

第1話「別に、金なんていらない」
第1話「別に、金なんていらない」
――俺が欲しかったのは、金じゃない
―――
月曜日、07:10
黒瀬アパート――東京・練馬
朝の日差しが、カーテンの隙間から差し込んでくる。
優しく、ではない。
まるで誰かが勝手に人の部屋のカーテンを開けて、「もう朝なんだから、いつまでも寝てる理由なんてないだろ」と言っているかのような、容赦のない光だった。
金色の光の筋がフローリングの床を横切り、折りたたみテーブルの脚に当たり、衣装棚の側面を照らし、そのまま布団の中で丸くなっている一人の青年の顔へと差し込んでいた。
青年は動かなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
やがて、布団の中から小さな声が漏れる。
「......五分」
返事はない。
当然だ。
壁掛け時計には、まだ眠たい人間を気遣うような慈悲など存在しない。
短針はすでに七を過ぎている。
長針は二へ近づいている。
**07:12。**
黒瀬蓮は目を開けた。
視線は虚ろだった。
白いアパートの天井を数秒間見つめる。
まるで、なぜ今朝起きなければならないのか、その理由を思い出そうとしているかのように。
大学。
そうだ。
月曜日。
午前九時からマクロ経済学の講義がある。
蓮は長く息を吐いた。
「......起きないとな」
自分自身に言い聞かせたものの、身体はすぐには言うことを聞かなかった。
布団から手を出す。
ベッドの脇を手探りする。
スマートフォンを探す。
見つける。
画面が点灯した。
07:12。
目覚ましはまだ鳴っていない。
蓮は黙った。
「......アラームより先に起きた」
そこには、ほんの少しだけ誇らしげな気持ちがあった。
ほんの少しだけ。
蓮は画面を消すと、そのまま再び枕へ頭を落とした。
五秒後――
「......」
再び目を開ける。
「これ、罠だろ」
蓮はようやく起き上がった。
黒い髪はあちこちに跳ね、何本かの髪が目元にまで垂れ下がっている。
顔にはまだ眠気が残っていた。
色の少し褪せたグレーのTシャツ。
黒いトレーニングパンツ。
そして、なぜか片方しか履いていない靴下。
蓮はその靴下を見た。
続いて、もう片方の足を見る。
「......もう一方、どこだ?」
その問いに答える者はいない。
蓮は肩をすくめた。
どうでもいい。
ベッドから降りる。
床が冷たい。
「うわ......」
蓮が暮らしているアパートは、決して豪華と呼べるような場所ではない。
広さは約二十五平方メートル。
メインとなる一つの部屋。
ダイニングと一体になった小さなキッチン。
浴室。
トイレ。
それほど大きくない衣装棚。
そして、勉強する場所であり、食事をする場所であり、ノートパソコンで作業する場所でもあり、置き場所の分からない物まで置かれている折りたたみテーブルが一つ。
部屋の隅には、本棚が一つある。
中身はそれほど多くない。
経済学の本が数冊。
ミステリー小説が数冊。
日本史についての本が数冊。
そして、百円か二百円だったからという理由だけで買った中古本が一、二冊。
窓の近くには、三か月前に蓮が買った小さな植物が置かれている。
その植物は、まだ生きている。
どうしてなのか、蓮自身にも分からない。
蓮は植物の世話が得意な人間ではない。
おそらくその植物は、持ち主にあまり気にかけてもらえなくても生き延びられるほど、十分に強かったのだろう。
蓮はキッチンへ向かった。
電気ケトルのスイッチを入れる。
カチッ。
ランプが点灯する。
棚を開ける。
インスタントコーヒーを取り出す。
スプーン一杯。
お湯。
白いマグカップ。
そのマグカップは、正直なところ、もう「綺麗」と呼べる代物ではない。
持ち手にはひびが入っていて、数か月前には一度折れてしまった。
蓮はそれをテープで補修した。
まだ使える。
なら、新しいものを買う必要はない。
シンプル。
実用的。
それで十分だった。
お湯が沸くのを待ちながら、蓮はスマートフォンを手に取った。
LINEの通知が大量に溜まっている。
蓮はクラスのグループを開いた。
**【Bクラス・グループ】**
**田中:**
「みんな、マクロ経済学の課題って水曜提出だよな?」
**鈴木:**
「うん」
**田中:**
「もうやった?」
**鈴木:**
「まだ」
**田中:**
「俺もまだ」
**鈴木:**
「www」
**田中:**
「蓮は絶対もう終わってるだろ」
蓮の指が止まった。
「なんで俺なんだよ」
数秒後、新しい通知が入る。
**田中:**
「蓮?」
蓮はLINEを閉じた。
「無理」
ケトルが鳴った。
蓮は熱湯をマグカップへ注ぐ。
インスタントコーヒー。
スプーン一杯。
少しだけ砂糖。
特別なものは何もない。
蓮はマグカップを持って窓際へ向かった。
カーテンを開ける。
東京が、淡い青空とともに彼を迎えていた。
道路からは、車の走る音が少しずつ聞こえ始めている。
一台のゴミ収集車が通り過ぎる。
何羽かのスズメが電線に止まっている。
向かいの建物のベランダでは、一人の女性が洗濯物を干していた。
蓮はコーヒーを一口飲んだ。
苦い。
マグカップを見る。
「まあまあだな」
蓮の人生は、そんなものだった。
まあまあ。
完璧ではない。
悪くもない。
本当に特別な何かがあるわけでもない。
そして、蓮はその状態を気に入っていた。
彼には、なぜ人々があそこまで金に執着するのか、昔からよく分からなかった。
幼い頃から、蓮は大人たちが疲れ果てるまで働き、それでもさらに多くの金を得ようとしている姿を見てきた。
金が増えれば、もっと大きな家。
もっと高い車。
もっと高価な腕時計。
もっと高級なレストラン。
だが、その先にあるものは?
結局、働き続けなければならない。
結局、何かを考え続けなければならない。
結局、何かを追い続けなければならない。
蓮は興味がなかった。
ただ静かに暮らしたい。
住む場所がある。
食べ物がある。
大学へ行く。
本を読む。
少しだけ自由な時間がある。
できるなら、ときどき何の予定も決めずに旅をする。
それだけでいい。
特別な人生なんて必要ない。
「このまま、こういう生活が続くなら......」
蓮は空を見上げた。
「......それで十分だ」
―――
### 08:30
### 練馬駅 → 西武池袋線 → 池袋
蓮は黒いシンプルなバッグを持ってアパートを出た。
鍵をかける。
一度確認する。
それから歩き出した。
一階で、隣の部屋に住む住人とすれ違った。
「おはよう」
「おはよう」
隣に住む年配の男性が頷く。
「大学か?」
「はい」
「真面目だなぁ」
「そうでもないです」
年配の男性は笑った。
「今どきの若者は、もっと元気がないとな」
蓮は薄く笑った。
「そうですね」
そのまま歩き続ける。
十月初旬の空気は、ほどよく涼しかった。
木々の葉も、少しずつ色を変え始めている。
蓮は、コンビニの前を通り過ぎようとした。
そこで足を止める。
店内を見る。
それから時計を見る。
08:34。
「必要ないな」
朝食はすでに済ませている。
コンビニに入れば、本当は必要のないものまで買ってしまうだけだ。
だから、そのまま歩き続けた。
駅に着くと、辺りは一気に騒がしくなっていた。
構内放送がスピーカーから流れている。
「まもなく、池袋行きの電車が到着いたします......」
蓮は中年のサラリーマンの後ろに立った。
男は片手にビジネスバッグを持っている。
顔には疲労が浮かんでいた。
まだ一日が始まったばかりだというのに。
蓮は一瞬だけ男を見た。
そして視線を逸らす。
電車が到着した。
ドアが開く。
全員が乗り込む。
蓮も乗り込んだ。
ドアの近くに立つ。
隣にいる大学生が、友人と話していた。
「なあ、授業終わったら飯行く?」
「いいよ」
「ラーメン?」
「やめよう。昨日ラーメン食った」
「じゃあ?」
「さあ」
蓮は小さく息を吐いた。
こういう会話は、どこにでもある。
大した意味はない。
けれど、だからこそ普通に感じられる。
そして蓮は、そういう普通が好きだった。
窓の外では、東京の建物が後ろへ流れていく。
すべてが、いつも通りに進んでいる。
電車。
大学。
課題。
食事。
帰宅。
睡眠。
そして、翌日もまた繰り返す。
何の驚きもない。
何のドラマもない。
人生を変えるような出来事もない。
少なくとも、このときの蓮はそう思っていた。
―――
### 09:00
### 経済学部棟――302教室
「蓮!」
教室のドアを開けた瞬間、手が一つ上がった。
田中浩平。
茶色い髪は、まるで手で適当に撫でつけただけのように見える。
「こっち!」
蓮は近づいていく。
「おはよう」
「おはようじゃねえよ。三分遅刻」
「まだ朝だろ」
「お前の時間の感覚、どうなってんだよ」
蓮は席に座った。
田中も隣に座る。
「課題やった?」
「まだ」
田中が黙った。
「マジで?」
「うん」
「うわ」
「何?」
「蓮なら『もう終わった』って言うと思ってた」
「なんで?」
「だって蓮だろ」
蓮は田中を見る。
「俺の名前、課題が終わってることの同義語じゃないぞ」
田中は笑った。
「それもそうか」
ノートパソコンを開く。
「じゃあ、あとで一緒にやろうぜ」
「いいよ」
「カフェで?」
「図書館」
「カフェのほうがいいだろ」
「高い」
「数百円しか違わないだろ」
「数百円でも金は金だ」
田中は蓮を見る。
「お前さ......」
「何?」
「少しずつ俺のじいちゃんに似てきてない?」
蓮はノートを開いた。
講師が入ってくる。
授業が始まった。
それからほぼ二時間、教室はインフレーション、金融政策、金利、そして消費と投資の関係についての説明で満たされた。
蓮は重要なポイントだけをノートに書き留めていく。
量は多くない。
すべてを書く必要はない。
田中は時々、蓮のノートを覗き込んだ。
「蓮」
「ん?」
「これ、どういう意味?」
「どれ?」
「ここ」
蓮は田中のノートを見る。
「乗数効果の理解を間違えてる」
「マジ?」
「うん」
「じゃあ?」
「最初の支出が増えたからといって、その影響が最初の取引だけで終わるわけじゃない。消費を通じて、その後にも連鎖的な効果が生まれる」
田中は頭を掻いた。
「半分くらい分かった」
「ゼロよりはマシだろ」
「あとで説明してくれる?」
「いいよ」
「カフェで?」
「図書館」
「なんでそんなにカフェ嫌なんだよ」
「嫌いじゃない」
「じゃあ?」
「座るだけのために高く払いたくないだけ」
田中は笑った。
「お前、本当に変わってるな」
蓮は再び黒板を見る。
「もう何度も聞いた」
数分後、田中が突然、小さな声で尋ねた。
「蓮」
「何?」
「バイトとか考えたことある?」
「ある」
「で?」
「やめた」
「なんで?」
「必要ないから」
田中が蓮を見る。
「お前、経済学部三年だろ。そろそろ就職のこと考えないとだぞ」
「そのうち考える」
「目標とかないの?」
「ある」
「何?」
蓮のペンが止まった。
「平穏」
田中が瞬きをする。
「は?」
「穏やかに生きること」
「それ、仕事じゃないだろ」
「俺にとっては目標だ」
田中はしばらく蓮の顔を見つめた。
「お前、本当に金持ちになりたいとか思わないの?」
「あんまり」
「じゃあ、今ここで一億円もらったら?」
蓮が振り向く。
「一億?」
「そう」
「何に使うんだ?」
田中がすぐに蓮を指差した。
「ほら! それだよ! お前、いつもそういう答えなんだよ!」
蓮は眉を上げる。
「別に間違ってないだろ」
「普通の人間なら、一億もらったら絶対欲しいって言うだろ」
「一億あったら、そのあとどうする?」
「家を買う」
「なんで?」
「家を持つためだろ」
「俺、もう住む場所あるけど」
「車」
「電車で十分」
「旅行」
「もっと少ない金でも旅行できる」
「高級レストラン」
「カツカレーで腹はいっぱいになる」
田中は、まるで珍しい生き物でも見つけたかのような顔をした。
「お前、本当に欲がないな」
蓮は少し考えた。
「ある」
「何?」
「ちゃんと寝ること」
田中は両手で顔を覆った。
「もういい。俺、諦めた」
蓮は小さく笑った。
「それがいい」
講師が振り返る。
「田中くん」
田中はすぐに姿勢を正した。
「はい!」
「話し終わったのなら、前を向いてください」
「すみません!」
蓮は笑いを堪えた。
―――
### 12:15
### 大学食堂
「蓮! こっち!」
田中がまた呼んでいる。
蓮はトレーを持ち上げた。
「ここでいい」
二人は向かい合って座った。
田中は蓮の食事を見る。
「またカツカレー?」
「うん」
「なんでいつもそれなんだよ」
「安いから」
「お前、本当にブレないな」
蓮は食べ始めた。
隣のテーブルでは、二人の大学生が話している。
「なあ、聞いた?」
「何を?」
「先輩が遺産もらったらしいぞ」
「誰?」
「祖父さんからだって」
「いくら?」
「数億円だって」
「マジかよ」
「それで車買うらしい」
「いいなぁ」
田中も話を聞いていた。
「数億円......」
ため息を吐く。
「俺がそんな金持ってたら......」
蓮はカレーをすくう。
「何する?」
田中はすぐに答えた。
「家」
「なんでみんな家なんだよ」
「家は大事だろ!」
「俺にはアパートで十分だけど」
「車」
「いらない」
「腕時計」
「いらない」
「旅行」
「それは、まあ」
田中が蓮を指差す。
「ほら! ついに一個出た!」
蓮は頷いた。
「本当に行きたい場所があるならな」
「どこ?」
「まだ分からない」
「お前、夢リストとか作ったことないの?」
「ない」
「なんで?」
蓮はスプーンを置いた。
「欲しいものが少なければ、失望することも少ないから」
田中は黙った。
「うわ」
「何?」
「たまにお前の言うこと、五十歳くらいのおっさんみたいに聞こえる」
「ありがとう」
「褒めてねえよ」
「褒め言葉として受け取っておく」
田中は笑った。
食事を終えると、蓮は図書館へ向かった。
窓際の席を選ぶ。
読んでいる本は経済学とは関係がない。
ミステリー小説だ。
蓮は物語が好きだった。
謎を解きたいからではない。
読んでいる間だけは、自分自身の生活について考えずに済むからだ。
二時間が過ぎた。
さらに一時間。
本を閉じたとき、時計は16:20を示していた。
「もう夕方か」
蓮は本を返却する。
そして帰宅した。
―――
### 16:40
### 練馬駅
空は少しずつオレンジ色に染まり始めていた。
蓮はアパートへ向かう細い道を歩く。
朝、通り過ぎたコンビニの前で足を止めた。
今度は中へ入る。
「こんばんは」
中年の女性店員が頷く。
「こんばんは」
蓮は牛乳を取る。
パン。
卵。
ツナマヨのおにぎり。
数秒間、棚の前に立つ。
そして、ペットボトルの緑茶を手に取った。
「合計612円です」
蓮は金を渡す。
「ありがとうございます」
「ありがとうございました」
店を出る。
夕方の風が顔に触れた。
前方では、一人の子どもが猫を追いかけて走っている。
「待ってー!」
猫は逃げていく。
子どもは追い続ける。
蓮はしばらく立ち止まった。
「......」
薄く笑う。
そして再び歩き出した。
シンプルな生活。
いつも通り。
そして蓮にとって、それで十分だった。
―――
### 19:30
### 黒瀬アパート――東京・練馬
雨が降っていた。
蓮は床に座り、ベッドに背中を預けている。
古いノートパソコンが折りたたみテーブルの上に置かれている。
購入してから、もうすぐ五年になる。
それでも、まだ動いている。
画面では、北海道の田舎についてのドキュメンタリーが流れていた。
「こういうところに住むのも......」
蓮は画面を見る。
「......悪くないかもな」
緑茶を一口飲む。
外から雨音が聞こえる。
静かだ。
心地いい。
重要なメッセージはない。
電話もない。
仕事もない。
蓮は頭を預ける。
「こういうほうがいい」
そのとき――
**ピン。**
蓮が片目を開けた。
「......」
スマートフォンが点灯している。
見覚えのないアイコンが画面に現れていた。
金色のダイヤモンド。
黒い背景。
蓮は眉をひそめた。
「なんだ、これ?」
スマートフォンを手に取る。
アイコンを押す。
画面が切り替わった。
白い文字が表示される。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《絶対資産支配システム》**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**ユーザーの適格条件を確認しています。**
**主要パラメータ:物質的欲求レベル。**
**低い欲求を報酬へ変換します。**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は読む。
一度。
二度。
そして言った。
「マルウェア?」
アプリを閉じようとする。
閉じられない。
「......」
戻るボタンを押してみる。
反応しない。
設定を開く。
アプリ一覧を探す。
存在しない。
「ありえないだろ」
バッテリー使用量から探す。
ない。
ストレージ。
ない。
インストール済みアプリ。
ない。
蓮はホーム画面へ戻る。
アイコンはまだそこにある。
「......」
しばらく見つめる。
「面倒くさいな」
もう一度アイコンを押す。
画面が切り替わった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《適格性確認》**
名前:黒瀬 蓮
年齢:21歳
純資産:¥0
物質的欲求:3%
生活の平穏:97%
**システム適格性:高**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は数字を見る。
「物質的欲求、三パーセント?」
小さく笑う。
「少なくとも、このシステムは変なプロフィールを作るのが得意らしい」
画面が切り替わる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《最初の質問》**
**あなたは富を望みますか?**
【はい】
【いいえ】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮はため息を吐く。
「『いいえ』を押したら、どうなるんだ?」
返事はない。
こめかみを揉む。
「分かった」
蓮は【いいえ】を押した。
画面が点滅する。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**回答を受理しました。**
**無欲状態を検証しています......**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
数秒。
そして――
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**《無欲状態を確認しました》**
Wantless Condition:**ACTIVE**
Reward Multiplier:**×10**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は眉をひそめる。
「Reward?」
次の画面が表示された。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
### **FIRST REWARD**
**Cash Reward**
金額:
# **¥1,000,000,000**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は黙った。
五秒。
十秒。
そして言った。
「......いや」
画面は変わらない。
「これは、さすがに分かりやすすぎるだろ」
スマートフォンを置く。
立ち上がる。
水を取りに行く。
飲む。
戻ってくる。
スマートフォンは、同じ場所に置かれたままだ。
蓮はそれを手に取る。
一十億円という数字は、まだ表示されている。
「......マジか?」
画面が切り替わる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**報酬を処理します。**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「いや、いらない」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**処理が完了しました。**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮はすぐにモバイルバンキングを開いた。
ログイン。
暗証コードを入力。
待つ。
残高が表示される。
蓮の動きが止まった。
**¥1,000,000,000**
瞬きをする。
ログアウト。
もう一度ログインする。
同じ残高。
取引履歴を確認する。
入金がある。
金額も同じ。
蓮は画面を見つめる。
「......」
ゆっくりと手を下ろす。
「これ、ドッキリじゃないのか」
蓮は座った。
そして、また立ち上がった。
ノートパソコンを開く。
銀行の公式サイトから口座を確認する。
残高は同じ。
再び座る。
「どうやって......?」
返事はない。
スマートフォンを見る。
「システム」
画面が点灯した。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
**はい、ユーザー。**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は黙った。
「返事できるのか?」
**【はい】**
「お前を作ったのは誰だ?」
**【システムの利用に、その情報は必要ありません】**
蓮は眉をひそめる。
「つまり、謎ってことか?」
**【いいえ】**
「は?」
**【システムには、隠された設定、陰謀、秘密の目的などは存在しません】**
蓮は画面を見る。
「......」
瞬きをする。
「なんでシステムがそんな説明するんだよ」
**【ユーザーの誤解を防ぐためです】**
「そうか」
蓮は身体を預けた。
「じゃあ、お前の主な機能は?」
**【ユーザーの物質的欲求の状態に基づき、報酬を提供することです】**
「金を欲しがらないほど?」
**【その通りです】**
「俺の欲求が低ければ低いほど......」
**【報酬は大きくなります】**
蓮は目を閉じた。
「面倒な話だな」
**【問題として検出されていません】**
「俺にとっては問題だ」
**【ユーザーの意見を記録しました】**
蓮は目を開けた。
「断ることはできるのか?」
**【報酬を拒否することは可能です】**
蓮はすぐに身体を起こした。
「それはいい」
**【ただし、特定の報酬を拒否した場合、その後の報酬倍率に影響する可能性があります】**
「......」
「つまり?」
**【ユーザーには、判断を慎重に検討することを推奨します】**
蓮は画面を見つめた。
「何もしなかったら?」
**【システムは稼働を継続します】**
「普通に生活したら?」
**【強く推奨します】**
蓮は黙った。
「なんで?」
**【ユーザーの通常の生活は、Wantless Conditionと適合するパラメータだからです】**
「つまり......」
蓮はため息を吐いた。
「普通に生活すればするほど、報酬が増える?」
**【その通りです】**
蓮は天井を見上げた。
「面白いな」
**【システムにはユーモア機能がありません】**
「そういう意味じゃない」
**【理解しました】**
蓮は顔を手で擦った。
「この金、どうやって何の問題もなく俺の口座に入れた?」
画面が切り替わる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
### **《特権開放》**
**《絶対的法的保護》**
システムによるすべての報酬は:
・合法的な資金源を持つ
・完全な書類が用意される
・適法な所有構造を持つ
・行政上の記録が整備される
・関連する税務および規制上の義務を満たす
・必要に応じて専門家によるサポートが付与される
**状態:ACTIVE**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮はすべてを読む。
「つまり、法律上の問題はない?」
**【その通りです】**
「突然、誰かが来て『この金は違法だ』とか言わない?」
**【ありません】**
「口座を凍結されたりもしない?」
**【ありません】**
「税金の問題も?」
**【報酬に関連するすべての義務は、適用される法的構造に従って処理されています】**
蓮は息を吐いた。
「便利すぎるだろ」
**【それが特権の目的です】**
蓮は残高を見る。
一十億円。
一十億。
自分のような人間には、想像することさえ難しい金額だった。
田中との会話を思い出す。
*『今ここで一億円もらったら?』*
蓮は顔を擦った。
「まさか......」
スマートフォンを手に取る。
「俺が金なんていらないって言ったからか?」
**【その通りです】**
「もし、さっき欲しいって言ってたら?」
**【報酬は物質的欲求のレベルに応じて調整されます】**
「いくら?」
**【遡及的に算出することはできません】**
「じゃあ、欲求が低いほど......」
**【倍率は高くなります】**
「今の俺の倍率は十?」
**【その通りです】**
「上がる?」
**【可能です】**
「下がる?」
**【可能です】**
「どうやって?」
**【ユーザーの物質的欲求レベルが倍率に影響します】**
蓮はゆっくり頷いた。
「じゃあ、俺が金に夢中になったら......」
**【報酬は減少します】**
「気にしなかったら?」
**【報酬は増加します】**
蓮は黙った。
そして、小さく笑った。
「つまり、このシステムは本当に俺に合ってるわけか」
**【その通りです】**
「残念だな」
**【システムには後悔の兆候はありません】**
「後悔してるのは俺だよ」
―――
蓮は再びモバイルバンキングを開いた。
一十億円。
その数字を見つめる。
何をすればいい?
家を買う?
必要ない。
車?
必要ない。
服?
まだ持っている。
食事?
今まで通り食べればいい。
旅行?
いつかは、するかもしれない。
だが、急ぐ理由はない。
蓮はスマートフォンをロックした。
「明日、大学だ」
**【その通りです】**
「じゃあ、明日も大学へ行く」
**【その通りです】**
「生活を変える理由はない」
**【その通りです】**
「よし」
蓮は立ち上がった。
スマートフォンをポケットに入れる。
そしてノートパソコンの電源を切る。
「問題解決」
そのとき、スマートフォンの画面が突然点灯した。
**ピン。**
蓮は立ち止まる。
「......」
スマートフォンを取り出す。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
### **《次回報酬条件が開放されました》**
ユーザーが一貫して低い物質的欲求レベルを示したため、
**Wantless Multiplierが上昇します。**
×10 → **×12**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は画面を見る。
「なんで上がった?」
**【ユーザーが最初の報酬を使用する意思を示さなかったためです】**
「つまり、金を使わなかったから?」
**【その通りです】**
「触らなかったら?」
**【倍率が上昇する可能性があります】**
「気にしなかったら?」
**【報酬が増加する可能性があります】**
蓮は天井を見上げた。
「これ、罠だろ」
**【違います】**
「罠みたいに感じるんだけど」
**【システムは規則に従っているだけです】**
蓮はため息を吐いた。
「分かった」
スマートフォンを置く。
「その金が存在しないことにする」
**【その戦略を受理しました】**
蓮は黙った。
「......お前まで応援するなよ」
**【理解しました】**
蓮は再びベッドへ戻った。
布団を引き上げる。
照明を消す。
部屋が暗くなる。
外ではまだ雨が降っている。
蓮は目を閉じた。
口座には一十億円がある。
それなのに、自分が何を感じればいいのか分からない。
「明日......」
あくびをする。
「......大学は行く」
数秒後――
**ピン。**
蓮が目を開ける。
「......今度は何だ?」
スマートフォンを手に取る。
画面には新しいメッセージが表示されていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
### **《REWARD CONDITION》**
評価期間中、通常の生活を維持した場合、ユーザーは追加報酬を獲得します。
**目標:24時間**
**条件:**
・通常の活動に参加すること。
・過度な物質的欲求を示さないこと。
・Wantless状態を維持すること。
・特別な行動を取る必要はありません。
**報酬:???**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮はその文字を見つめる。
「特別な行動を取る必要はない?」
**【その通りです】**
「つまり、俺は普通に生活するだけ?」
**【その通りです】**
「それで報酬がもらえる?」
**【その通りです】**
蓮は再び目を閉じた。
「じゃあ、いいか」
画面を消す。
しかし、それからわずか数秒後――
**ピン。**
画面が再び点灯した。
蓮が片目を開ける。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
### **《SPECIAL NOTICE》**
ユーザーの現在の状態に基づき、
**システムは、より適した居住環境の推薦を準備しています。**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
蓮は起き上がった。
「居住環境?」
**【その通りです】**
「俺は頼んでないけど」
**【必要ありません】**
「必要ない?」
**【ユーザーが条件を満たした場合、明示的な要求がなくても報酬を提供できます】**
蓮は画面を見る。
「つまり、家をくれることもある?」
**【可能性があります】**
「いらないって言ったら?」
**【報酬を拒否することは可能です】**
蓮は頷いた。
「それならいい」
再び横になる。
そして呟いた。
「明日でいいか」
スマートフォンの画面が再び暗くなる。
部屋は静まり返った。
聞こえるのは雨の音だけ。
蓮は目を閉じる。
この月曜日も、本来ならいつもと同じ一日の終わりを迎えるはずだった。
起きる。
大学へ行く。
食べる。
読む。
帰る。
眠る。
何も特別なことはない。
だが今、蓮の銀行口座には一十億円が存在している。
そして、一つの単純な原則を持つシステムも。
**蓮が富を望まなければ望まないほど、より大きな富の世界が彼に与えられる。**
蓮自身はまだ、その組み合わせが、自分の「静かに暮らしたい」という願いにとってどれほど厄介なものになるのかを理解していなかった。
なぜなら、明日から――
より大きな家が彼を待っている。
新たな資産が現れる。
スキルが開放される。
そして、これまで守ってきた質素な生活は、少しずつ維持することさえ難しいものへと変わっていく。
だが、その夜の蓮は、そんなことを考えていなかった。
ただ布団を肩まで引き上げる。
「明日は七時......」
あくびをする。
「......寝坊しないようにしないとな」
五秒後。
蓮は眠りについた。
隣に置かれたスマートフォンが、音もなく再び点灯する。
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**《絶対資産支配システム》**
**ユーザー:黒瀬 蓮**
**純資産:¥1,000,000,000**
**Wantless Index:97%**
**Wantless Multiplier:×12**
**状態:Stable**
**次回報酬:Environmental Asset**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
そして、生まれて初めて――
黒瀬蓮は億万長者として眠った。
それを知らないまま。
祝うこともなく。
そして何より皮肉なことに――
それを望むこともなく。
―――
## 次話予告
# 第2話「一度見なかったことにした」
### ――俺は一度、見なかったことにした
蓮は一億円の存在を、システムのエラーだと思おうとした。
だが、銀行口座の残高は消えない。
取引履歴も残っている。
法的書類まで現れ始める。
そして蓮がすべてを無視しようとしたとき、《絶対資産支配システム》はついに**《絶対的法的保護》**を完全開放する。
問題は、まだ終わっていなかった。
翌日、システムから新たな通知が届く。
**「ユーザーの現在の居住環境は、もはや最適ではありません」**
蓮:
「......俺、ここで普通に暮らせてるけど」
システム:
**【却下】**
蓮:
「なんで?」
システム:
**【報酬の準備が完了しています】**
蓮:
「......どんな報酬だよ?」
**【資産報酬】**
そして蓮は、初めて一つのことに気づき始める。
もしかすると、このシステムを手に入れたあとも質素な生活を維持することは――
自分が想像していた以上に難しいのかもしれない。
[次話へ続く......]