第24話 無音域の侵蝕
異変は、午後の講義がすべて終わった直後に訪れた。
キャンパスの中庭。夕暮れ時、人の往来がまばらになった時間帯。
三人でいつものように拠点へ向かおうとしていた、まさにその途中。
不意に、空気が変質した。音が、消えた。
それはいつもの封印空間とは明らかに違っていた。
周囲の音が徐々に遠ざかるのではなく――
音が、最初からこの世界に存在していなかったかのような、
不気味で完璧な消え方。
鳥の囀りも、木々を揺らす風も、自分たちが踏みしめる足音さえも
すべてが漆黒の虚無に呑み込まれていく。
ジョウが弾かれたように立ち止まった。
「......これ、一体何――」
「止まれ、何か違う!」
トウゴが遮った。低く、短い、焦燥の籠もった声。
その手にはすでに、群青の鍵が物質化している。
「いつもの封印空間じゃない......!」
ヨシが鋭い視線で前方を見据えた。 ――いた。
中庭の中央に、ぽつんと、影のように一人の人物が立っていた。
背が高く、全身を深い闇のような黒い衣服で包んでいる。
それ以外の特徴が、奇妙なほどに捉えられなかった。
顔があるはずなのに、見ようと焦点を合わせるたび、
なぜか視線が滑って逸れてしまう。
存在そのものが、この世界の空間に馴染みすぎていた。
その男は、鍵を持っていなかった。
武器を何も構えていないというのに――
周囲のあらゆる音は、その人物を中心に、
ブラックホールのように吸い込まれて消滅している。
「......綴 夜々」
トウゴが静かに、その名を呼んだ。綴と呼ばれた人物が、こちらを向く。
だが何も喋らず、ただ冷徹な眼差しで三人を見つめていた。
「貴方が、なぜここに......」
トウゴが声を絞り出すが、やはり返答はない。
代わりに、綴の右足の爪先が、地面に触れるか触れないかの角度で、
ほんの僅かに沈んだ。それだけで、空間の密度が狂ったように跳ね上がる。
重苦しい無音が三人へと圧し掛かる。
先んじて行動に出たのはトウゴだった。
白銀の鍵を鋭く構え、叫ぶ。
「よっさん、ジョウを連れて――!」
逃げろ。と言いたかった。だが、その言葉が紡ぎ終わるよりも早かった。
綴の右足が、わずかに沈んだ。
踏み込みの音も、地を蹴る反動の気配も、何一つ伝わってこない。
ただ、沈んだ足が元の高さに戻るころには――
綴は、もうヨシの目の前にいた。
白銀の光が、音もなく弾け飛んだ。
ヨシの声紋鍵が――音もなく、儚く霧散した。
喉から出現させた鍵が、綴の展開する「無音」に触れた瞬間
すべての光を奪われて強制的に消滅させられたのだ。
「......っ!」
ヨシの体勢が大きく崩れる。
鍵を無理やり破壊されたことによる精神的フィードバックが
使い手の脳へと跳ね返る。
白銀を失ったヨシの身体が、衝撃のままに大きく後方へと吹き飛ばされた。
「よっさん!」
ジョウが駆け寄ろうと地を蹴る。
「来るな......っ!」
地面に片膝をつき、激しく苦悶しながらも、ヨシが鋭く制した。
「距離を取るんだ......! あの人の『無音域』に囚われたら――
鍵を出すことすらできなくなる......っ!」
間髪入れず、トウゴが前に飛び出した。群青の鍵を低く、獣のように構える。
「俺が止める! 二人はそのまま――!」
逃げて。そう言い終わる前に、綴が動いていた。圧倒的な速度でトウゴに近づく。
音がないということは、移動の風切り音も、地を蹴る足音もないということだ。
気配を察知することすら許されない。
トウゴは辛うじて、視界の端で捉えた。
綴の重心が、消える寸前――ほんのわずかに、左へ傾いだのを。
だが、その傾きが意味する軌道を読み切るよりも早く
綴の姿はすでにトウゴの間合いの内側にあった。
トウゴの群青の構えが間に合った――と思った瞬間
群青の光が激しく揺らぎ、火花を散らした。
消滅こそしなかったものの、その光量は見る影もなく弱まっていく。
「......低音域は、消しきれないか」
綴が、初めてその口を開いた。
声というよりは、鼓膜に直接滑り込んでくるような、囁く息の音。
完璧な無音空間の中で、それだけが微かに存在を許されていた。
「低音域の波形は無音の底に近い。だから完全には無効化できないか――面白い」
トウゴは強引に弾き飛ばされ、背後の壁に強く背を音もなく打ち付けられた。
群青の鍵は辛うじて光を保っていたが、
激しい震えを抑えるために両手で必死に支えなければならなかった。
ヨシがフラつきながら立ち上がろうとしたが、
その両足は糸の切れた人形のように震えていた。
鍵を強制封印された反動が、まだその身体を激しく蝕んでいる。
綴の冷酷な視線が、再びヨシへと向けられた。
「高音域は完全に消えた。
解放と封印、その双方の術式を扱える類稀なる素質者が
これほど簡単に足蹴にされるとはな」
見下ろすような、冷徹な蔑みの笑み。
ヨシは奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばる。
「ま......だ、だ......っ」
「終わりだ」
綴が、ヨシの首元へ向けて冷酷に手を伸ばした。
周囲の無音が爆発的に収束していく。
鍵を介さない、純粋な概念としての封印――
対象の『声』そのものを奪い去る呪いが、ヨシへと襲いかかった。
喉をかきむしり凄まじい苦痛に顔を歪めながら
ヨシの身体が地面に沈み込むように――その場へ崩れ落ちた。