ホーム町の小さなお守り魔女と、言葉を紡ぐ金の犬〜不老幼女の大魔女、人間の言葉を喋る魔犬たちと暮らしていたら、魔法都市ができていました~第四十六話 学長室と、いつもの一日
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第四十六話 学長室と、いつもの一日

 霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬(クーシー)』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。

 ある日、麓のベイスの町に住む、少年との出会いを境に魔犬たちは町へ降り、人々との暮らしを紡ぎ始める。

 そして、モルガナの弟子となった第三王女エレアノーリエを、領主として迎えたベイスの町は、人と魔犬が共に笑い合う魔法都市へと変貌していった――。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ベイス=アルカ魔法学校の最上階。窓から差し込む柔らかな午後の光が、執務室を黄金色に染め上げていた。

 部屋の隅に置かれたヴェルヴェットのソファ。そこに深く身を沈め、両手で顔を覆って大きな溜息を吐き出している少女が一人。

――いや、少女ではない。

 膨大な精霊魔法の行使と莫大な魔力の影響により、肉体が時を巻き戻すかのように若返り、現在では「十五歳の少女」の外見を保っているベイス=アルカ魔法学校の学長、エレアノーリエその人である。


「あーー、もうっ! 本当に、やってられないわ...!」


 誰もいない静かな執務室だからこそ、エレアノーリエは誰にも見せない本音を天井に向けてぶちまけた。

 世間に対しては、魔法学校の最高権威として、そして年齢と実績に見合う「老練の魔導士」を演じるため、常に変化の魔法で皺を刻み、低く落ち着いた声を絞り出している。


「『学長、近頃ますますお若く、お元気でいらっしゃいますな』じゃないわよ...。こっちは腰を曲げて歩くフリをするだけで、変な筋肉使ってあちこち痛いのよ。年寄りくさく振る舞うのって、こんなに重労働だったなんて知らなかったわ...」


 ぐったりとソファに背中を預け、長い赤髪をクッションに散らしながら、エレアノーリエは本当の子供のようにふてくされた顔でぶつぶつと愚痴をこぼす。

 その足元、陽だまりのなかに、丸まってのんびりと昼寝を貪っている三つの影があった。
ルクス、ノクス、ヴェント――長年、彼女の人生の旅路に寄り添い続けてきた友犬たちである。彼らもまた、エレアノーリエと同様の奇跡によってその姿はすっかり若々しい「子犬の見た目」へと逆行していた。

 ふと、クッションからずり落ちた前足をピクピクと動かしながら、ルクスが寝言混じりに小さく「くぅ...くん...」と鼻を鳴らす。その様子を眺めながら、エレアノーリエは先ほどまでの疲労を忘れ、思わずクスリと笑みをこぼした。


「まったく、あなたたちはいいわよねぇ。そんなふうにのほほんとお昼寝していて」


 ソファの上から視線を落とし、エレアノーリエはふっと口元を緩めた。

 しかし、その声を聞いた瞬間、三匹の「子犬」の耳がぴくりと動き、怠慢に起き上がった。


「――くぅんっ、エレア帰ってたの...」
「おはよぉ...エレア――」
「まだ眠いよぉ」


 気の抜けた声を上げる三匹に、エレアノーリエはゆっくりと立ち上がり、どこか楽しげな光を宿した目を細めた。


「まったく良いご身分だこと。...ねえ、あなたたち。最近、やけに夕方になるとお腹をいっぱいにして帰ってくると思ったら、『魔犬喫茶』で、可愛い子犬のフリをして観光客や生徒たちから特製の肉巻きおやつを山ほど貢がれているそうじゃない?」


――ビクッ!


 図星を突かれた三匹の全身の毛が、一斉に逆立った。

 ベイスの町の一角で大繁盛している「魔犬喫茶」人間と魔犬が互いに癒やし合うその楽園で、この魔犬三匹が老犬としての威厳を完全にかなぐり捨て、無垢な子犬のピュアな瞳で客を骨抜きにし、極上の高級おやつを次々と巻き上げているという情報は、学長の耳にもしっかりと届いていたのである。


「ば、バレてた...!?」
「あそこの人間たち、すぐ『よちよち、可愛いねぇ』って言って肉をくれるからつい...!」
「おしまいだぁ! エレアノーリエに見つかったら、しばらくあそこに行けないぞ!」

「ふふ、よく分かっているじゃない。...次に見つかったら、一週間はおやつ抜き。そのままだと、風船みたいなお腹になっちゃうわよ?」


 エレアノーリエの宣告に、三匹は「ひゃああ!」と、文字通り蜘蛛の子を散らすようにドタバタと執務室の扉へと駆け出し、隙間から我先にとすり抜けて逃げ去っていった。


 パタン、と閉まった扉を見送りながら、エレアノーリエは「まったく、手がかかるんだから...」と呆れたように、しかし温かな眼差しで小さく息をついたのだった。

――――――――――――――――――――――――――――――

 鐘が鳴るお昼時、エレアノーリエは軽い気分転換を兼ねて、学校内の賑やかな大食堂へと足を運んでいた。

 外見は老齢の彼女が歩いてくると、すれ違う生徒たちは慌てて背筋を伸ばし、「学長先生、お疲れ様です!」と深い礼をして通り過ぎていく。エレアノーリエは子供たちの前では「厳格な学長」の仮面を被り、上品に微笑みながら会釈を返す。


 そして、生徒たちの視線が届かない食堂の一角、教職員専用のテラス席にたどり着くと、彼女は一気に「素」に戻り、変化の魔法を解く。そして、十五歳の少女の姿で、まくまくとチョコレートケーキを頬張るのだった。


「学長、お隣失礼しますよっと。――やれやれ、今日の新入生たちの実技試験、また変なところで魔法暴発させてたわよ。まったく、誰に似たんだか」

 そう言って席にドスッと腰掛けたのは、教員のミナだった。彼女の隣では、銀縁眼鏡を押し上げたルチアが、ため息をつきながら温かいハーブティーのカップを傾けている。

 ミナもルチアも、年齢を重ねてそれなりの年月が経っている。シワや白髪も隠さず、ベイス=アルカ魔法学校の黎明期から今日まで、泥臭く現場を支え続けてきた生粋のベテラン教員たちだ。


「ちょっとミナ、そんなこと言ったらおしまいよ。今年の二組なんて、私の若い頃よりよっぽど魔力が暴れん坊なんだから。ねえ、学長...って、またそんな子供の姿でチョコレートケーキなんか頬張って、いいご身分ねぇ」


 ルチアがジト目を向けると、エレアノーリエはフォークを持ったまま、けろっとした顔で笑ってみせた。


「いいじゃない、美味しいんだもの。それに、この姿で甘いものを食べていると、本当に若い頃に戻ったみたいで気が楽になるのよ。ねえ、聞いてよ二人とも。さっきなんて、うちの三匹が、魔犬喫茶で若い子の膝に乗って甘い汁を吸ってたのを見つかって、尻尾巻いて逃げ出したのよ?」

「あらぁ、あの魔犬たちが? すっかり図々しくなったもんだわねぇ」

「うちの旦那となんていい勝負じゃない。こないだなんて、夕食の買い出しを頼んだのに、途中で出会った魔犬の群れと一杯やって昼寝なんかして、帰ってこなかったんだからね!」


 そこから始まったのは、生徒の指導方針の愚痴から始まり、最近流行りの魔法道具の不具合、腰や肩のコリの話題(エレアノーリエのそれは大半が変化の魔法の肩代わりによる演技なのだが)、そして近所の美味しいパン屋の新商品情報に至るまで、「おばあちゃん弾丸トーク」の嵐だった。


「「「あはははっ!」」」


 食堂の片隅で、若き学長の美少女と、ベテラン教員二人が腹を抱えてケラケラと笑い合う。

 若手教師たちは、「あそこに捕まったらお終いだぞ...」と遠くから恐る恐るその光景を眺めているが、当事者たちにとってはこの他愛のない時間こそが、日々の忙しさを忘れさせてくれる最高の宝物だった。

――――――――――――――――――――――――――――――


 午後の慌ただしさが過ぎ去り、再び静けさが戻ってきた夕暮れ時の学長室。

 西日が一層赤みを帯び、執務室の壁にかけられた一枚の大きな油絵を照らし出していた。

 そこに描かれているのは、若い頃の、まっすぐで力強い瞳をした男――かつて共にこの町を創り、共に人生を駆け抜けた最愛の夫、ノランの姿だった。

 エレアノーリエは一人、その肖像画の前に立ち、しばらくじっと見上げていた。

 食堂での賑やかな笑い声や、ルクスたちを追い回した勢いはもうそこになく、彼女の瞳には、静かで深い哀愁が満ちていた。


「...ノラン様」


 ぽつりと、誰もいない部屋に名前を呟く。

 人間の寿命という境界線を越え、自分だけが若返り、やがて不老の時間を永遠に歩み続けることの孤独。それは頭で理解していても、ふとした瞬間に冷たい風のように胸の奥を通り抜けていく。

 ノランがこの世を去ったとき、冷え切っていく彼の大きな手を、震えながら握りしめたあの日の感触が、今でも生々しく蘇る。


(私は、若返っていく...。あの人は、もうここにはいないのに)


 胸を締め付けるような喪失感が波のように押し寄せ、エレアノーリエの細い指先がわずかに震えた。

 だが、彼女はそこで目を伏せなかった。

 ゆっくりと、自分の右手首を、もう片方の左手でぎゅっと、痛いほどに強く包み込むように握りしめた。

 エレアノーリエは深く息を吸い込み、自分の手からじんわりと伝わってくる確かな体温を感じ取った。

 この手には、ノランが遺してくれたベイスの町がある。彼が愛し、命を懸けて守り抜いたこの場所に育つ子供たちがいて、未来へ繋がる魔法学校があり、そして――魔犬たちが、今日もそこかしこで元気に生きている。


「...見ていてくださいね、ノラン様」


 絵の中のノランは、変わらぬ優しい眼差しで、ただ静かに微笑み返しているように見えた。

 夕闇が完全に窓の外を包み込むまで、エレアノーリエはその場を動かず、しっかりと自分の手を握りしめ続けた。

 それは、長い長い永遠の時間の中を、愛する人の記憶を胸に気高く生き抜くための、「いつもの一日」の終わりであり、新たなはじまりへの儀式でもあった。
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町の小さなお守り魔女と、言葉を紡ぐ金の犬〜不老幼女の大魔女、人間の言葉を喋る魔犬たちと暮らしていたら、魔法都市ができていました~作者:あづみ
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 霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬(クーシー)』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。

 ある日、麓のベイスの町に住む、少年との出会いを境に魔犬たちは町へ降り、人々との暮らしを紡ぎ始める。

 そして、モルガナの弟子となった第三王女エレアノーリエを、領主として迎えたベイスの町は、人と魔犬が共に笑い合う魔法都市へと変貌していった――。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ベイス=アルカ魔法学校の最上階。窓から差し込む柔らかな午後の光が、執務室を黄金色に染め上げていた。

 部屋の隅に置かれたヴェルヴェットのソファ。そこに深く身を沈め、両手で顔を覆って大きな溜息を吐き出している少女が一人。

――いや、少女ではない。

 膨大な精霊魔法の行使と莫大な魔力の影響により、肉体が時を巻き戻すかのように若返り、現在では「十五歳の少女」の外見を保っているベイス=アルカ魔法学校の学長、エレアノーリエその人である。


「あーー、もうっ! 本当に、やってられないわ...!」


 誰もいない静かな執務室だからこそ、エレアノーリエは誰にも見せない本音を天井に向けてぶちまけた。

 世間に対しては、魔法学校の最高権威として、そして年齢と実績に見合う「老練の魔導士」を演じるため、常に変化の魔法で皺を刻み、低く落ち着いた声を絞り出している。


「『学長、近頃ますますお若く、お元気でいらっしゃいますな』じゃないわよ...。こっちは腰を曲げて歩くフリをするだけで、変な筋肉使ってあちこち痛いのよ。年寄りくさく振る舞うのって、こんなに重労働だったなんて知らなかったわ...」


 ぐったりとソファに背中を預け、長い赤髪をクッションに散らしながら、エレアノーリエは本当の子供のようにふてくされた顔でぶつぶつと愚痴をこぼす。

 その足元、陽だまりのなかに、丸まってのんびりと昼寝を貪っている三つの影があった。
ルクス、ノクス、ヴェント――長年、彼女の人生の旅路に寄り添い続けてきた友犬たちである。彼らもまた、エレアノーリエと同様の奇跡によってその姿はすっかり若々しい「子犬の見た目」へと逆行していた。

 ふと、クッションからずり落ちた前足をピクピクと動かしながら、ルクスが寝言混じりに小さく「くぅ...くん...」と鼻を鳴らす。その様子を眺めながら、エレアノーリエは先ほどまでの疲労を忘れ、思わずクスリと笑みをこぼした。


「まったく、あなたたちはいいわよねぇ。そんなふうにのほほんとお昼寝していて」


 ソファの上から視線を落とし、エレアノーリエはふっと口元を緩めた。

 しかし、その声を聞いた瞬間、三匹の「子犬」の耳がぴくりと動き、怠慢に起き上がった。


「――くぅんっ、エレア帰ってたの...」
「おはよぉ...エレア――」
「まだ眠いよぉ」


 気の抜けた声を上げる三匹に、エレアノーリエはゆっくりと立ち上がり、どこか楽しげな光を宿した目を細めた。


「まったく良いご身分だこと。...ねえ、あなたたち。最近、やけに夕方になるとお腹をいっぱいにして帰ってくると思ったら、『魔犬喫茶』で、可愛い子犬のフリをして観光客や生徒たちから特製の肉巻きおやつを山ほど貢がれているそうじゃない?」


――ビクッ!


 図星を突かれた三匹の全身の毛が、一斉に逆立った。

 ベイスの町の一角で大繁盛している「魔犬喫茶」人間と魔犬が互いに癒やし合うその楽園で、この魔犬三匹が老犬としての威厳を完全にかなぐり捨て、無垢な子犬のピュアな瞳で客を骨抜きにし、極上の高級おやつを次々と巻き上げているという情報は、学長の耳にもしっかりと届いていたのである。


「ば、バレてた...!?」
「あそこの人間たち、すぐ『よちよち、可愛いねぇ』って言って肉をくれるからつい...!」
「おしまいだぁ! エレアノーリエに見つかったら、しばらくあそこに行けないぞ!」

「ふふ、よく分かっているじゃない。...次に見つかったら、一週間はおやつ抜き。そのままだと、風船みたいなお腹になっちゃうわよ?」


 エレアノーリエの宣告に、三匹は「ひゃああ!」と、文字通り蜘蛛の子を散らすようにドタバタと執務室の扉へと駆け出し、隙間から我先にとすり抜けて逃げ去っていった。


 パタン、と閉まった扉を見送りながら、エレアノーリエは「まったく、手がかかるんだから...」と呆れたように、しかし温かな眼差しで小さく息をついたのだった。

――――――――――――――――――――――――――――――

 鐘が鳴るお昼時、エレアノーリエは軽い気分転換を兼ねて、学校内の賑やかな大食堂へと足を運んでいた。

 外見は老齢の彼女が歩いてくると、すれ違う生徒たちは慌てて背筋を伸ばし、「学長先生、お疲れ様です!」と深い礼をして通り過ぎていく。エレアノーリエは子供たちの前では「厳格な学長」の仮面を被り、上品に微笑みながら会釈を返す。


 そして、生徒たちの視線が届かない食堂の一角、教職員専用のテラス席にたどり着くと、彼女は一気に「素」に戻り、変化の魔法を解く。そして、十五歳の少女の姿で、まくまくとチョコレートケーキを頬張るのだった。


「学長、お隣失礼しますよっと。――やれやれ、今日の新入生たちの実技試験、また変なところで魔法暴発させてたわよ。まったく、誰に似たんだか」

 そう言って席にドスッと腰掛けたのは、教員のミナだった。彼女の隣では、銀縁眼鏡を押し上げたルチアが、ため息をつきながら温かいハーブティーのカップを傾けている。

 ミナもルチアも、年齢を重ねてそれなりの年月が経っている。シワや白髪も隠さず、ベイス=アルカ魔法学校の黎明期から今日まで、泥臭く現場を支え続けてきた生粋のベテラン教員たちだ。


「ちょっとミナ、そんなこと言ったらおしまいよ。今年の二組なんて、私の若い頃よりよっぽど魔力が暴れん坊なんだから。ねえ、学長...って、またそんな子供の姿でチョコレートケーキなんか頬張って、いいご身分ねぇ」


 ルチアがジト目を向けると、エレアノーリエはフォークを持ったまま、けろっとした顔で笑ってみせた。


「いいじゃない、美味しいんだもの。それに、この姿で甘いものを食べていると、本当に若い頃に戻ったみたいで気が楽になるのよ。ねえ、聞いてよ二人とも。さっきなんて、うちの三匹が、魔犬喫茶で若い子の膝に乗って甘い汁を吸ってたのを見つかって、尻尾巻いて逃げ出したのよ?」

「あらぁ、あの魔犬たちが? すっかり図々しくなったもんだわねぇ」

「うちの旦那となんていい勝負じゃない。こないだなんて、夕食の買い出しを頼んだのに、途中で出会った魔犬の群れと一杯やって昼寝なんかして、帰ってこなかったんだからね!」


 そこから始まったのは、生徒の指導方針の愚痴から始まり、最近流行りの魔法道具の不具合、腰や肩のコリの話題(エレアノーリエのそれは大半が変化の魔法の肩代わりによる演技なのだが)、そして近所の美味しいパン屋の新商品情報に至るまで、「おばあちゃん弾丸トーク」の嵐だった。


「「「あはははっ!」」」


 食堂の片隅で、若き学長の美少女と、ベテラン教員二人が腹を抱えてケラケラと笑い合う。

 若手教師たちは、「あそこに捕まったらお終いだぞ...」と遠くから恐る恐るその光景を眺めているが、当事者たちにとってはこの他愛のない時間こそが、日々の忙しさを忘れさせてくれる最高の宝物だった。

――――――――――――――――――――――――――――――


 午後の慌ただしさが過ぎ去り、再び静けさが戻ってきた夕暮れ時の学長室。

 西日が一層赤みを帯び、執務室の壁にかけられた一枚の大きな油絵を照らし出していた。

 そこに描かれているのは、若い頃の、まっすぐで力強い瞳をした男――かつて共にこの町を創り、共に人生を駆け抜けた最愛の夫、ノランの姿だった。

 エレアノーリエは一人、その肖像画の前に立ち、しばらくじっと見上げていた。

 食堂での賑やかな笑い声や、ルクスたちを追い回した勢いはもうそこになく、彼女の瞳には、静かで深い哀愁が満ちていた。


「...ノラン様」


 ぽつりと、誰もいない部屋に名前を呟く。

 人間の寿命という境界線を越え、自分だけが若返り、やがて不老の時間を永遠に歩み続けることの孤独。それは頭で理解していても、ふとした瞬間に冷たい風のように胸の奥を通り抜けていく。

 ノランがこの世を去ったとき、冷え切っていく彼の大きな手を、震えながら握りしめたあの日の感触が、今でも生々しく蘇る。


(私は、若返っていく...。あの人は、もうここにはいないのに)


 胸を締め付けるような喪失感が波のように押し寄せ、エレアノーリエの細い指先がわずかに震えた。

 だが、彼女はそこで目を伏せなかった。

 ゆっくりと、自分の右手首を、もう片方の左手でぎゅっと、痛いほどに強く包み込むように握りしめた。

 エレアノーリエは深く息を吸い込み、自分の手からじんわりと伝わってくる確かな体温を感じ取った。

 この手には、ノランが遺してくれたベイスの町がある。彼が愛し、命を懸けて守り抜いたこの場所に育つ子供たちがいて、未来へ繋がる魔法学校があり、そして――魔犬たちが、今日もそこかしこで元気に生きている。


「...見ていてくださいね、ノラン様」


 絵の中のノランは、変わらぬ優しい眼差しで、ただ静かに微笑み返しているように見えた。

 夕闇が完全に窓の外を包み込むまで、エレアノーリエはその場を動かず、しっかりと自分の手を握りしめ続けた。

 それは、長い長い永遠の時間の中を、愛する人の記憶を胸に気高く生き抜くための、「いつもの一日」の終わりであり、新たなはじまりへの儀式でもあった。
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町の小さなお守り魔女と、言葉を紡ぐ金の犬〜不老幼女の大魔女、人間の言葉を喋る魔犬たちと暮らしていたら、魔法都市ができていました~作者:あづみ
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