第四十五話 黄金の光と、静かなる旅立ち
霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬(クーシー)』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。
ある日、麓のベイスの町に住む、少年との出会いを境に魔犬たちは町へ降り、人々との暮らしを紡ぎ始める。
そして、モルガナの弟子となった第三王女エレアノーリエを、領主として迎えたベイスの町は、人と魔犬が共に笑い合う魔法都市へと変貌していった――。
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冬が巡り、ベイスの町が穏やかな雪化粧に包まれていた頃、霊峰の館には静かな時間が流れていた。
膨大な魔力と、長い年月の中で蓄積された精霊魔法の共鳴。その奇跡によって、北方魔法都市コードリア領の初代領主、エレアノーリエの肉体は、時を巻き戻すかのように三十代の若々しい美しさを取り戻していた。艶やかな赤髪は瑞々しく輝き、その瞳には凛とした気品と深い知性が宿っている。
だが、その傍らに寄り添う夫・ノランの姿は、確かな年齢の重みを刻んでいた。
齢八十九を迎えたノランは、白髪ばかりになった髪を緩やかに風に揺らし、その顔には深い皺が刻まれていた。外見の年齢差は開いてしまったものの、長い年月を共に歩んできた二人の間には、揺るぎない絆と、温かな空気が満ちていた。
ある夜のことだった。
ノランは、エレアノーリエ、そして彼の少年時代からずっと共に歩んできた相棒――金の魔犬・ブランに見守られながら、静かに寝床に横たわっていた。
「...エレア様。...ずっと、そばにいてくださって...ありがとうございます」
掠れた、しかし穏やかな声でノランが呟く。エレアノーリエは若返ったその手で、ノランの節くれた老いた手を優しく包み込み、微笑んだ。
「当たり前ですわ、ノラン様。わたくしは、いつだって貴方様の隣におりますのよ」
その言葉に満足したように、ノランはふっと力を抜き、穏やかな寝息へと落ちていった。それはまるで、長い長い旅路を終えた旅人が、ようやく安らかな眠りにつくかのような静けさだった。
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――夜が明け、淡い朝の光が窓の隙間から差し込む頃。
エレアノーリエはそっと目を覚ました。寝る間繋いでいた手が冷え切っているのに気が付き、慌てて隣に横たわる夫の胸に耳をあてると、かつて力強く響いていた鼓動が、嘘のように静まり返っていた。
――かつて、少年時代から防衛隊の盾となり、魔女の弟子として、そしてコードリア領を支える誇り高き魔法使いとして命を駆け抜けた男はその天寿を全うしたのであった。
冷たくなり始めた夫の頬に、エレアノーリエはただ静かに一筋の涙を流しながら、そっと口づけを贈った。
そして、相棒の異変に気が付き、ブランが静かに立ち上がる。
長い年月を生きて老いた白い混じりの毛並みを震わせ、ブランはノランの冷たくなった頬に、そっと自分の鼻を寄せた。
――コツン、と優しく触れ合う鼻先。
それは言葉すら超えた、魂の半身への愛に満ちた最後の挨拶だった。
ブランはゆっくりと顔を上げると、まだ完全に明けない東の空、昇り始めた朝の光に向かって、首を長く伸ばした。
そして――。
静寂を引き裂くように、しかしどこまでも気高く美しい、たった一度の遠吠えを響かせる。
それは霊峰の山々にこだまし、ノランの魂を天へと導くのだった。
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遠吠えの余韻が消える頃、館の扉が慌ただしく開かれた。
知らせを聞きつけて駆けつけたのは、アスタ、アイラ、アイリス、ユリウス――ノランとエレアノーリエの大切な子どもたち、そして孫たちだった。偉大な父であり、優しかった祖父の動かない姿を見た瞬間、彼らの堰を切ったような泣き声が部屋中にあふれ、悲嘆の空気が館を包み込んだ。
家族の泣き声が響く中、エレアノーリエは一人、静かに立ち上がり、窓の外を見つめていた。
(...逝ってしまったのね、ノラン様)
若返り、いずれ不老の肉体をもつことになる彼女には、夫を失った喪失感とは裏腹に、この先もまだ途方もなく長い人生が残されている。孤独と寂しさが波のように押し寄せ、胸を締め付けた。
だが、彼女はその涙をそっと拭うと、深く息を吸い込んだ。
ノランが愛し、共に創り上げたこのベイスの町。そして、彼との間に生まれた子どもたちや孫たちの未来。
――私は、一人ではないわ。ノラン様が遺してくれた温かな思い出のすべてが、この胸の中に生き続けているのだから。
指先を、夫の残したぬくもりを探すように握りしめ、エレアノーリエは前を向いた。それは、残された長い人生を、ノランとの記憶を胸に気高く歩み抜くための、彼女自身の強い決意だった。
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ノランの死から、半年が過ぎた。
エレアノーリエの感情も落ち着きを取り戻し、家族たちはそれぞれの日常へと戻っていった。しかし、その変化を誰よりも敏感に察知していたのは、相棒である金の魔犬・ブランだった。
ノランを失った心の穴を抱えながらも、家族を見守り続けたブランは、自らの命の炎が静かに消えかけていることを悟っていた。
「...そろそろ僕も、ノランのところへいく時間かな」
ブランはおぼつかない足取りで立ち上がると、艶やかに若返った伴侶・ノクスと静かに視線を交わし、かつての故郷であり、自身の原点である「山の館」へと寝床を移すことを決意した。
ノクスは何も言わず、ただ寄り添うようにブランの歩みに合わせた。
山の館の庭園。
そこは、ブランの黄金色の毛並みそっくりな、温かな日の光が燦々と降り注ぐ特等席だった。
ブランは柔らかい草の上に横たわった。その傍らには、深い絆で結ばれた伴侶・ノクスがぴったりと寄り添い、温もりを分け合っている。
「...お疲れ様、ブラン。...大好き、大好きよ」
ノクスの優しい声を聞きながら、ブランは目を細めた。
遠い昔、少年だったノランと出会い、共に駆け抜けた日々。新しい町を作り、多くの仲間と出会い、家族に囲まれたあたたかな記憶のすべてが、走馬灯のように優しく脳裏をよぎっていく。
人間と魔犬という、異なる種族の壁を越えて紡がれた絆。その物語は、いま最後の温かさに包まれていた。
ブランは穏やかに三回、深い息を吐き出すと、心地よい日の光の中で、ゆっくりと目を閉じた。
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ブランの純潔な魂が肉体を離れ、その四肢が冷たくなるころ。
山の館の主である大魔女・モルガナが、眠るブランと泣きながら寄り添うノクスの前に歩み寄ってきた。
彼女は、小さな、けれど驚くほどに温かい手のひらを、老犬の頭の上へとそっと置いた。
なでる、というよりは、そこに置いて自らの体温と重みを伝えるだけのような触れ方だった。
魔女は犬たちを心から愛している。その生き様や、死にゆく魂までもを愛し、優しく見送った。
モルガナの館の庭に降り注ぐ日の光は、祝福するかのように、いつまでも黄金色に輝き続けていた。