第四話 向こうがわ
一歩でも動けば、この女の子や母親が自分に牙をむき襲い掛かってくるのではないかという考えが頭をよぎり、蓮太は石のように動きを止めた。
心臓が嫌になるくらい大きく脈打っている。夏の空気はまとわりつくほど暑いのに、指先だけが冷たくなり小刻みに震えていた。
どのくらいそうしていたのだろう。実際にはほんの数十秒だったのかもしれない。
周りに誰もいなくなったのを確かめてから、そっと上体を起こして周りを見回す。けれど、あの小さな鳥居はどこにも見当たらなかった。
蓮太が見据える先には、本来ならまっすぐ伸びるアスファルトの道路と田んぼが広がっているはずだ。だが今は、真っ白い霧が立ち込めているばかりだ。
その霧の中から突然誰かが姿を現した。薄茶色の羽織を着た男性――かと思ったが、首から上はカラスそのものだ。
カラス男はうずくまる蓮太を見ると、
「おやおや......」
と呟き、そのまま蓮太の横をすりぬけ石段を登って行く。
その後も、次々とおかしな姿の者たちが霧の中から現れた。
「これはこれは」
「何十年ぶりかしらね」
彼らは物珍しそうに蓮太のことを眺めるも、声をかけてくる者は一人もいない。誰もが遠巻きに見るばかりだ。
蓮太はそっと頭上を見上げた。もともと自分は鳥居をくぐってきたんだ。これだって同じ鳥居だ。この向こうへ抜ければ元の場所へ戻れるんじゃないか。
じりじりとにじり寄り、霧の中へ足を踏み入れようとした時。
「そこはまだ帰り道じゃないよ」
いつの間に現れたのか、すぐ傍らに蓮太と同い年くらいの男の子が立っていた。
驚いて振り向いた蓮太を見て、男の子は一瞬目を見開いたが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべ「素敵なお面だね」と言った。
「さあ、いつまでもこんなところにいないで、一緒に行こう」
石段の上へと蓮太を促す。
男の子が着ているのは浴衣のようなものだが、その色は何度も洗われて色落ちしてしまったような無地の青だ。しかも裾はあちこち擦り切れている。
さらに足元はボロボロの藁草履ときたものだ。髪の毛も、寝ぐせなのかくせ毛なのか、所々毛先が跳ねている。
正直、お祭りに遊びに来た子どもにしてはあまりにも不自然な装いだった。
いや、そもそもここは自分の知っているお祭りの会場ではないはずだ。蓮太はごくりと唾を飲み込んだ。ついて行って大丈夫だろうか。
置物のように動かない蓮太を見て、男の子は黒猫のお面のすぐ前まで顔を寄せそっとささやいた。
「大丈夫だよ」
蓮太を立たせ手を取り歩き出す。蓮太は引っ張られるがまま石段をひょこひょこと不格好に登って行った。
頂上までたどり着き、神社の境内の中に入った時だった。
「こんばんは、お客様!」
「どんなお店が気になるかい?」
「こっちこっち! 一緒にお祭りを見て回ろうよ!」
ろくろ首、小鬼、目玉がついた真っ白い大きな布。他にも大勢の妖怪たちが蓮太の視界いっぱいに群がってきた。
今まで遠巻きだった妖怪たちに急に取り囲まれ、蓮太は慌てふためく。
「はいはい。がっつかない」
男の子が蓮太と妖怪たちの間に入り、妖怪たちをなだめた。「えぇ~」「おはなししたいのにー」などと不満の声がちらほら聞こえてくる。
蓮太はこわばっていた肩の力が抜けていくのを感じた。
男の子はくるりとターンすると、蓮太に特大の笑みを浮かべた。
「はじめまして。俺はみんなからワカって呼ばれてるよ。君の名前はなに?」
「......蓮太」
蓮太は思わず名前を口にした。
「じゃあ蓮太」
ワカと名乗った男の子は両手を大きく広げた。
「ようこそ、俺たちの夏祭りへ!」
『ようこそー!』
妖怪たちの声が見事に重なった。