第三十八話 酒場の乾杯と、お祭りのともしび
霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬(クーシー)』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。
ある日、麓のベイスの町に住む、少年ノランと金の魔犬ブランが出会い、やがて故郷の町を守るため大魔女と契約を交わした少年レオンは、白銀の魔犬クゥとともに「町へ降りる魔犬たちの世話役」としての歩みを始める。
宮廷で孤独を抱えていた第三王女エレアノーリエは、ノランやモルガナとの出会いを経て成長し、やがてノランと絆を結んでベイスの町の領主となり、人と魔犬が共に笑い合う「魔法都市」の礎を築いていく――。
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ベイスの町は、かつてのちいさな田舎町から見違えるほどの発展を遂げ、人と魔犬、そして魔法が調和する美しい「魔法都市」へと成長していた。石畳の通りを歩けば、あちこちから活気ある声と、魔犬たちの楽しげな鳴き声が聞こえてくる。
その街並みを、二人の人物が並んで歩いていた。
一人は、コードリア辺境女伯エレアノーリエ。四十代を迎えた彼女は、長い赤毛を揺らし、瑞々しい美しさに加え、深みのある凛とした気品と大人の色香を纏っていた。その端正な佇まいは、まさに民が誇る気品ある領主様らしい。
そしてその傍らを歩くのは、夫ノランだ。六十代となった彼は、髪に白髪が混じりつつも、どこか柔らかく穏やかな大人の雰囲気を漂わせていた。
二人の足元には、すっかり壮年となったが相変わらず温かな黄金の毛並みを揺らしながら楽しげに歩くブランや、エレアノーリエの友犬の三匹が、のんびりと尻尾を振って寄り添っていた。
「ねえ、ノラン様。あちらの新しい魔法道具店、すごく繁盛しているみたいですわよ」
「本当ですね。職人通りも、一段と活気が出ました」
ふたりは公務の合間を縫い、時にはこうして肩肘を張らずにふらりと町の酒場や魔法学校を訪れていた。町民たちと同じ目線で言葉を交わす二人の姿は、いつしか街の日常の一部となっていた。
すれ違う子供たちや商人たちは、二人を見かけるとごく自然に笑顔で頭を下げ、親愛を込めた声をかけていく。
「おっ、領主様! こんにちは!」
「こんにちは、今日もいいお天気ですわね」
かつては「偉大な魔女の弟子」「王宮からの高貴な姫君」として恐縮されていたエレアノーリエだが、今や彼女は、ベイスの町の人々にとってなくてはならない、文字通りの「町の顔」であり、心から愛される自慢の領主様だったのである。
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夕暮れ時、茜色の空がベイスの町を優しく包み込む頃、エレアノーリエとノランはいつもの小さな飯屋兼酒場、「錆びた鉄剣亭」へと入っていった。
年季の入った木製のカウンターと、美味しそうな煮込み料理の匂いが立ち込める店内には、仕事を終えた冒険者や職人たちが集まり、すでに賑やかな笑い声を上げていた。
「おっ、領主ご夫妻じゃないですか! いらっしゃい!」
気さくな店主の親父さんが豪快に笑いながら、二人に特製の温かいスープと、町特産の軽めのエール酒を差し出す。
エレアノーリエはそれを嬉しそうに受け取り、ノランと共に席についた。
「ふう、やっぱりここのスープは格別ですわね」
「そうですね...。歩き回ったあとの一杯は、体に染みます」
ノランがグラスを傾けてほっと息をつく横で、隣のテーブルに座っていた常連の酒飲みたちが、赤い顔をして盛り上がっていた。やがて、酔いが回ってきた男の一人が、ふとこちらを振り返り、大きな声で笑いかけた。
「領主様ぁ!俺たちゃあ、おかげで毎日楽しくやってますぜぇ!」
「おうよ!領主様がいらしてから、町は見違えるようですわぁ!!」
男たちはジョッキを高く掲げ、店中に響き渡る声で叫んだ。
「「領主様にかんぱーい! 」」
その威勢の良い掛け声に、店内全員が笑顔でグラスを打ち鳴らす。エレアノーリエも嬉しそうに自身のグラスを掲げ、皆と一緒に笑顔で乾杯を交わした。
だが、その宴の熱気の中で、別のテーブルにいた古参の冒険者上がりの男が、ふっと遠い目をしながらぽつりと呟いた。
「いやぁ、こうして領主様と気軽に酒が飲める俺たちは世界一の幸せ者だ...。だがよ、たまには考えちまうんだよな。いつか、あの山の上にいる気高い『大魔女モルガナ様』にもお会いしてぇなぁって...!」
その言葉に、店内の空気が一瞬だけ「しん」とした後、次の瞬間に大爆笑へと変わった。
「おいおい、何を言い出すんだお前は!」
「あの魔女様だぞ!? 山から降りてきてくださるわけねぇや!」
「でもよ、もしそれができて、魔女様と酒なんか飲めりゃ、こりゃあ死んでもいいぜ!」
町民たちは面白おかしく笑い飛ばし、再び酒を飲み交わし始めた。
しかし、その男の何気ない一言を聞いた瞬間、エレアノーリエの瞳に、ピカリと怪しく、そして強烈なワクワク感に満ちた光が宿った。
(――モルガナ様と一緒に、町のみんなでお酒を飲む...?)
脳裏に浮かんだその光景は、彼女にとって最高に面白く、そして何より実現させたら絶対に楽しい大事業に思えた。エレアノーリエのなかの「いたずら心」と、「師匠を愛する愛弟子」のスイッチが、カチリと音を立てて入った瞬間だった。
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「錆びた鉄剣亭」から戻った夜、エレアノーリエは領主館の執務室で、さっそく行動を開始していた。
彼女の足元には、かつての子犬時代からすっかり成長し、しかし甘えん坊な気質はそのままの三匹の魔犬――ルクス、ノクス、ヴェントがしゃなりと座っている。
「ルクス、ノクス、ヴェント。あなたたちに、とっても大切なお願いがあるのです」
エレアノーリエがしゃがみ込み、真剣な面持ちでそう切り出すと、三匹はぴんと耳をそばだてた。
「あのね、町のみんなが『モルガナ様と一緒に美味しいお酒を飲んでみたい』って言っていたのよ。だから、山の上にいるモルガナ様をびっくりさせて、この町に連れ出す最高のお祭りを計画したいのよ。山の魔犬たちにも、ぜひ協力してもらえないかしら?」
「魔女さまとお祭り!?」
「すごく楽しそう!」
「僕たち、山のみんなにすぐ伝えてくるね!」
三匹は「わんっ!」と威勢よく返事をすると、まるで風のように素早く窓から飛び出し、山の館の魔犬たちへと精神感応や俊足でメッセージを飛ばした。
その報せは一瞬で山の魔犬たちの間に駆け巡り、館の庭は「魔女さまのためのお祭りだぞ!」と、瞬く間に大騒ぎのパニックと熱気に包まれることになった。
そこから先は、町全体を巻き込む一大事業の幕開けだった。エレアノーリエの熱意に押され、ベイスの町は連日お祭りムードに染まっていく。
まず動き出したのは町魔犬郵便だ。普段は個人個人で郵便を請け負っている彼らだが、魔犬役場からの要請により、全戸へお祭りの招待状を配達して回った。
綿飴のような町魔犬たちが町中を駆け抜け届けられる木札。町民たちは可愛らしさと期待に胸を躍らせた。
さらに、郊外の広大な農地では農犬ギルドと人間の農家たちが円陣を組んでいた。
「魔女様が口にするものに、中途半端なものは許されぬ」とばかりに、土を耕し、太陽の恵みをいっぱいに受けた選りすぐりの最高級食材を丹精込めて育て上げる。瑞々しい果実や、芳醇な香りを放つ特製の穀物たちが次々と収穫されていった。
職人通りでは、職人と魔犬の協力による驚異的なものづくりが進められていた。
「魔女様に似合うものを作らなくちゃね!まずはあなたたち、魔女さまのお姿をおしえてくれる?」
「うんっ!えっとねぇ~背は向かいのお家の女の子ぐらいでーー」
「お肌は雪にみたいに真っ白!おめめは騎士のアイラさんと同じ色だよ!」
鍛冶屋や細工師、仕立て屋の工房では、魔犬たちの器用な爪先や魔法を借りて、モルガナのための豪奢な衣装や、魔力を美しく引き立てる特製の杖が次々と形になっていく。
さらに、モルガナを乗せて町中を練り歩くための、豪華絢爛な装飾が施された特製の台車まで作り上げられていた。
職人通りの地下セラーでは、モルガナをうならせるための「特製ワイン」の仕込みも万全だ。
一方、商犬ギルドも負けてはいない。
人気の「魔犬喫茶」を営む犬たちが中心となり、当日に向けたスペシャルショーの猛特訓が行われていた。さらに、商犬ギルドの粋な計らいにより、大人気である魔犬の酒「アニス」が、お祭り当日はなんと「無料・無制限」で提供されることが大々的に決定され、町の酒豪犬たちの期待値は最高潮に達していた。
そして、夜空を彩る演出を担当するのは、魔法学校の卒業生と生徒たち、そしてその友犬たちだった。
「先輩たちに負けていられませんわ!」と意気込む生徒たちは、モルガナへの感謝の言葉や、花々などのモチーフを夜空に映し出す壮大な魔法の光のショーの予行演習を重ねていた。
町全体が、一つの巨大な歯車のように噛み合い、誰もが笑顔で「最高のお祭り」を作り上げていく。
そして、最大の難所、「大魔女をいかにして町へ連れてくるか」については、エレアノーリエと魔犬たちの間で何度も議論が重ねられた。
――曰く、町で大事件が起こったように幻惑魔法でみせれば、いやいや魔女さまに魔法は効かない。アスタには異様に甘いから、彼に泣き落としてもらえばーー
様々な意見がでるものの、今だ決定打には欠けていた。
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これだけの大人数と魔犬たちが動き回れば、いくら山の上とはいえ、その情報はすぐに大魔女の耳に届く――いや、そもそも最初からすべてお見通しだった。
お祭りの細かい計画が固まりつつあるある日の午後、エレアノーリエの脳内に、冷ややかで、しかしどこか呆れたようなモルガナの直接的な精神感応(テレパシー)が響き渡った。
《――あなたたち、私が気づいていないとでも思ったのかしら?》
「ひゃっ!?」
執務室で書類をまとめていたエレアノーリエは、頭の中に直接響いた師匠の声に思わず飛び上がった。
《町中を巻き込んで、私をダシにしたお祭りを開こうなんて、しかも、小細工で私を呼び出そうだなんて、いい度胸ね。》
「も、モルガナ様!? いえ、これはですね、その...!」
慌てて弁明しようとするエレアノーリエに対し、モルガナの声は冷徹に、しかし容赦なく言い放った。
《却下。つき合う気はないわ。いいこと、おとなしく計画を白紙に戻しなさい》
ピシャリと精神感応はそこで切られた。
ガックリと机に突っ伏すエレアノーリエだったが、ここで引き下がるような彼女ではない。
「うぅ...やっぱり最初からバレていましたか...! ですが、ここで諦めるわけにはいきませんわ!」
彼女は気を取り直すと、今度は正攻法――というにはあまりに白々しい、最高級の羊皮紙を用いた「お祭りの正式招待状」を書き上げ、最高の魔導書とともに山へ送り届けた。
――しかし、山の上から転移魔法で送り返されてきたのは、返事の代わりに、モルガナの達筆な一文字が書かれた小さな紙切れ一枚だけだった。
そこには、ただ冷徹に、こう記されていた。
『 欠 席 』
「そんな...一言だけですの!?」
送り返された紙切れを眺め、エレアノーリエはさすがに少しだけショックを受けたように肩を落とした。しかし、その瞳の奥には、闘志の炎がまだ消えずに燃え盛っていた。
窓の外を見れば、町中では今この瞬間も、人々や魔犬たちが楽しそうにお祭りの準備に汗を流し、笑顔を交わしている。
エレアノーリエはふっと息を吐き出すと、やがて悪戯っぽく、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ふふ...。招待状を断られたくらいで引き下がると思いましたか、モルガナ様?」
彼女はルクスたちを振り返り、ニヤリと笑った。
友がこの笑いをしたときは、とんでもないことをしでかすと知っている、ルクス、ノクス、ヴェントは高まる期待に、ニヤリと笑い返して見せた。
すべてを巻き込む最高の一大イベントは、いよいよ最高潮の熱気を孕みながら、迎えるべき「当日」へと突き進んでいくのだった。