第四十四話 若返りの奇跡と、交わす鼻先
霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬(クーシー)』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。
ある日、麓のベイスの町に住む、少年との出会いを境に魔犬たちは町へ降り、人々との暮らしを紡ぎ始める。
そして、モルガナの弟子となった第三王女エレアノーリエを、領主として迎えたベイスの町は、人と魔犬が共に笑い合う魔法都市へと変貌していった――。
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モルガナの館の庭園で、エレアノーリエはそっと六十五年を数える自分の手のひらを見つめていた。
かつて刻まれていたはずの年齢の影は少しだけ薄れ、そこにあるのは落ち着いた大人の女性としての気品をまとった肌だった。
――膨大な精霊魔法の「ちから」と魔力の影響。
モルガナがかつて経験したのと全く同じ現象が、エレアノーリエ、そして長年彼女に寄り添い続けてきた友犬たち――ルクス、ノクス、ヴェントの肉体にも訪れていたのだ。
彼らの肉体は、時を巻き戻すかのように、再び五十路を思わせる、少し引き締まった姿へと逆行し始めていた。漆黒や美しい毛並みを取り戻したルクスとヴェントの二匹は、若返りを少し気恥ずかしそうに、しかし穏やかに庭を歩いて己の子孫たちからの挨拶を受け取っている。
「...信じられないわね。まるで、時計の針が少し巻き戻されているみたいだわ」
若返った自身の姿と相棒たちの変化に驚きながらも、エレアノーリエは、ふと庭の隅に目をやった。
そこには、時の流れを受け入れた、一匹の老いた魔犬の姿があった。
――ブランである。
ブランは高齢の犬らしい落ち着いた、白い混じった毛並みと年輪を重ねた体躯になっていた。ノランの相棒として長く生きてきたブランの姿は、若さを取り戻しつつあるノクスの傍らでひときわ老いて見えた。
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庭の木陰、柔らかな木漏れ日の下で、エレアノーリエは若返った自身の指先を見つめながら、ぽつりと息を漏らした。
「...モルガナ様。私たちの体に起きているこの変化...時が巻き戻っていくような感覚は、奇跡というよりも、むしろ得体の知れない呪いに近いのではないかと、ふと感じてしまうことがあります。終わりのない時間を生き続けることへの恐れと、それでもまだ未来を見ていたいという期待が、心のなかで波立って...」
エレアノーリエの言葉に、モルガナは静かに目を伏せ、自らの小さな両手を軽く握りしめた。その幼い少女の姿の奥には、数百年を生き抜いた果てしない歳月の重みが宿っている。
「無理もないわ、エレアノーリエ。強大すぎる精霊魔法の力に肉体が引きずられ、人間の理(ことわり)から外れていくのは、恐怖を覚えて当然よ」
モルガナは微かに自嘲気味に微笑み、遠くを見るような目をしながら続けた。
「私自身、かつて大切な人たちを先で見送り、この不気味な若返りに怯えて山へと逃げ込んだ身だもの。...けれどね、こうして時を超えて、かつて想像もしなかったような賑やかな絆がこの場所に生まれた。永遠の命や若返りがもたらす孤独に怯える一方で、この子たちや貴女と共に見る明日が、少しだけ愛おしく思えてしまうのもまた事実なのよ」
そのモルガナの足元では、若返りを果たしたルクスとヴェントが、自分たちのしなやかに戻った毛並みを互いに確認するようにふっと鼻を鳴らしていた。
「ぼくたちはさ、難しことはよく分からないけどさ!」
ルクスが明るい声で尻尾を大きく振る。
「体が軽くなって、子孫の顔をこうしてまた見られて、みんなと一緒に走り回れるなら、今のこの姿は素直に嬉しいぜ! 恐いなんて思ってる暇があったら、次のおでかけの相談をしようよ!」
ヴェントもそれに同調するように、穏やかに笑って相槌を打つ。
「そうだな。命がどれだけ長かろうと短かろうと、大事なのはいつだって誰とどんな時間を過ごすかだ。ブランとノクスがああして互いを想い合っているように、僕たちも目の前にある温もりを全力で楽しめばいいのさ」
二匹の屈託のない言葉と揺るぎない笑顔に、エレアノーリエはふっと肩の力を抜き、やわらかな笑みを浮かべた。
「...そうね。ルクスたちの言う通りだわ。未来がどうなるかなんて怖がっていても仕方ないわね。この奇跡の時間を、大切に紡いでいきましょう」
風が吹き抜け、館の庭園に静かで温かな時間が満ちていくのだった。
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若返り、再びしなやかな姿を取り戻したノクスは、かつてと変わらず、年老いたブランの傍らにそっと寄り添っていた。
夫婦のような、そして誰よりも深い絆で結ばれた親友のような距離感で、二匹は長い年月を共に過ごしてきた。
ルクスとヴェントたちが「子孫の代まで見守れる」と未来に胸を躍らせる中、ブランはふと、若返って美しさを取り戻しつつあるノクスの姿と、自分の老いた体を交互に見つめ、言い知れない切なさと胸を締め付けられるような思いにとらわれていた。
(...ルクスやヴェントには、たくさんの子供や孫、血筋を継いだ者たちがいる。この先、たとえ何百年という長い時間を生きることになっても、彼らの周りには途切れることのない家族の温もりがある。だけど...)
ノクスには、子供がいない。
血を分けた子孫も、後を継ぐ血統も、ノクスには残らなかった。自分たち魔犬が人間の歴史の傍らに寄り添う中で家族という形を残していった者たちもいるが、ノクスはそうではなかった。しかも自分は若返りすらせず、やがて彼女より先に寿命を迎える。
これから先、果てしない時間をたった一人で歩み続けることになるかもしれないノクスの姿を想像し、ブランは自分の無力さに胸を詰まらせた。
ブランは申し訳なさそうに、ふっと白い混じった長い尻尾を地面へとダラリと垂らした。
「...ノクス」
低く、どこか震えた声で、ブランは妻であり親友である彼女の名を呼んだ。ノクスが首をかしげ、変わらない優しい琥珀色の瞳でブランを見上げる。
「どうしたの、ブラン。そんな難しい顔をして」
「...僕さ」
ブランは視線を合わせることができず、自分の足元を見つめたまま、絞り出すように言った。
「僕が...もっとちゃんと、ノクスを奥さんとして迎えていればよかった。子供が、君との間の子供がいてくれたら...。君が若返って、これから先果てしなく続くその長い命に、僕以外の温もりや、家族という慰めがあったはずなのに...」
それは、不器用なブランが抱いた、あまりにも遅すぎ、そして純粋すぎる後悔だった。
自分が先に老いていくだけの存在であること、そして彼女に血を残してやれなかったことを、彼は深く悔やんでいたのだ。
ブランの言葉を聞いたノクスは、少しだけ目を丸くしたあと、ふっと柔らかく、すべてを包み込むような深い笑みを浮かべた。
彼女はためらうことなく、しなやかな足取りで、老いたブランの側へと歩み寄る。
「バカねえ、ブラン。そんなことで悩んでいたの?」
「...後悔しても、仕方のないことだけどさ。君のこれからが、少しでも寂しくないようにって...」
「寂しくなんかないわよ」
ノクスは遮るように、ブランの年老いた大きな体にそっと寄り添った。彼女の温もりが、ブランの冷えかけた体に優しく伝わってくる。
「私はね、そんな不器用で、いつも私のことばかり気にかけてくれるブランが大好きだったのよ。本当に、大好きよ」
ブランが息を呑んだように体をこわばらせる。ノクスは優しく目を細め、彼の耳元に顔を近づけた。
「血統や子供なんて、形だけのものよ。たとえ私たちに血を分けた子供がいなくたって、これまで私たちが歩んできた時間、交わしてきた言葉、一緒に見た景色...そのすべてが私たちの絆なの。あなたが老いていようと、私が少し若返ろうと、私たちの間に何の変化もないわ」
そして、ノクスは続けた。その声は、どこまでも優しく、そして力強かった。
「それにね、万が一のことがあったって...心配いらないわ。あなたが先に逝くことがあったって、ずっとずっと、ブランのことは私が覚えていてあげるからね」
たとえ時間がどれだけ流れようとも、この記憶と魂の深くに刻まれた温もりだけは、自分が絶対に忘れない。だから何も恐れる必要はないのだと、その存在そのものが語りかけていた。
ブランは胸がいっぱいになり、言葉を失った。
ただ、溢れそうになる感情を抑えるように、小さく息をつく。
ノクスは愛おしそうに目を細めると、その黒い鼻先を、そっとブランの頬にすり寄せた。
――こつん、と優しく触れ合う鼻先。
それは言葉以上の対話であり、数え切れない季節を共に生き抜いた者たちだけが交わせる、永遠の誓いの形だった。
風が吹き抜け、霊峰の木々がざわめく。
若返った奇跡の光の中、少し若い姿のノクスと、老いた姿のブラン――ふたりの絆は、時を超えて変わらぬ温もりをいつまでも分かち合い続けていた。