第41話 冷たい手
*
足元が、揺れていた。
音も光もない。上下の感覚だけが曖昧な暗闇に、扉が一つ、ぽつんと立っている。
軋みながら扉が開き、中から影が這い出した。
人の形を歪めたような、異形。触手のような腕が鞭になってしなり、
トウゴを打ち据えた。
血を吐いた。それでも群青の鍵を握り直す。膝は折らなかった。
(......カガリさんなら、こうする)
拾われた理由は、何年も経ってから、一度だけぶっきらぼうに告げられた。
『放っておくと、お前は一人で勝手に死ぬと思ったからだ』
褒められたことも、慰められたこともない。稽古らしい稽古も覚えていない。
ただ隣に並んで走るうちに、同じ足捌き、同じ動きが身体に移っていた。
トウゴの鍵が床を這う軌道を描くのは、カガリの鍵がそう動いていたからだ。
血の繋がった誰かに型を教え込まれた記憶も、うっすらとある。だが身体が覚えているのは、そちらではなかった。
どちらかが限界のとき、もう一方は何も言わずに前に出た。それだけで、通じていた。それが、救いだった。
暗闇には、誰もいない。ここで折れれば、外の二人が死ぬ。トウゴは、泥を踏むように立ち続けた。
*
澪の光が、爪のように三方向へ裂けた。
ヨシは正面を鍵で受け、左を身体を捻って躱した。右からの変則の一撃だけが、間に合わない。
右腕を、深く掠められた。
「あのさぁ、一度見たら読める、ってよっさん、前に偉そうに言ってたよねぇ?」
澪が肩を揺らす。
「私も同じ。同じトレブルだもん、手の内は透けて見えるの。......あっちのお弟子ちゃんは、今ごろいい夢でも見てるんじゃない?」
「やめろ......っ!」
ヨシは唇を噛んだ。同じ音域だ。
普通に戦えば、こちらの動きはすべて先読みされる。
なら、戦い方を切り替える。
ゆっくりと息を吐いた。手の角度を、内側へ絞る。外へ伸びていた白銀が折り返し、自分の内側へ、鋭く収束していく。
「......封印モード」
澪の目が、初めて細くなった。
「解放と封印、両方を扱うのが、僕だからね」
穏やかな声だった。瞳だけが、氷のように冷たい。
「同じ音域でも、質を変えた。君の目でも、簡単には読めないだろう?」
澪が半歩退いた。
白銀が、床の境界を這う。内側へ絞られた不規則な軌道が、先読みを裏切った。
澪が弾こうとして、一手遅れる。
シュウ、と静かな音。白銀の切っ先が、澪の上着の胸元を裂いていた。
澪は裂け目に目を落とし、動きを止めた。
「......なんで」
掠れた声だった。
「トレブルは、一つを極めるものでしょ。解放か封印か、どちらかに特化してこそ出力が出る。なんであんたみたいな中途半端な男が、両方を――!」
声が裏返りかけて、自分で堰き止めた。笑顔を取り繕う。戻るのが遅かった。
「しょうがないよ......両方の血を持って、生まれてきてしまったから」
澪は、一瞬揺れるヨシの眼を見て、何も言い返さなかった。ファルセットの光が、ほんの一瞬、不格好に揺らいだ。
*
暗闇を割って、カガリの手が差し伸べられた。
「......カガリさん」
「トウゴ。もういい。俺と一つになれば、苦しむ必要はなくなる」
慈愛に満ちた眼差しでトウゴに言葉を紡ぐ。記憶の中のぶっきらぼうな顔とは、まるで違う。
「封印派の重圧からも、茨の道からも、解放してやる」
声が、傷の隙間へ滑らかに染み込んでくる。すべて投げ出して、
この人の隣に引きこもれたら、どれほど楽か。
ずっと、本当はそうしたかったのではないか。
指先が、迷いながら手に近づく。群青の光が揺らぎ、消えかけた。
あと数センチのところで、指が止まった。
理由は分からない。ただ、目の前の掌を見ているうちに、頭の奥で何かが引っかかった。
(......あったかい)
カガリの手は、いつも冷たかった。血の巡りが悪いのだと、昔ぶっきらぼうに言っていた。冬の稽古で握られるたび、氷のような冷たさに驚いた。
なのにこの手は、こちらが欲しがるものを測って用意したような、都合のいい温度をしていた。
(違う)
トウゴは、指を引いた。
「......あんたは、カガリさんじゃない」
差し伸べられた手が、ぴたりと止まる。笑みは変わらない。
だがその奥で、張り詰めた糸が軋んだ。
「あの人の手は、冷たかった。こんなふうに、あたたかかったことはない」
手の中で、消えかけていた群青が、力を取り戻していく。
「俺を甘やかしたことなんて、一度もない人だ。それでも俺は、あの背中に救われてきた」
偽りの姿が歪み、優しい笑顔の下から、異形のノイズが滲み出した。
トウゴは、もうそれを恐れなかった。
*
トウゴは、目を開けた。
荒れた路地に、カガリが立っていた。姿も、動きもカガリのままだ。
ただ手の中の鍵だけが濁り、輪郭が歪み、ノイズが混じっている。
それでも、鍵が地を這う軌道だけは、寸分違わずカガリのものだった。
(......癖が、まだ残っている)
動かしているのは、この人ではない。この人は、とうにいない。
残っているのは、身体に染みた戦い方と、消えきらなかった意志の欠片だけだ。
それが、抵抗するようにそこにある。
言葉は、なかった。カガリの口から漏れるのは、意味をなさない異音だけだ。
トウゴも、何も言わなかった。
群青が、地を這って正面からぶつかる。同じ流儀、同じ軌道。師弟の鍵が、火花を散らして押し合った。
(こんな冒涜を、あの人が許すはずがない)
終わらせるのは、自分でなければならない。
隣に並んで走った背中が、脳裏をよぎった。
「さよなら、カガリさん」
視界が滲んでいた。
「......クローズ」
叫ばず、怒鳴らず、祈るような低い声だった。
術式が霧散した。
カガリのいた場所に、一本の鍵が落ちていた。
濁ったノイズの残滓が薄く滲んでいる。
その奥に、本来の深い群青が、確かに残っていた。
トウゴは何も言わず、それを拾い、胸の奥へ仕舞った。
*
澪の動きが止まっていた。笑顔が消えている。冷静に勝算を弾く目でもない。
目の前で起きたことを、信じられないという顔だった。
「......本当に、自分の手で封印したの」
独り言のような声だった。
「一番大切な師匠を、こんな短時間で......」
忌々しげにそれだけ吐くと、澪の鍵が霧のように消えた。
「今日は、ここまでにしといてあげる」
背を向けて歩き出そうとした。が、
「待て」
低い声に振り向いた瞬間、トウゴはもう間合いにいた。
咄嗟に鍵で受けた澪の喉が、小さく鳴った。澪は思わず、喉に手を当てた。
次の斬撃を堪えきれず、身体が吹き飛んで段ボールの山に突っ込んだ。
崩れた山が身体を押さえ、動けない。
「貴様、触れてはいけない場所を汚したな」
トウゴの手が、鍵の柄を握って白く震えていた。
「ひっ......」
「ごーさん、待って!」
咄嗟にジョウが群青の柄を押さえる。
「待たない。こいつは、俺の大切な記憶を無茶苦茶にした」
「ここでごーさんがやったら、コイツがごーさんにやったことと、同じになる」
「......っ」
「怒りに染まっても、カガリさんは望んでないと思う」
トウゴは、何も言わなかった。喉の奥に、鉄の味がした。
怒りを飲み下したときの味だ。
ジョウの言葉が、胸のどこか柔らかい場所を押した。反論しようと開いた口が、
行き場を失って閉じる。
群青の鍵を握る掌に、汗が滲んでいた。
(......そうだな)
トウゴは鍵を収め、澪の前にしゃがんだ。手を翳す指が、一瞬だけ止まる。
ジョウに使えなかった術が、頭をよぎった。
それでも、手は下ろした。
「......やめっ...」
「クローズ」
柔らかな光が、澪を包んだ。
「ごーさん、何を......」
「記憶を封じた。幹部の頃も、法鍵士の頃も、全部だ」
静かな声だった。問うたのはジョウなのに、責められている気がした。腹の底が、まだ熱いままだった。
光が消えると、澪は瞬きをして周りを見た。
「ここは......?」
「大丈夫ですか。ここに倒れてましたよ」
「そうなんだ......でも」
澪は三人を見渡した。
「貴方たち、どこかで会ってない?」
「人違いです。よく言われるんですよ」
トウゴが答える。澪はふらふらと立ち上がり、スマホを取り出しながら、倉庫街の方へ歩き去った。その背中が見えなくなるまで、三人は黙って見送った。
「......放っておいていいのかな」
ジョウが小声で聞く。
「記憶がない以上、もう脅威じゃないよ」ヨシが答えた。「それに、今は僕らも動ける状態じゃない」
夜風が頬を撫でた。遠くの幹線道路の音が聞こえてくる。
澪の結界が霧散し、遮られていた世界の音が、一気に戻ってきた。
荒れた路地に、三人の息遣いだけが重なる。
トウゴは地面に目を落としたまま、手の中の群青を仕舞った。
それから、ゆっくりと二人の方へ向き直る。
「ごーさん......」
ジョウの声が、震えていた。
トウゴは答えなかった。ただ、顔を上げた。
涙の痕が、頬に残っていた。
「二人とも......ただいま」
ジョウとヨシは、何度も、静かに頷いた。