第32話 答え合わせの約束
*
深夜。
B-ブロードの拠点――キャンパスの最奥に位置する、
使われていない旧研究棟の一室。
そこに、ジョウはいた。
最近はバイトの帰りが遅くなるからという理由で、
ヨシから予備の鍵を渡され、ここで寝泊まりすることが増えていた。
今夜、ヨシの姿はなかった。
別の場所で用事があると言っていたが、
トウゴにとってはこれ以上ない好都合に思えた。
ジョウは薄暗い床にぽつんと座り込み、ぼんやりと天井を見上げていた。
最近のあいつは、よくこの姿勢を取っている。
失われた記憶の断片を、暗闇の中から必死に手探りで探すかのように、
遠くを見つめていた。
「ごーさん? どうしたの、こんな時間に」
背後の気配に気づき、振り返ったジョウが、
いつもと変わらないトーンで言った。
一切の警戒心がなかった。
この男は、自分に対して最初から無防備すぎる。
その無防備さが、今のトウゴには重くのしかかった。
ポケットの中の封筒が、やけに冷たく感じられる。
トウゴは重い足取りで、静かに部屋の中へと足を踏み入れた。
「少しいいか」
「いいよ」
ジョウが床に手をつき、立ち上がろうとする。
「......座ってろ」
低く制し、座らせたまま、その距離を詰めた。
ジャケットのポケットの中、
手の中で、堰から渡された術式の紙をじっと握りしめていた。
自身の『バス』の声紋鍵を使えば、すぐにでも発動できる。
たった一言、低く特定の音域で声を投げかければ――
ジョウの喉の封印は再び、強固に施される。
痛みはない。本人も気づかない。
ただ心地よい眠りに落ちるように、過去へと続く記憶の道が永遠に閉ざされる。
けれど......それを行えば、
ジョウの記憶から、トウゴやヨシと過ごした日々の記憶さえも、
すべて消えてしまう可能性があった。
ジョウは床から、じっとトウゴの顔を見上げていた。
「なんか、すごい怖い顔してるね」
「......うるさい」
「いつもより、眉間のシワが深いよ」
「黙れと言っている」
ジョウが、ふっと小さく笑った。
「ごーさんってさ、怒ってるときと、
ワシのことを心配してくれてるときの顔、全くおんなじだよね」
ポケットの中、紙を握る手に、無意識に力がこもった。
視線が、一瞬だけジョウの顔から逸れる。
逸らした先に何もないと分かっていながら、それでも逸らさずにはいられなかった。
「......何を、言っている」
「だってそうだよ。ワシにきつい毒舌を言うときって
大体ワシが無茶しそうなときか、ワシが落ち込んでるときか――
そのどっちかだからさ」
部屋の中が、静まり返る。
ジョウは、穏やかな声で言葉を続けた。
「今日も、何かあったんでしょ? ワシのことで」
トウゴは、何も答えられなかった。
「記憶ね、少しずつ戻ってきてるんだ」
ジョウが言った。あまりにも唐突な告白で。だが、その声音はどこまでも静かに感じた。
「本当に、パズルのかけらみたいな断片なんだけどね。
誰かの声とか、すごく冷たい扉の感触とか。でも、不思議と怖いとは思わないんだ。
それよりも......知りたいって気持ちの方が、今は何倍も強いから」
「......そうか」
「ごーさんは、ワシの過去、知ってるの?」
あまりにも真っ直ぐな、逃げ道のない直球。
トウゴは答えを返さなかった。いや、返せなかった。
「知ってそうな顔をしてるからさ。よっさんとは、また違う感じで。
よっさんは全部自分の目で見て知っている顔だけど、
ごーさんは――なんていうか、記録として知っている、みたいな顔だから」
鋭すぎる。
記憶は失われていても、この男の持つ直感だけは、やはり本物だとトウゴは思った。
「でも、教えてもらわなくていいよ」
ジョウが微笑んだ。
「え」
「今は、ね。ワシが自分で、ちゃんと思い出したいから。でも――」
ジョウがトウゴの瞳を、真っ直ぐに射抜いた。
混じり気のない、自身のすべての感情を乗せた、濁りのない瞳にトウゴが映る。
「ワシが全部思い出したとき、ごーさんが知っていることと
答え合わせをさせてくれたら、それでいいから」
ポケットの中。
トウゴの手の中で、術式の紙が――
怒りに任せて強く握りしめられたまま、そこにあった。 使えなかった。
論理的には、絶対に使うべきだった。
記憶が戻ればジョウは間違いなく危険に近づく。
今ここで全てを封じ込めれば、この男を安全な日常へと守り通すことができる。
それは、封印派として、そしてトウゴ個人の正義としても、
間違いなく正しい筈。 けれど――。
目の前にいるジョウは、自分の意志で「知りたい」と言ったのだ。
「自分で思い出したい」と、前を向いて笑ったのだ。
それを、また大人の勝手な理屈で、力ずくで奪い去るというのか。
トウゴは、ゆっくりとポケットから手を下ろした。
術式は、ついに発動しなかった――。
「......覚えておけ」
胸の奥から、絞り出すようにして声を放つ。
「何を?」
「お前がそこまで言うなら――意地でも思い出せ。途中で決して止めるな」
ジョウが不思議そうに、少しだけ首を傾げた。
「それって、もしかして応援してくれてるの?」
「違う」
「絶対にしてるって」
「していない」
「今、声がすごく優しかったよ」
「......うるさい、黙れ」
トウゴはこれ以上引き止められないよう、
即座に踵を返し、出口の扉へと向かった。
「ごーさん」
背後から、再びあの澄んだ声が追いかけてくる。
「ワシを守ろうとしてくれてたんでしょ、さっき」
トウゴは、二度と振り返らなかった。
「......さっさと寝ろ」
それだけを冷たく言い残し、部屋を飛び出した。
静まり返った廊下に出た瞬間、
トウゴはコンクリートの壁に激しく背中を打ち付けた。
そして、ポケットの中で、手の中に残っていた宝璽直々の術式の紙を――
これ以上ないほどの力で握りつぶした。
使わなかったのではない。使えなかったのだ。
それが、仲間を巻き込んだことへの罪悪感なのか、
それとも、あの少年の未来を奪いたくないという自身の『意志』なのか。
その答えだけは、暗闇の中でいくら考えても
自分自身でさえ全く分からなかったが、ジョウが拾い上げた紙は、
宝璽が何年も一人で抱えてきた発見の、ほんの断片に過ぎなかった。