第11話 絆創膏の言い訳
* * *
「鍵城くーん、3番テーブル、オーダー通ってないよ」
喫茶店「ミチクサ」のカウンターの奥から飛んできた声に、
ジョウは弾かれたように顔を上げた。
「あ、やべ......ごめん、今行きます!」
伝票を握りしめて駆け出すジョウの背中に、
呆れたような女性のため息が追いかけてくる。
声の主は、同じ大学の一つ上の先輩――野中 空。
ジョウよりバイト歴が半年ほど長いというだけで、
常に先輩面をしてくる同僚だった。
「鍵城くんさぁ、最近ぼーっとしてる時間長くない? 大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫。ちょっと寝不足なだけで」
「また『ワシ』って言ってたし」
「え、言ってた!?」
「言ってた。お客さんキョトンとしてたから」
からかうように笑う空に、ジョウは耳の先まで赤くなった。
「サークルにジョウ君みたいな人居るんだけどさー、なんか似てる......ウッカリさんなトコとか」
「そ、そんな奴いるの?」
「まぁ大した事ないけどねー」そう空は笑う。
最近は特に、ふとした瞬間に胸の奥が時折ざわつくことが多くなっていた
異形の気配とは違う、もっと些細な、日常に紛れ込んだ違和感。
でも今この店の中では、その違和感を追いかけるわけにはいかない。
「はいはい、集中集中。3番、アイスコーヒーとナポリタンね」
「わ、分かってる」
厨房の奥からひょいと顔を出したのは、この店のオーナー――片桐さんだ。
還暦手前だというのに動きは若い店員より機敏で、口も達者だ。
「鍵城、お前また手に絆創膏増えてないか」
不意打ちのように指摘され、ジョウの肩がビクリと跳ねた。
とっさに左手を後ろに隠す。
「あ、ああ......これは、その、階段でちょっとすっ転んで」
「先週も似たようなこと言ってたな」
「そ、そうでしたっけ?」
「言ってた。バイト先で骨折でもされたら困るんだよ、うちは」
片桐さんの目は疑わしげに細められていたが、それ以上は追及してこなかった。
ただ、厨房に戻り際、ぼそりと付け加える。
「無理すんなよ。何かあったら、ちゃんと言え」
その背中に、ジョウは何も言えなかった。
言えるはずがなかった。異形と戦って腕を切られたなんて、口が裂けても言えない。
ただの言い訳が、思いのほか胸に重く沈んだ。
*
昼のピークが過ぎ、店内が落ち着きを取り戻した頃。
カランと軽やかにドアベルが鳴り、一人の男性客が入ってきた。
歳の頃は二十代後半だろうか。仕立ての良さそうなジャケットを羽織り、
物腰は柔らかいが、どこか隙のない立ち姿をしている。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
空が愛想よく声をかける。男は軽く会釈をして、
窓際のカウンター席――ちょうどジョウが担当するエリアに腰を下ろした。
「ご注文、お決まりになりましたら――」
伝票を手に近づいたジョウに、男は柔らかく微笑んだ。
「ブレンド、ホットで」
「かしこまりました」
なんてことのない、只の注文で終わる予定にするつもりが、
だが......伝票にペンを走らせるジョウの喉の奥が、
ほんの一瞬だけ、微かに――鳴った。
(......気のせい、だよな)
深く考えず、ジョウは厨房へ戻った。
コーヒーを淹れ、湯気の立つカップをその男の前へと運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
男はカップを受け取ると、静かに一口飲んだ。
特に会話もなく、男はしばらく窓の外を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。
やがて席を立ち、レジへと向かう。
ジョウが会計を打っていると、男が財布から小銭を出しながら、
「頑張ってね、見習いクン」
「あ、ありがとうございます!」
顔を上げたときには、男はすでにレシートを受け取り、
柔らかい笑みを浮かべたまま踵を返していた。
「またくるね」
軽やかな声だけを残し、男はドアベルを鳴らして店を出ていく。
ジョウはレジの前で、しばらく硬直したまま動けなかった。
「おっ、常連さんが増えたかな? やったじゃん!」
片桐さんが厨房から顔を出し、ジョウの肩を嬉しそうに小突いた。
「あんな爽やかな兄さんに気に入られるとはなぁ。
おい、次来た時はサービスでクッキーの一枚でも付けてやれよ」
「あ、はい......」
上の空で頷きながらも、ジョウはガラス扉の向こうに消えていった男の背中を
目で追い続けていて。
歩き出したジョウの喉の奥で鳴ったあの微かな違和感は、
まだ小さく燻り続けていた。
*
閉店間際。一人になった厨房で、片桐は冷蔵庫の扉をそっと開けた。
営業許可証の裏、剥がれかけた紙の隙間に、古い白銀色の紋章がまだそこにある。
もう何年も、誰にも見せていない。これからも、見せるつもりはない。
「......これから、別の意味で忙しくなるな」
火のついていない煙草を、そっと灰皿に置いた。
――あの子が知る必要は、きっとない。