第4話 ナナリエとふたつのソラ
二つの太陽。
歓声をあげて走り回る子供達。
小川の流れ。
揺れる草花。
畑を耕す人々。
古い工房で溶接をする人。
夕暮れは少し緑色。
白い石のテーブル。
険しい雪山。
珊瑚の海。
祈る人々。
勇ましい雄叫び。
そして、空を走る車。
「え?車、空を走っちゃうの?」
自分の声で目が覚めた。
今度は柔らかいところに寝ているようだ。
視界も良好、手足もよく動く。
でも、この腐ったチーズのような悪臭は相変わらずだ。
「コモソベ?」
疑問形の発音で誰かに話しかけられた。
シンプルな白い服を着ている。
ひらひらがなくて動きやすそう。
髪もしっかり括ってある。
きびきびと私の身の回りに何かの機械を配置していた。
私の直感が、看護士さんだと告げていた。
喉の渇きはもう満たされているようだった。
だから私は安心感を覚えた。
しかるべき公的機関に繋がることができたのだと理解したのだ。
機械で何かを計測し終わったのか、看護士さんは大きく頷いて機械を片付け始めた。
ここでも頷くのは肯定のサインなのかもしれない。
「すみません」
部屋を出ていく前に、私は看護士さんを引き留めた。
喉の渇きが満たされた今、欲求は一つだけだ。
「お風呂に入りたいんです」
看護士さんは清潔な身なりをしていて、花のようないい匂いもする。
つまり、不潔であることが、ここの日常ではないはずだ。
お風呂がどこかにあるはず。
「からだ、くさい」
私は思いつく限りの方法で伝えた。
看護士さんは憐れむような表情で二度頷いた。
ベッドから下りて着いてくるよう促され、
そして小さな部屋の中にある更に小さな部屋の前で服を脱ぐように言われた。
「シャワー室かな?」
私はいそいそと服を脱いでその部屋に入った。
扉が閉められる。
シャワーは見当たらなかった。
「これってどうやって......」
扉に向かって大声を張り上げた、そのとき。
ぷしゅーっと音がして、勢いよく部屋中に白い水蒸気のようなものが流れ込んできた。
またまた視界を奪われて私は混乱に陥ったが、視界以外は良好だった。
水分に満たされていても息ができるし、身体の隅々まで心地よく洗われていく感じがする。
これが人間洗濯機というやつか。まさか頭部まで同時に洗うとは。
水蒸気が消えると、今度は真上から空気砲のような乾いた風が落ちてきて、
私はすっかり風呂上がりの身体になった。
扉が開くと白い病院着のようなガウンが用意されていて、私は悩むことなくそれを着た。
心も体も洗濯されて浮かれ気分で先程の部屋に戻ると、
あの、虹色の瞳が待ち構えていた。
目が危険な輝きを放っている。
「ココノレラ、セセラダ?」
虹色の女の子はつかつかと詰め寄ってきて、私の髪を掴んだ。
けっこう優しく。
私の黒い髪を、彼女の白い手のひらでうっとりと撫で回した。
そして私の顔を覗き込んで興奮気味に何かを言った。
鼻と鼻がぶつかりそうなほど近い。
彼女の鼻息が私の唇にかかる。
そして、万華鏡のように多彩な光を打ち返す、この虹の瞳。
彼女が私の底なしの黒い瞳を覗くから、私も彼女の瞳に吸い込まれていく。
この瞳に迷い込んだら出て来られないかもしれない。
ふいに、目覚める前の夢を思い出した。
太陽が二つあった。
私は女の子をそっと引き剥がし、窓辺に寄った。空の端と端に太陽が見える。
「二つある」
私が呟くと、彼女も窓の外を見上げた。
「たいよう、二つ」
私は右手で指差して、左手でピースをした。
「たい、よう」
彼女は眩しそうに空を見上げて
「ソラ」
と言った。
「違う、空じゃなくて、太陽」
私は二つの太陽を順番に指差した。
彼女はゆっくりとうなづいて、
「ソラ、ソラ」
と、二つの太陽を指差した。
あ。
この子は太陽を「ソラ」と呼んでいる。
はっきりとした確信があった。
「そら、そら」
私も真似して言ってみる。
彼女はわずかに目を細めた。
......それは、射抜くような先ほどの輝きとは違う、とても穏やかな表情。
私の心に温かい火が灯った瞬間だった。
私は自分を指差して、
「アンリ」
と言った。
口に出してから驚いた。
自分の名前を迷いなく言えたことに。
そう、私はアンリだ。
ほんの少しだけ自分を取り戻した気がした。
虹色の瞳の女の子は真っ直ぐ私を見た。
「アンリ」
彼女は柔らかい声で私を呼んだ。
そして彼女はそっと自分の胸に手を当て、ゆっくりと言った。
「ナナリエ」
彼女の名前は、ナナリエだ。