第八十六話 元鞘
肌寒さをまとう朝が、寝室の窓にも近づく。
逆に千佳伊の背後には、灼熱の砂漠すら見える。
感想についての熱さも増した。
「テキトーに書いたのも、渾身の一文も、書いたことがうろ覚えの文ですら」
掲げた拳を振り下ろす千佳伊。
「褒められると嬉しいものだ!」
「ハッキリ言い切るなよ」
「ウチわかる~! 全面的に同意~!」
勢いで抱きつこうとする弧見。
千佳伊が弧見の頭を鷲掴みにして止める。
「このように、無作為で選んだ文を雑に褒めるだけで心酔を呼び込める」
「えーーー!? 最新話の褒め言葉、嘘だったのチカチカ!?」
弧見が千佳伊の肩を揺らす。まるで洗濯機のように。
「ちょ、お、こみ、ゆら、し、すぎだーー!」
「んなことより、バン祭りに巻き込まれた作者はどう救済すんだよ?」
仙が二人を引き剥がした。
乱れた衣服を直しつつ、「考えはある」と返す千佳伊。
「AIには特有の言い回しがある」
「どんなだ?」
「一節で、表情や行動を深掘りしたのち、結局『分からない』に着地しがちだ」
「分かる~! アスタリスクで囲ってたり、半角空白が多いよね」
急に弧見も会話に割り込んできた。
「代名詞の表記揺れもめちゃ多いし!」
「ふむ。彼、男、少年、男性、頻繁に入れ替えているな」
「いや、表記揺れはお前らもやってんだろ?」
二人から睨まれ、たじろいだ仙が話題を変える。
「お帰り千佳伊。朝飯、食うだろ?」
「......食べる」
久しぶりに我が子を抱く千佳伊の顔は、とても柔らかかった。
数日後。
騒動は沈静化していない。
だが、千佳伊は自宅に戻り、穏やかな日々を送っていた。
「弧見よ。やはり家族はいいものだな。私は新作を書くぞ」
「うん、分かったから。いま立て込んでるし、話しかけないで」
扉越しに千佳伊は続ける。
「今度はハートフル長編に挑もうかと思う。NTRされてからの逆転劇だ」
「そう......それはいいんだけど......」
扉の向こうを睨み、怒りの鉄拳を叩き込む弧見。
「いまウチに話すこと?」
「弧見には早めに宣言したくてな」
「これって完全にハラスメントだよね? ね!?」
便秘でトイレにこもる弧見が声を荒げる。
扉一枚を隔て、千佳伊が頷く。
「ハートフル作品で仙の心も体も奪うから覚悟しろ」
「チカチカにハートフルは書けないよ! 病みすぎ!」
水を流す音と共に、勢いよく扉が開かれる。
録音していた千佳伊のスマホを、弧見が手刀で叩き落した。
「それに多伊奈ちゃんがママって呼ぶのはウチだから!」
「......弧見よ。ハートフルとはハートフルボッコの略ではないぞ?」