第31話 正しさという檻
* * *
ジョウの記憶が、戻り始めていた。
トウゴには分かっていた。
戦闘訓練中のジョウの動きが、明らかに変化していたからだ。
考えるよりも先に身体が動くという、
ジョウ特有の野生めいた直感の動きの中に――
一瞬だけ、何かに怯え、惑うような
「躊躇い」が混じるようになっていた。
本能的な直感と、脳裏に去来する何か別のノイズが干渉し合っている。
それが何であるかを、トウゴは知っていた。
封印派の最高峰たる家系の人間として、
かつて閲覧した極秘の記録の中に、その答えはあった。
封印派の幹部であり、自身の兄でもある「堰(せき)」から連絡が入ったのは、
その日の夜。
スマートフォンの画面に表示された名前を見た瞬間、
トウゴは忌々しげに深く舌打ちをし、
通話ボタンを乱暴にスライドした。
『――統護。そろそろ、二人で大人の話をしようか』
指定された場所は、封印派が裏で管理するビルの一室。
表向きはありふれたコンサルティング会社。
トウゴがまだ幼い子供の頃から、
家の用事で幾度となく出入りさせられていた、冷たい記憶の場所だ。
行かない、という選択肢は最初から存在しなかった。
*
堰は、机の上に書類を一枚、几帳面に整えて置いていた。
トウゴが部屋に入ってきたことにすら、顔を上げるまで一拍の間があった。
挨拶も、労いもない。まるで、定例の業務報告を始めるような態度でトウゴに声を掛ける。
「鍵城ジョウっていう人間、どうやら記憶が戻り始めているね」
向けられた言葉に、トウゴの眉が微かに跳ね上がった。
「......監視していたのか」
「それがお前に与えられた、新たな本来の任務だろう?」
反論の言葉は出なかった。ぐっと奥歯を噛み締める。
「封印派の記録は、お前も当然知っているね。
数年前のあの惨劇の夜、禁忌の扉を開けてしまった法鍵士のことを」
「......知っている」
「それがジョウだと分かったとき、お前は一体どう思った?」
トウゴは答えなかった。 堰は、答えを急かさなかった。
沈黙を肯定と受け取ったように、淡々と続けた。
「記憶が完全に元に戻れば、ジョウは必ず再びあの扉へと向かう。
あの夜と全く同じ惨劇が起きる」
トウゴは、顎をわずかに引いた。反論はできなかった。
「いや――封印が半分解けかけている今の状態では、
あの夜よりもさらに巨大な歪みが生まれる可能性があるんだ」
言葉が、一つ一つ積み木のように積まれていく。
トウゴはそれを崩す術を持たなかった。
「そんな危険分子を扉に近づけるわけにはいかない」
「......分かっている」
「ならば」
「分かっていると言っている!」
トウゴの声が、無機質な部屋に鋭く響いた。
張り詰めた沈黙の中、堰は表情一つ変えず、机の上に一通の白い封筒をそっと滑らせた。
感情の起伏を示す代わりに、指先だけが正確な動作でそれを行った。
「封印の術式だ。宝璽さまが直々に編まれたものだよ。
お前の声紋鍵なら、問題なく発動できる。
一度それを行使すれば、ジョウは――また何も知らない、普通の大学生に戻る」
トウゴは、目の前の封筒をじっと見つめた。
見つめながら、脳裏にはジョウの顔が嫌というほど浮かんできた。
不器用な毒舌を吐くたびに、嬉しそうに懐いてくるあの妙な顔。
怪我はないかとぶっきらぼうに尋ねたとき、
「大丈夫」と言って屈託なく笑った、あの真っ直ぐな声。
「......ジョウは、何も知らなかったんだ」
トウゴは、声を絞り出すように言った。
「騙されて、あの扉を開けさせられた。その結果、記憶を失った。
それでもあいつは、必死に今日まで生きてきた。
その人間の記憶を、保身のためにまた力ずくで封じ込めることが――」
「それが『守る』ということだよ」
堰が、静かにその言葉を遮った。
「記憶が戻って再び扉に向かえば、また誰かが命を落とすことになるかもしれない。
あの夜のようにね」
トウゴの喉が、微かに鳴った。反論の形を取れないまま、ただ息だけが詰まる。
「それを未然に防ぐことこそが、我々――封印派の果たすべき『守護』ではないのか?」
トウゴの指先が、封筒の端に触れた。
論理は正しい。封印することこそが正義だ。
扉は永久に閉じるべきだ。
それこそが実家の、ひいては自分自身が信じてきた答えだったはずだ。
ずっと、そう思い込んで生きてきた。 けれど――。
『ワシの中に、それがあるんでしょ』
いつかの夜、ジョウが覚悟を決めたような声で告げた言葉が、
耳の奥から離れない。知りたいと言っていた。
自分に関係ない世界だとは、もう言えないと言っていた。
それを、また大人の都合で奪い去るというのか。
「......一つだけ聞く」
トウゴは堰を真っ直ぐに睨み据えた。
「これを執行すれば、ジョウは本当に安全になるんだな」
堰は、感情の起伏を一切見せないまま、ただ淡々と頷いた。
「もちろんだとも」
――嘘だ。 トウゴにはすぐに分かった。
長年、この男の背中を見てきたからこそ直感で理解できた。
堰が本当にジョウの身の安全など案じているわけがない。
これもすべて、組織の計画の一部に過ぎないのだ。
ジョウから武器を奪って無力化し、
封印派の絶対的な管理下に置くための、冷酷な罠だ。
分かっていた。すべて分かっていながら、
トウゴは、封筒を手に取ってしまった。
記憶が戻れば戻るほど、ジョウが破滅へと近づいていく。
堰の言葉がどれほど欺瞞に満ちていようと、その事実だけは変わらなかった。
元々は、ジョウには関係のない世界の筈。
ジョウをこちらの世界へ巻き込んだのは、他でもない、自分たちB-ブロードだ。