虹と黒、最初の接続
彼女は髪を束ねていたリボンを解いた。虹色の髪がほどける。風はない。なのに、髪が浮き上がる。ゆっくりと、空中へ。
「これはあれだ」
部屋を出て石畳の道を歩きながら考えた。
水が手に入らないとわかると、急に喉の渇きが輪郭を持ち始めた。
「極楽鳥」
なんで今、それを思い出したんだろう。
黒すぎる鳥。
光を吸って、閉じ込める、みたいな。
空間がそこだけ黒く切り取られているように見えるやつ。
「構造色......?」
最近誰かとそんな話をしたような気がする。
でも、その「誰か」が思い出せない。
視界も記憶も、まだぼんやりしている。
一番新しい記憶、
―――あの冷たい部屋の水道を、私は思い出していた。
「これは料金滞納で止められたパターンだな」
自分の経験に重ねて推測してみる。
いや、待って。私、水道を止められたことあったんだっけ?
わからない。
でも、喉の渇きはもう限界に近い。
そうだ、誰かに助けを求めよう。
少しずつ晴れていく視界を頼りに、人を探した。
おばあさんを見つけた。
石畳の道に柄杓で水を撒いている。
ゆったりとした長い布を巻いたような服装をしている。
浴衣にも似ているし、どことなく神話の女神が着ているようでもある。
どこの文化か特定しがたい。
見知らぬ土地で最初に声をかけるなら、おばあさん。
その方がうまくいく。
――そんな判断を、私は当たり前のようにしていた。
「こんにちは」
表情筋に力が入らない。
ちゃんと笑えているかもわからない。
おばあさんは驚いた顔をして、何か言った。
知っている言葉のようで、全く意味が呼び起こされない。
通じていない。
「旅をしている者ですが」
両手で自分の体を示す。
言ってから、しまったと思った。
黒くてベタついた髪。
臭い。
そして、この真っ黒な服。
どう見ても、旅人じゃない。
おばあさんの手が、わずかに引いた。
柄杓の水が、こちらにかからないように避けられる。
......警戒されている。
私は柄杓を指さし、それから自分の口元を指した。
「お水を分けていただけませんか」
まずは日本語。無意識にそう口にしていた。
反応はない。
じゃあ――英語。
世界で一番通じる確率が高い言語。
それでもだめ。
なら、話者人口の多い順でいくしかない。
中国語は......無理。知らない。
その次。
「アグア......ポルファボール......?」
大丈夫。南米を旅行した時も、だいたいこれで通じた。
でも。
おばあさんは、何かを小さく呟いた。
祈りの言葉みたいにも、呪いみたいにも聞こえた。
そして、背を向ける。
完全に、拒絶だ。
「ありがとうございました」
今度は、その言葉だけをスペイン語で言ってみた。
でも、もう振り向いてはくれなかった。
......まあ、次に行こう。
今度は路地で遊んでいる2人の子供たちを見つけた。
ガラス玉を瓶に入れて楽器のように鳴らしているらしかった。
さすがにこの格好で子供たちに話しかけるのは躊躇われた。
距離をとりつつ「こんにちは」と手を振りながら通り過ぎた、
そのとき。
「マジョ」
背中に、言葉が当たった。
ゆっくり振り返る。
子供たちと目が合った。
びくり、と肩を震わせて、走って逃げていく。
「マジョ......」
そう聞こえた。
いや、本当にそう言ったのかはわからない。
でも。
魔女?
この黒い髪、この格好。
――まさか、本当に?
◇
その後、道ゆく人にいろんな言葉で挨拶をしてみたけど、
答えてくれる人はいなかった。
こんなに心細いのは初めて......
いや、そうでもない気がする。
はっきりとは思い出せないけど、似たような経験はたぶんたくさんしてきた。
――ぷくぷく、と水の音がした。
この音は知っている。
流れる音じゃない。
湧き上がる音。
地面の奥から、静かに押し出されてくるような、あの音。
どこかで、ずっと聞いていたことがある。
高い山の麓で。
信じられないくらい透明な水の前で。
覗き込むと、底まで見えるのに、どこか現実じゃないみたいで。
私は、ただひとりで。
何時間も。
あの音を聞いていた。
......湧き水だ。
音を頼りに進んでいくと、鼻腔を湿らせる匂いもした。
「お水だ!」
よし、飲もう!
駆け寄って、その泉を覗き込んで息を呑んだ。
水じゃなくて。
......先に、息を呑んじゃいましたね。
「虹色?」
透明なはずの水の中で、虹が揺れている。
表面じゃない。
もっと内側。
深さのある光。
シャボン玉とも、油膜とも違う。
もっと、生きているみたいに、ゆらゆらと色が変わる。
底が見えない。
浅いはずなのに、どこまで続いているのかわからない。
考えるより先に、喉が叫ぶ。
飲め。
両手でお椀を作って水の中に入れようとした、
その瞬間
「ネイ!」
小さいけれど、はっきりとした声が飛んできた。
私は声の方に目を向けた。
「虹?」
虹色の瞳が私を見ている。
「きれい」
宝石をはめ込んだようだ。
いや、宝石にはない生命力が宿っている。
私が見惚れていると、瞳はどんどん近づいてきた。
あ、乳白色の髪も、動くたびに虹色を跳ね返してるんだ。
虹色の瞳と虹色の髪の女の子。
この色、なぜか見覚えがある。
「ネイ!」
『ネイ』......禁止とか、ダメって意味かな?
音の響きは鋭いけど、どこか悲鳴に近いような......
ネイの後も何か言ってたんたけど、ちょっと聞き取れなかった。
でも、私の行動を制止しようとしていることだけは伝わってきた。
でも、でもね?
「私は水が飲みたいの!」
口を開けて、泉を指差して、必死に伝えた。
この人なら話を聞いてくれる気がしたんだ。
伝われ!と念じながら、再度泉に手を突っ込もうとしたその時。
「ネイ!」
彼女は素早く私の手を掴んだ。
彼女の手、ひんやりして気持ちがいい。
虹色の、たぶん日本人でいうところの二十歳くらいの女の子が、ため息をついた。
「タリヤ、テンテンメ」
まあ、だいたいそんな感じの発音だったんだけど、
私には「仕方ない。最後の手段だ」と言っているように聞こえた。
最後の手段って、何。
彼女は髪を束ねていたリボンを解いた。
虹色の髪がほどける。
風はない。
なのに、髪が浮き上がる。
ゆっくりと、空中へ。
静電気?
いや、違う。
見惚れている間に、その髪は意思を持ったみたいに動き出した。
こちらへ向かってくる。
応えるように、私の髪も浮き上がる。
黒い髪が、静かに広がる。
引き寄せられる。
磁石みたいに。
虹と黒が、触れた。
絡み合う。
そして――繋がった。
電撃が走った。
誰かの、記憶が、泥流のように押し寄せる。
そう知覚した時、もう私の意識は遠のいていた。
倒れゆく身体が太陽の光を全身に受ける。
草の上に身体が横たわるとき、私は空に二つの太陽を見た。