03:赤眼の捕食者
――不快な匂いと水の音。
その方向に桜華が視線を凝らすと、茂みの陰にパンツスーツ姿の女性の足が見えていた。同時に、鉄錆のような匂いが急激に濃くなる。
「ひ、人が倒れてる? だ、大丈夫ですか?!」
よく見るとその足は微かに痙攣しているように見えた。
(体調を崩して倒れたのかしら? だったら早く救急車を呼ばないと!)
桜華はその『女性』に近づき、そこで起きていた常識を超えた事態を目の当たりにした。
リクルートスーツに身を包んだ20代らしき女性が、血の気の失せた顔でそこにいた。どうやら就職活動中であったのだろう。
しかし、その首筋には、ヨーロッパ系の外国人と思われる男が食らいつき、その血液を啜っている――まさしく吸血行為の最中だったのだ。
「な⋯⋯何をしているんですかっ!その人から離れなさい!」
桜華は手にしていたスクールバッグを男めがけて投げつけ、そのおぞましい行いを阻止しようとした。
男は衝撃を感じ、ゆっくりと立ち上がった。身長は180cmほど。細身でやや長い金髪の、30代くらいの青年で、ブラウンのモッズコートを着用していた。
整った顔立ちをしていると言っていい。だが、男は桜華に対し、口元をいやらしく歪ませた笑みを向けながら、言葉を発した。
「これはこれは、可愛らしいお嬢さん。私の『食事』を覗き見るとは、いささかマナー違反ですねぇ」
亮の忠告が桜華の脳内でリフレインする。
(危ないと思ったら逃げろ⋯⋯。それが一番だ)
しかし、桜華の生来の気質。おせっかいの仕切り魔、そして自覚していないが彼女の正義感がその判断を遅らせてしまった。
「な、何を言ってるの! ふざけないで! け、警察を呼ぶわ!」
その男は、桜華の叫びに応えるかのように、さらに歪んだ笑みを深くし、ゆっくりと彼女へと歩み寄った。
「警察⋯⋯ね。日本の警察など私にはどうということもありませんが⋯⋯私の存在が知られてしまうのは厄介ですね」
周囲に甘い香りが立ち込めていた。
桜華がそれに気づいた時には、すでに体は思うように動かず、動きは鈍くなっていた。
「な、なに⋯⋯? からだが⋯⋯」
「さあ⋯⋯私の目をみつめなさい⋯⋯」
男の青い瞳は血のように赤く染まり、そこから邪悪な光を放った。
「あっ⋯⋯?」
その赤い双眸に見入られた瞬間、桜華の世界から音が消えた。
底なし沼に引き込まれるような感覚に襲われ、彼女の瞳からは輝きが失せ、その体はふらついていく。
(ゆーくん⋯⋯せんぱ⋯⋯い⋯⋯)
やがて彼女の体は、まるで糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
地面に完全に倒れる寸前、男は彼女を仕留めた獲物のように受け止めて抱きかかえた。
「さて⋯⋯『食事』はもう十分。そろそろ手駒が欲しいところです。見たところ女子高生。学生の身分を利用した工作員として育て上げるのも悪くありませんね」
男は大きく口を開いた。そこには一般的な人間にはありえないほど長い犬歯――もはや牙と呼ぶべきもの――が露わになった。
「ですが、少しだけ味見させていただくとしますか⋯⋯」
そして、生温かい吐息が桜華の白い首筋に触れ、桜華の首筋に噛みつこうとした刹那――。
――周囲から音が掻き消えた。
木々のざわめきも、風の音も⋯⋯ましてや何者かが近づいてくる音すらも。
男が耳にしたのは、「ドスッ」というただ一つの鈍い音だけだった。
「ぐああっ?!」
男の右肩に深々とナイフ⋯⋯いや、忍者がよく使う武器として有名な苦無が刺さっていた。
「な、なんだ、これは、誰だ⋯⋯?!」
男は苦無を引き抜くと周囲を見渡した。
だが、周りには誰もいないようにしか思えなかった。
「へぇ⋯⋯吸血鬼だかなんだか知らないが、俺に気が付かないんだな? いや、俺の隠遁術が素晴らしいからか?」
姿は見えないのに、声だけが響き渡る。
「⋯⋯っと。調子に乗ったら、またおやっさんに小言を言われるな。⋯⋯その女は返してもらうぞ」
風景の中から滲み出るように現れた少年は、前蹴りで男を蹴り飛ばし、男の手を離れた桜華を抱きかかえた。
蹴り飛ばされた男は、先ほどの優雅さとはかけ離れた、驚愕と怒りに満ちた表情で少年を睨みつけた。
「この私に傷を負わせた上に、蹴り飛ばしただと⋯⋯?! 貴様⋯⋯ただの人間ではないな? 何者だ?」
男はそう口にしながら、肩に刺さった苦無を無造作に引き抜いた。
すると、その傷口からは湯気が立ち上り、傷は見る間に修復されていった。
少年は桜華を優しく地面に寝かせると、男に向き直った。
「さて何者かな? まあ、裏の世界じゃ『ツクヨミ』って呼ばれてるらしいがな」
少年は肩をすくめてみせた。
「ツクヨミ⋯⋯そうか、貴様があのL-02か! 我々『ガーデン』を裏切って逃げ出した、旧型の不良品め!」
『ガーデン』そして『裏切り者』という言葉。
それを聞いた瞬間、亮の脳裏に紅く燃え盛る故郷の空と、無残に奪われた家族の記憶がフラッシュバックした。それまで冷静だった少年の心にドス黒い怒りの炎が燃え上がる。
「ざけんなっ! 誰が裏切り者だ! てめぇらと一緒にすんじゃねぇ!」
少年、神月亮のこげ茶色の瞳が、怒りに呼応するかのように琥珀色に輝き始めた。
その強い光に、吸血鬼らしき男は一瞬ひるんだものの、すぐに自らのプライドを奮い立たせた。
「ふふふ。旧型の不良品めが。さきほどは油断したが、この最新型である私、V-10に勝てると思うなよ!」
吸血鬼――V-10と名乗った男に対し、亮は懐からさらに一本の苦無を取り出し、そして一つ息を吐く。
「ふうっ⋯⋯戦いではクールにならないとな。お前の思い込み、後悔することになるぞ!」
その言葉には、一切の迷いや躊躇がなかった。
やはりただの高校生とは思えない、冷徹な殺気が辺りの空気を震わせた。
「子どもの癖に生意気なっ!」
V-10の怒声と共に空気が爆ぜる。『ガーデン』の最新型強化人間と名乗ったその男は、怒りを露わにして亮に襲いかかった。
常人の目には到底捉えられない速度で振り下ろされた、鉄の鉤爪ように鋭い爪。それが風圧だけで、周囲の木々の葉がバラバラと散らせていた。
――ガキィン!
しかし亮はそれをこともなげに、右手で逆手に構えた苦無で受け止める。
「なにっ?!」
V-10は激昂し、槍の穂先のように一点に集中させた突きを連続で繰り出していく。空気を穿つ激しい風切音が鳴るが、亮はその全てを数ミリ単位で回避し、苦無の腹を使ってその攻撃を巧みにいなしていった。
空振りした爪が、木の幹をえぐり、土を削る。
しかし亮の体には掠りもしなかった。
まさに暖簾に腕押し、いや、まるで流れる『水』と戦っているかのように感じたV-10は、その屈辱に耐えきれず大きく後方に飛び退き距離を取った。
「こんな⋯⋯馬鹿な⋯⋯ なぜだ、 なぜ私の攻撃が当たらん!」
常人では捉えきれない動きをしていながら、亮は生き一つ乱していない。
そして、余裕を見せつけるかのようにV-10を挑発する。
「どうした? 最新型は俺より強いんじゃなかったのか?」
「くそっ、この小僧め!」
V-10は激しい焦燥感に駆られ、亮に向かって突進する。
しかし、吸血鬼型強化人間としての能力を駆使した攻撃が、またもや旧型とあなどっている少年にことごとく捌かれる。
そして自らの攻撃の隙間に放たれるカウンターとも言える亮の攻撃は、不死身であるはずのV-10の体力を徐々に奪っていった。
最新型強化人間としてのプライドが、目の前の裏切り者である初期型に手こずる現状を許すことなどできなかった。怒りと苛立ちがV-10の精神にもダメージを与えていく。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯! くそぅ⋯⋯」
「なんだ? ガス欠か? そうか、お前の活力は人間の血液か。格上との戦いも、窮地に追い込まれる経験もなかったんだな? だが、それももう終わりだ」
「ほ、ほざくな! この初期型風情がぁっ! この私の真の恐ろしさを見せてやる⋯⋯!」
V-10の瞳がギンッと赤く輝く、すると――
ガシッ
「なっ?!」
倒れていたはずの就活生の女性が、いつの間にか亮に組み付いていた。
「こんなもの、俺の力なら⋯⋯!」
亮は女性の腕を振りほどこうと力を込めようとした。
「おっと、それはやめておいた方が良いぞ、L-02」
「⋯⋯なんだと?」