして窓の外を見る。
人々は歩いている。
一人の男性が青信号に間に合わせようと走っている。
一人の女性が買い物袋を持っている。
大学生が友人と笑っている。
何も変わっていない。
変わったのは、蓮の口座残高だけだった。
「このまま続いたら......」
顎に手を当てる。
「......何もする気がないのに、一番金持ちの人間になりそうだな」
スマートフォンが鳴る。
**ピン。**
蓮はすぐに画面を見る。
「まさか......」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《報酬を受け取りました》**
**3億円が追加されました。**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は顔を覆った。
「もう勘弁してくれ......」
―――
午前10時15分。
経済学部棟――302教室。
蓮は十五分遅れて教室へ入った。
講師は量的緩和について説明しているところだった。
蓮は静かに扉を開ける。
「失礼します」
何人かの学生が振り返る。
講師が時計を見る。
「黒瀬くん」
「すみません」
「座りなさい」
「ありがとうございます」
蓮は自分の席へ向かう。
隣に座る田中が、すぐに小声で話しかけてきた。
「どこ行ってた?」
「銀行」
田中が眉をひそめる。
「また?」
「ああ」
「何かあった?」
「口座のこと」
「問題?」
「ない」
田中は蓮を見る。
「本当に?」
「本当」
「なんか幽霊でも見たみたいな顔してるけど」
蓮は席に座る。
「もっとひどい」
「何が?」
「残高」
田中が小さく笑う。
「残高がどうした?」
「何でもない」
「じゃあ、なんで?」
蓮はノートを開く。
「もういい。先生の話を聞け」
田中は肩をすくめる。
「はいはい」
講師が再び説明を続ける。
蓮は集中しようとした。
しかし、頭の中には先ほどの会社の名前が戻ってくる。
**黒瀬アセットマネジメント。**
蓮はその名前をノートの隅に小さく書いた。
そして、その下に一言。
**なぜ俺なんだ?**
その文字を見つめる。
そして線を引いて消した。
考えても仕方がない。
答えは、もう分かっている。
システムだ。
―――
午後12時30分。
大学の食堂。
「蓮」
「ん?」
田中が向かい側に座る。
「今日のお前、なんか変だぞ」
「いつも変だろ」
「そういう意味じゃない。もっと変」
蓮は食事を始める。
「何が違う?」
「いつもより静か」
「俺は元々静かだ」
「今日はさらに静か」
蓮はため息をつく。
「寝不足」
田中が蓮を見る。
「体調悪いのか?」
「違う」
「家族のこと?」
「違う」
「金のこと?」
蓮の手が止まった。
田中はそれに気づく。
「どうした?」
「何でもない」
「ただ聞いただけだぞ」
「大丈夫だ」
田中は頷く。
「ならよかった」
蓮は再び食事を続ける。
数秒後。
田中が尋ねた。
「そういやさ、もし突然大金が入ったら、お前どうする?」
蓮は田中を見る。
「なんでまたそれを聞く?」
「ちょっと気になって」
「分からない」
「家を買う?」
「必要ない」
「車は?」
「必要ない」
「旅行は?」
「たぶん」
「高級時計は?」
「いらない」
「投資は?」
蓮は黙った。
田中が目を細める。
「なんで黙る?」
「今の質問は、少し真面目だから」
「で?」
「分からない」
田中は肩をすくめる。
「俺だったら一億あったら、人生変わるけどな」
蓮は自分の食事を見る。
「俺は、それを望んでない」
「なんで?」
「生活が変わりすぎたら......」
蓮は一度言葉を止める。
「......必ずしも良くなるとは限らないから」
田中は黙った。
それから笑う。
「たまにお前の考え方、五十歳くらいに見えるんだよな」
「ありがとう」
「褒めてない」
「知ってる」
―――
午後3時。
池袋駅近くのカフェ。
講義が終わった後、蓮はすぐには帰らなかった。
小さなカフェへ入る。
店内は比較的静かだった。
木製の椅子。
小さなテーブル。
暖色の照明。
店の隅では、一人の老人が新聞を読んでいる。
窓際では、二人の大学生が勉強している。
蓮は一番奥の席を選んだ。
「ブレンドコーヒー」
「かしこまりました」
支払う。
六百円。
蓮は眉をひそめた。
「ちょっと高いな」
それでも席に座る。
数分後、コーヒーが運ばれてきた。
蓮は一口飲む。
そしてシステムのアプリを開く。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《絶対資産支配システム》**
**純資産:13億円**
**物質欲求:2%**
**生活平穏度:98%**
**無欲倍率:×18**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は倍率を見る。
「......昨日は×15だったな」
**《その通りです》**
「今は×18」
**《その通りです》**
「なんで?」
**《使用者が過度な物質的行動を示していないためです》**
「大学に行った」
**《その通りです》**
「飯を食った」
**《その通りです》**
「コーヒーを飲んだ」
**《その通りです》**
「帰る」
**《その通りです》**
「それで?」
**《無欲状態が安定しています》**
蓮は画面を見つめる。
「......このシステム、本当に普通に生活してるだけで報酬をくれるんだな」
**《その通りです》**
蓮は背もたれに身体を預ける。
「だったら、何も追いかけなくていい」
**《その通りです》**
「投資も必要ない?」
**《必要ありません》**
「買い物も必要ない?」
**《必要ありません》**
「金を稼ぐ必要もない?」
**《必要ありません》**
蓮は小さく笑った。
「それならいい」
画面が再び切り替わる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《システム記録》**
使用者が無欲状態を維持している間、
**報酬は自動的に調整されます。**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は画面を消す。
「分かった」
コーヒーを飲み終える。
そして立ち上がる。
これ以上考える理由はない。
帰る。
いつも通りに。
―――
午後5時45分。
池袋駅 → 練馬駅。
夕方がゆっくりと降りてくる。
空がオレンジ色に変わっていた。
蓮は電車の中に立っている。
スマートフォンはポケットの中。
取り出さない。
システムも見ない。
残高も見ない。
金のことも考えない。
「ないことにしよう」
窓に映った自分の顔を見る。
「俺は俺だ」
電車が走る。
駅を一つ、また一つと通り過ぎる。
やがて練馬に到着した。
蓮は電車を降りる。
いつもの道を歩く。
同じコンビニ。
同じ小さな店。
同じアパート。
何も変わっていない。
それがいい。
蓮は自分の部屋のドアを開ける。
「ただいま」
バッグを置く。
靴を脱ぐ。
そして照明をつける。
小さな部屋は、やはり居心地がよかった。
折り畳み式のテーブル。
ベッド。
古いノートパソコン。
本棚。
ひびの入ったマグカップ。
何も変わっていない。
蓮は微笑む。
「こっちのほうがいい」
―――
午後7時。
黒瀬アパート――東京都練馬区。
蓮は床に座っている。
ノートパソコンの電源が入っている。
再び北海道のドキュメンタリーを流している。
テーブルには緑茶。
外では、また雨が降り始めた。
*ぽた......*
*ぽた......*
*ぽた......*
蓮はノートパソコンの画面を見る。
「静かだ」
緑茶を一口飲む。
「何も問題ない」
**ピン。**
蓮の動きが止まる。
スマートフォンを見る。
「......やめろ」
手を伸ばして取る。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《無欲行動を確認しました》**
使用者は、
・衝動的な買い物をしていません。
・生活水準を変更していません。
・社会的地位を高めようとする欲求を示していません。
・通常の生活習慣を維持しています。
**無欲ボーナス:×20**
**報酬:5億円**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は画面を見つめる。
長い間。
本当に長い間。
「......五億」
スマートフォンを置く。
そして、もう一度取る。
再び読む。
「五億......」
**《その通りです》**
「俺、ただ座ってただけだぞ」
**《その通りです》**
「お茶を飲んだ」
**《その通りです》**
「ドキュメンタリーを見てた」
**《その通りです》**
「それで五億?」
**《その通りです》**
蓮は天井を見つめる。
「......俺、このシステム嫌いだ」
**《使用者の意見を記録しました》**
「なんでお前はいつもそういう返事なんだ?」
**《それが適切な応答だからです》**
蓮はため息をつく。
画面が切り替わる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**純資産:18億円**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮はその数字を見る。
18億。
二日も経たないうちに。
しかも、まだ高い買い物など一つもしていない。
スマートフォンも買い替えていない。
車も買っていない。
服も買っていない。
投資もしていない。
何もしていない。
そして、それこそがシステムをさらに活性化させている。
蓮は髪を掻く。
「このまま続いたら......」
そこで言葉を止める。
「......考えるな」
アプリを閉じる。
今度こそ、本当に無視するつもりだった。
しかし数秒後――
**ピン。**
蓮が振り向く。
「......今度は何だ?」
スマートフォンを取る。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
### 《次回報酬条件》
使用者の無欲状態は安定しています。
システムは以下の不一致を検知しました。
**使用者の生活環境**
と
**使用者の資産規模**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮はその文章を読む。
「不一致?」
**《その通りです》**
「俺の生活環境がどうした?」
**《現在の居住環境は、すでに最適ではありません》**
蓮は部屋を見回す。
狭い壁。
小さなキッチン。
小さなテーブル。
ベッド。
「俺には十分だけど」
**《使用者の意見を受け付けました》**
「なら終わりだ」
**《いいえ》**
蓮は眉をひそめる。
「なんで?」
画面が切り替わる。
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### 《報酬:居住環境》
システムは使用者の生活環境の向上を提案します。
**選択肢:**
**01――港区の高級マンション**
静かな環境。
交通アクセスが非常に良い。
高い安全性。
充実した設備。
**02――世田谷区の住宅街にある一戸建て**
プライベート性の高い環境。
緑の多い地域。
より広い居住空間。
長期的な生活に適している。
**03――渋谷の高級マンション**
利便性の高い立地。
上質な設備。
高い安全性と充実したサービス。
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蓮は三つの選択肢を見つめる。
そして自分の部屋を見る。
それから、もう一度画面を見る。
「......いらない」
**《選択してください》**
「必要ない」
**《報酬が利用可能です》**
「いらない」
**《報酬が利用可能です》**
「だから、いらないって」
**《拒否することも可能です》**
蓮は黙った。
「じゃあ、拒否できるのか?」
**《その通りです》**
「それならいい」
戻るボタンを押そうとする。
しかし、画面が切り替わった。
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**警告:**
報酬を拒否しても、ペナルティは発生しません。
ただし、使用者の生活環境については、今後も継続して評価されます。
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蓮はその文章を読む。
「つまり、無理やりってわけじゃない」
**《その通りです》**
「それならいい」
スマートフォンをロックする。
テーブルの上に置く。
そして再びドキュメンタリーを見る。
「見なかったことにしよう」
数分が過ぎた。
蓮は少しずつ落ち着いてきた。
居住環境の選択肢についても、ほとんど忘れかけていた。
そのとき――
**ピン。**
蓮が目を開ける。
「......」
スマートフォンが勝手に点灯した。
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**《居住環境報酬の準備が完了しました》**
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蓮は身体を起こす。
「俺、まだ選んでないぞ」
**《その通りです》**
「じゃあ?」
**《システムが選択肢を準備しただけです》**
「準備するな」
**《不可能です》**
「なんで?」
**《使用者が条件を満たしているためです》**
蓮は画面を見つめる。
そしてため息をつく。
「つまり、俺が何も気にしなければ気にしないほど......」
**《報酬は増加します》**
「......面倒くさい」
**《使用者の意見を記録しました》**
蓮はベッドへ身体を倒した。
天井を見つめる。
18億円。
自分名義の会社。
専用銀行サービス。
3億円の報酬。
5億円の報酬。
そして今度は、新しい住居。
すべてが自分のもとへやってくる。
求めていないのに。
探していないのに。
追いかけてもいないのに。
だからこそ、すべてを避けることが、少しずつ難しくなっていた。
蓮は目を閉じる。
「明日も大学」
**《その通りです》**
「電車にも乗る」
**《その通りです》**
「食堂で飯を食う」
**《その通りです》**
「ここに帰ってくる」
**《その通りです》**
蓮は目を開ける。
「それと、もう何も与えるな」
システムは数秒間、沈黙した。
そして一行が表示された。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《使用者の要求について、保証することはできません》**
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蓮はそれを見つめる。
「......分かってるよ」
スマートフォンの電源を切る。
部屋の照明を少し落とす。
外では再び雨が降っている。
蓮は布団を引き上げた。
十億円を手にしてから二日目。
本来なら、普通の日になるはずだった。
しかし今、彼の口座には**18億円**が入っている。
自分の名前で正式に設立された会社がある。
削除することのできないシステムが、次々と報酬を与えてくる。
そして何より厄介なのは――
そのシステムが、蓮がこれまで気に入っていた小さなアパートさえ、改善すべきものだと判断し始めたことだった。
蓮はもう一度、天井を見る。
「新しい家か......」
ため息をつく。
「必要ない」
目を閉じる。
そして、小さく笑った。
「......でも、本当に静かな場所なら......」
そこで止まる。
自分が、報酬を受け取る可能性を考えたことに気づいた。
「いや」
布団をさらに肩まで引き上げる。
「何も見なかったことにしよう」
隣に置いたスマートフォンが、再び点灯する。
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**《使用者状態》**
**無欲状態:有効**
**無欲倍率:×20**
**純資産:18億円**
**次回報酬:環境資産**
**状態:使用者の決定待ち**
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蓮はそれを見なかった。
少なくとも――
本人は、そう自分に言い聞かせていた。
―――
【次話 3――「家はいらない。......いや、静かな部屋なら欲しい」】
(「Aku Tidak Butuh Rumah. ...Yah, Kalau Kamar yang Tenang, Aku Mau」)
蓮は新しい住居という報酬を拒否しようとする。
しかし、システムは彼に高級マンションや大きな家を無理やり選ばせるわけではなかった。
その代わりに、蓮の望む生活により適した選択肢――静かな環境と充実した設備を備えた港区の高級マンションが現れる。
問題は一つだけ。
蓮がその場所へ到着すると、システムは住居だけを用意していたわけではないことに気づく。
リビングルームのテーブルの上には、一つの鍵が置かれていた。
そして、その鍵の隣には――
新しい通知が待っていた。
**《追加報酬が利用可能です》**
蓮はその鍵を見つめる。
「......まさか、車じゃないだろうな」
**《その通りです》**
「......」
システムを手にしてから初めて、蓮は本気で考え始める。
このまま静かな生活を維持することは、本当に可能なのか。
【次話へ続く......】