ホーム›法鍵士は夕暮れに鳴る›第14話 名も知らぬ歌い手
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第14話 名も知らぬ歌い手

ある夜、開いた窓の隙間から、切なくなるほど美しい歌声が聞こえた。
学内の巡回の帰り道。
時刻は夜の十時を過ぎており、構内は誰もいない気配で満ちていた筈。
なのに、それは確かにそこにあった。
声は、聴覚よりも先に、皮膚に触れてきた。
夜気ごと、肌の表面をひたひたと撫でていくような感触。
ヨシと同じ高い音域が響いていた。だが、それは訓練された声の質感ではなかった。
誰かに聞かせるためではなく、夜そのものに自分を溶かしていくような
祈りに近い震え方をしていた。

ジョウの足は、意識するより先に止まっていた。
曲名も歌詞も分からない。それでも、声の輪郭だけが
鼓膜の奥ではなく、もっと深いところに焼きついていく感覚があった。
細く、今にも折れそうなのに芯だけは決して揺るがない、
そんな手触りの声の様に思えた。
震えるところは繊細に震え、伸びるところはどこまでも真っ直ぐに伸びていく。
上手いとか下手とか、そういう物差しでは測れなかった。
ただ、その声が「今、ここに在る」という事実だけが
胸の奥にじんわりと重みを持って沈んでいった。

「......素質者、か?」

ジョウが気づいたときには、もう声が口をついて出ていた。

「かも......しれないね」

ヨシが応じた。その気配が、ほんの少しだけ張り詰めるのが分かった。
トウゴは何も言わなかったが、隣で息を潜める気配だけがあった。
三人とも、声の届く範囲から動けなくなっていた。
歌はまだ続いていた。ひとつのフレーズが途切れ、短い静寂が挟まる。
息を整えているのか、迷っているのか――
その"間"の質感だけで、ジョウには何となく伝わってくるものがあった。
まだ終わっていない。あの声はもう一度、紡がれようとしている。
案の定、また声が戻ってきた。さっきよりも慎重に、丁寧に。
同じ旋律を一音ずつ確かめるように響いていた。

(上手くいかない部分があるんだな......)

根拠なんてなかった。けれど、そう感じる。
夜遅く一人きりで、納得のいかない箇所を
何度も、何度も歌い直している――その気配だけが
ジョウの胸の奥に、痛みに似た形で残った。

「確認しに行く?」ジョウが問うと、
「うーん。今夜はやめておこう」ヨシが静かに首を振る気配がした。
「なんでだよ」
「強制しちゃいけないからね。まだ自覚のない人間にこちらから踏み込むのはルール違反だし、何より怖がらせてしまう」

それもそうだ、とジョウは自分を納得させた。
納得しながらも、未練だけがまだ耳の奥に残っていた。
声はまだ、同じフレーズを繰り返している。
少しずつ、本当に少しずつ、自分の声を削り出すようにして。
遠ざかる歌声を背中に感じながら、三人は再び歩き出した。
ジョウは歩調を進めながら、まだ耳の奥で震え続けているその余韻を
記憶のどこか柔らかい場所に、そっと仕舞い込んだ。
名前も知らない。顔も知らない。
それでも、あの震えだけは、確かに自分の中に残しておきたかった。
夜遅く、一人きりで、何度も同じ場所を歌い直していた、誰か。
だが、三人がその声に触れたのは――それが最初で最後になった。

*

三日後。
連絡を寄越したのはヨシだった。
それは、新たな声紋鍵の反応を捉えたという前向きな報告ではなかった。
――素質者が一人、行方不明になった。
ヨシが本部に届いた報告書をめくり
ジョウとトウゴに向けてその内容を読み上げた瞬間
部屋の空気が、急に重さを増した気がした。
誰の息遣いも聞こえなくなる。
自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと耳の奥で鳴っていた。
「音楽学部の一年生。昨夜から完全に連絡が途絶えている。
最後に目撃されたのは、音楽学部棟の練習室」
その一言を聞いた瞬間、ジョウの喉の奥が、勝手にひやりと冷えた。
気づけば、椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
「あの、歌声の子か」
「......おそらくね」
ヨシの声から、いつもの緩さが完全に抜け落ちていた。
その硬さだけで、事の深刻さが肌に伝わってくる。
「行くぞ」
トウゴの声が短く落ちた。振り返ることさえせず
すでにドアノブに手をかけている。
その足音の速さに、ジョウの胸がどくりと跳ねた。
言葉を交わす余裕もないまま、二人の背中を追いかけていたジョウは急いで移動する間、彼女の名前を知る事となった。
鈴峯すずみね 歌夜かや。二十一歳。声楽専攻。
ヨシが調べ上げた端末の画面が、青白い光をジョウの目の奥に焼きつける。
画面を持つヨシの指先が、かすかに強張っているのが分かった。
彼女が生きてそこにいた証拠は、その小さな光の中に転がっているだけだった。
ジョウの胸の奥が、勝手に締めつけられた。

* * *

音楽学部棟の練習室の扉は、施錠されていなかった。
正確に言えば――鍵穴の周囲に、異常な破壊の痕跡が残されていた。
トウゴがその場にしゃがみ込み、無骨な指先でドアノブの縁をなぞる。
立ち上がったトウゴの顔は、酷く険しく歪んでいた。

「声紋鍵で強引に開けられた跡だ。だが、この残存エネルギーの性質は......
封印の術式に近い」

その言葉を聞き、ジョウの脳裏にあの男の張り付いた笑顔が過った。

「......あのクラヴィスか」

ジョウが呟いた。

「俺もそう思う。クラヴィスの仕業だ」

押し殺した緊張感の中、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れる。
個人練習室の狭い空間には、一台のグランドピアノと、譜面台。
そして椅子が置かれていた。
室内は、信じられないほど整然としていた。
あまりにも、綺麗に片付きすぎていた。

誰かがつい先ほどまでここで歌い、生活していたはずの部屋。
その痕跡は、どこにも残っていなかった。
なのに、椅子は机にきっちりと収まり、楽譜は開かれてすらいない。
片付けられすぎている。まるで、最初から誰もいなかったかのように。
ジョウの視線が、床の一点で止まった。
ヨシも、同じ場所を見ていた。
コンクリートの上に、指先ほどの光が滲んでいた。

淡いゴールド。
それは、ジョウ自身の喉から出るものと、
色も揺らぎ方もよく似ていた。
見ている間にも、光は少しずつ薄くなっていく。
誰も、動かなかった。
ヨシがしゃがみ込み、その光に指先を近づけた。触れる寸前で、止めた。

「......これ」

それだけ言って、続きが出てこなかった。
言葉に詰まったような、短い沈黙があった。
ジョウは、三日前の夜のことを思い出していた。
開いた窓。誰もいないはずの時間に響いていた声。
同じフレーズを、何度も、何度も歌い直していた誰か。
あの声が、ここにあった。
そして今、床の上で――消えかけている。
ジョウは自分の喉に手を当てた。理由はなかった。
ただ、そうせずにいられなかった。
しばらくして、ヨシが立ち上がった。
いつもの飄々とした表情が、どこにもなかった。

「......間に合わなかった」

唇を噛みしめる。それ以上、何も続かなかった。

「三日前に、僕は気づいていたのに......あの夜、ルールなんて無視して、部屋を確認してさえいれば、きっと――!」
「よっさん!」

ジョウは思わず、ヨシの肩を強く掴んでいた。

「それは違う!」
「でもっ......!」
「確認していたとしても、結果が変わっていたとは限らない!」
「だけど――変わっていたかもしれないじゃないか!」

ヨシの声が、部屋の壁に反響して消えた。
普段、感情の起伏をほとんど声に乗せない男だった。
それだけに、この一声は――やけに、部屋に響きすぎた。
激昂するヨシの瞳を見つめながらジョウはそれ以上
言葉を紡ぐことができなかった。
変わっていたかもしれない。
その可能性を、否定する言葉をジョウは持たなかった。
床の光の残滓は、二人の言い争いをあざ笑うかのように
静かに、完全に消滅した。
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法鍵士は夕暮れに鳴る作者:福天六(ふくたむ)
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第14話 名も知らぬ歌い手

ある夜、開いた窓の隙間から、切なくなるほど美しい歌声が聞こえた。
学内の巡回の帰り道。
時刻は夜の十時を過ぎており、構内は誰もいない気配で満ちていた筈。
なのに、それは確かにそこにあった。
声は、聴覚よりも先に、皮膚に触れてきた。
夜気ごと、肌の表面をひたひたと撫でていくような感触。
ヨシと同じ高い音域が響いていた。だが、それは訓練された声の質感ではなかった。
誰かに聞かせるためではなく、夜そのものに自分を溶かしていくような
祈りに近い震え方をしていた。

ジョウの足は、意識するより先に止まっていた。
曲名も歌詞も分からない。それでも、声の輪郭だけが
鼓膜の奥ではなく、もっと深いところに焼きついていく感覚があった。
細く、今にも折れそうなのに芯だけは決して揺るがない、
そんな手触りの声の様に思えた。
震えるところは繊細に震え、伸びるところはどこまでも真っ直ぐに伸びていく。
上手いとか下手とか、そういう物差しでは測れなかった。
ただ、その声が「今、ここに在る」という事実だけが
胸の奥にじんわりと重みを持って沈んでいった。

「......素質者、か?」

ジョウが気づいたときには、もう声が口をついて出ていた。

「かも......しれないね」

ヨシが応じた。その気配が、ほんの少しだけ張り詰めるのが分かった。
トウゴは何も言わなかったが、隣で息を潜める気配だけがあった。
三人とも、声の届く範囲から動けなくなっていた。
歌はまだ続いていた。ひとつのフレーズが途切れ、短い静寂が挟まる。
息を整えているのか、迷っているのか――
その"間"の質感だけで、ジョウには何となく伝わってくるものがあった。
まだ終わっていない。あの声はもう一度、紡がれようとしている。
案の定、また声が戻ってきた。さっきよりも慎重に、丁寧に。
同じ旋律を一音ずつ確かめるように響いていた。

(上手くいかない部分があるんだな......)

根拠なんてなかった。けれど、そう感じる。
夜遅く一人きりで、納得のいかない箇所を
何度も、何度も歌い直している――その気配だけが
ジョウの胸の奥に、痛みに似た形で残った。

「確認しに行く?」ジョウが問うと、
「うーん。今夜はやめておこう」ヨシが静かに首を振る気配がした。
「なんでだよ」
「強制しちゃいけないからね。まだ自覚のない人間にこちらから踏み込むのはルール違反だし、何より怖がらせてしまう」

それもそうだ、とジョウは自分を納得させた。
納得しながらも、未練だけがまだ耳の奥に残っていた。
声はまだ、同じフレーズを繰り返している。
少しずつ、本当に少しずつ、自分の声を削り出すようにして。
遠ざかる歌声を背中に感じながら、三人は再び歩き出した。
ジョウは歩調を進めながら、まだ耳の奥で震え続けているその余韻を
記憶のどこか柔らかい場所に、そっと仕舞い込んだ。
名前も知らない。顔も知らない。
それでも、あの震えだけは、確かに自分の中に残しておきたかった。
夜遅く、一人きりで、何度も同じ場所を歌い直していた、誰か。
だが、三人がその声に触れたのは――それが最初で最後になった。

*

三日後。
連絡を寄越したのはヨシだった。
それは、新たな声紋鍵の反応を捉えたという前向きな報告ではなかった。
――素質者が一人、行方不明になった。
ヨシが本部に届いた報告書をめくり
ジョウとトウゴに向けてその内容を読み上げた瞬間
部屋の空気が、急に重さを増した気がした。
誰の息遣いも聞こえなくなる。
自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと耳の奥で鳴っていた。
「音楽学部の一年生。昨夜から完全に連絡が途絶えている。
最後に目撃されたのは、音楽学部棟の練習室」
その一言を聞いた瞬間、ジョウの喉の奥が、勝手にひやりと冷えた。
気づけば、椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
「あの、歌声の子か」
「......おそらくね」
ヨシの声から、いつもの緩さが完全に抜け落ちていた。
その硬さだけで、事の深刻さが肌に伝わってくる。
「行くぞ」
トウゴの声が短く落ちた。振り返ることさえせず
すでにドアノブに手をかけている。
その足音の速さに、ジョウの胸がどくりと跳ねた。
言葉を交わす余裕もないまま、二人の背中を追いかけていたジョウは急いで移動する間、彼女の名前を知る事となった。
鈴峯すずみね 歌夜かや。二十一歳。声楽専攻。
ヨシが調べ上げた端末の画面が、青白い光をジョウの目の奥に焼きつける。
画面を持つヨシの指先が、かすかに強張っているのが分かった。
彼女が生きてそこにいた証拠は、その小さな光の中に転がっているだけだった。
ジョウの胸の奥が、勝手に締めつけられた。

* * *

音楽学部棟の練習室の扉は、施錠されていなかった。
正確に言えば――鍵穴の周囲に、異常な破壊の痕跡が残されていた。
トウゴがその場にしゃがみ込み、無骨な指先でドアノブの縁をなぞる。
立ち上がったトウゴの顔は、酷く険しく歪んでいた。

「声紋鍵で強引に開けられた跡だ。だが、この残存エネルギーの性質は......
封印の術式に近い」

その言葉を聞き、ジョウの脳裏にあの男の張り付いた笑顔が過った。

「......あのクラヴィスか」

ジョウが呟いた。

「俺もそう思う。クラヴィスの仕業だ」

押し殺した緊張感の中、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れる。
個人練習室の狭い空間には、一台のグランドピアノと、譜面台。
そして椅子が置かれていた。
室内は、信じられないほど整然としていた。
あまりにも、綺麗に片付きすぎていた。

誰かがつい先ほどまでここで歌い、生活していたはずの部屋。
その痕跡は、どこにも残っていなかった。
なのに、椅子は机にきっちりと収まり、楽譜は開かれてすらいない。
片付けられすぎている。まるで、最初から誰もいなかったかのように。
ジョウの視線が、床の一点で止まった。
ヨシも、同じ場所を見ていた。
コンクリートの上に、指先ほどの光が滲んでいた。

淡いゴールド。
それは、ジョウ自身の喉から出るものと、
色も揺らぎ方もよく似ていた。
見ている間にも、光は少しずつ薄くなっていく。
誰も、動かなかった。
ヨシがしゃがみ込み、その光に指先を近づけた。触れる寸前で、止めた。

「......これ」

それだけ言って、続きが出てこなかった。
言葉に詰まったような、短い沈黙があった。
ジョウは、三日前の夜のことを思い出していた。
開いた窓。誰もいないはずの時間に響いていた声。
同じフレーズを、何度も、何度も歌い直していた誰か。
あの声が、ここにあった。
そして今、床の上で――消えかけている。
ジョウは自分の喉に手を当てた。理由はなかった。
ただ、そうせずにいられなかった。
しばらくして、ヨシが立ち上がった。
いつもの飄々とした表情が、どこにもなかった。

「......間に合わなかった」

唇を噛みしめる。それ以上、何も続かなかった。

「三日前に、僕は気づいていたのに......あの夜、ルールなんて無視して、部屋を確認してさえいれば、きっと――!」
「よっさん!」

ジョウは思わず、ヨシの肩を強く掴んでいた。

「それは違う!」
「でもっ......!」
「確認していたとしても、結果が変わっていたとは限らない!」
「だけど――変わっていたかもしれないじゃないか!」

ヨシの声が、部屋の壁に反響して消えた。
普段、感情の起伏をほとんど声に乗せない男だった。
それだけに、この一声は――やけに、部屋に響きすぎた。
激昂するヨシの瞳を見つめながらジョウはそれ以上
言葉を紡ぐことができなかった。
変わっていたかもしれない。
その可能性を、否定する言葉をジョウは持たなかった。
床の光の残滓は、二人の言い争いをあざ笑うかのように
静かに、完全に消滅した。
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法鍵士は夕暮れに鳴る作者:福天六(ふくたむ)
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