02:屋上の聖域
殺人事件で騒然とする街を駆け抜け、亮は始業時刻までに学校にたどり着いた。
彼の通う高校――私立科戸学園は、少し事情がある生徒が集まることで有名だった。
廊下の片隅では自撮り棒を持ち動画配信のカメラを回す生徒、その横を外国語で流暢に談笑する帰国子女のグループが通り過ぎていく。
世間では『一風変わった高校』と噂される科戸学園。
しかし、故郷が焼き尽くされた光景が瞼の裏に焼き付いている彼にとって、この喧騒ですら、のどかで平和な『ごっこ遊び』のようにしか感じられなかった。
それでも(静馬に連絡がいくことを避けるため)授業には真面目に出席していたが、すでに彼にとっては知っている内容の繰り返しだったので、集中できていたとは言い難い。
そんな彼でも、学校にいることに意味を見出せるわずかな時間があった。
休憩時間の屋上。そこから生徒たちの何気ない活動を見たり遠くの風景を見つめることで、自分の特異性が薄まり心を落ち着ける場所⋯⋯と最初は思っていたのだが、最近はそうではないことに彼自身も気づいていた。
「あ⋯⋯やっぱりいたー。私が先だと思ったのに!」
重い鉄の扉が開く低い音が、屋上の静寂を破った。
その音に亮が振り返ると、吹き抜ける風に軽やかなレイヤーボブの毛先をなびかせて、瀬島桜華が少し不満げに頬を膨らませて立っていた。
「よお、瀬島。俺が先にいるのは当然だろ。ここは俺が主みたいなもんだしな」
そういって亮は犬歯を見せつけるようにニヤっと笑う。
「私物化よくない!」
瀬島桜華。科戸学園高等部の一年生。亮の後輩であり、彼の数少ない友人といえるだろう。
彼女はツカツカと歩み寄ると、亮から数歩離れたフェンスに背を預けた。わざわざ隣に並ぶわけでもなく、かといって離れすぎるわけでもない絶妙な距離感。
この桜華との屋上での一時。彼女との軽口の叩き合いこそが、本当の意味で彼の特異性をやわらげてくれていた。
「そういえば先輩。近くで殺人事件があったそうですよ」
「あー⋯⋯今日その現場近くを通ったよ。吸血鬼が出たとか噂になってたな」
「ええっ? 吸血鬼? ホラー映画じゃあるまいし⋯⋯ってまた、興味本位で調べようとしてない?」
「してないしてない。俺を野次馬みたいにいうなよ」
「そうそう、私たちフツーの高校生なんですから!フツーが一番!」
「普通⋯⋯ねぇ」
自分ともっともかけ離れた概念だと思い、亮は思わず苦笑した。
「あっ⋯⋯いま、私を、笑ったな?」
「違う違う、お前を笑ったわけじゃないよ。子育て中のJKが普通かねぇ?なんて思ってないからw」
「ほらー!!!」
『弟』を溺愛している桜華はその16年の人生のほとんどを『弟』に費やしている。『子育て中のJK』というのは、そんな桜華の弟への溺愛ぶりをおちょくった言葉だ。
プイッとそっぽを向いてフェンスに背を預ける彼女に対し、亮は数歩離れたコンクリートの段差に腰掛けて、呆れたように笑い返す。
わざわざ隣に並ぶわけでもなく、会話が途切れても気にならない無造作な距離感。そこにお互い異性を意識するような甘さは微塵もない。
ただお互い友人としての好意はあったのだろう。
亮だけでなく桜華自身もこの軽口の叩き合い自体どこか楽しいと思っていたからこそ、こうやって毎日屋上に上がってくるのだから。
「あ、でも、ゆーくんが心配だな⋯⋯迎えにいかなきゃ」
近くで起きた殺人事件ということもあり、桜華は『弟』を案じていた。
「そうだな、そうした方が良いだろ。過保護というヤツもいるかもしれないが、何か起こって後悔するよりはずっと良い」
「⋯⋯!」
桜華がふと口を閉ざしたので、亮が視線を向けると、彼女は胸元に手を当てていた。
「ん?どうした?」
「⋯⋯先輩って、たまに十七歳とは思えないような⋯⋯ズルい表情しますよね」
「ズルい表情ってなんだ⋯⋯?」
桜華の言葉の意味が理解できず、亮は自分の顔を両手で触って確かめていた。
「ゆーくんが襲われそうになったら、どうしよう。そうだわ、この私の合気道で」
「やめとけやめとけ。多少かじった程度の素人武道じゃ、かえって危ないぞ」
「じゃあ、どうすれば良いんですか?」
亮は、その桜華の質問に少し言葉を選んでから口を開いた。
「そりゃお前⋯⋯危ないと思ったら逃げろ。それが一番だ」
❖ ❖ ❖
放課後、生徒たちはそれぞれの活動へと向かった。
部活動に励む者、趣味のサークルで時間を過ごす者、そして生徒会活動に携わる者など。
全てのことに本気が出せない、あるいは本気を出してはいけない亮は、そのどれにも属してはいない、いわゆる帰宅部であった。
いつもならまっすぐ『ガスライト』に戻り、彼にとっての『日課』をこなすところだが、朝にみかけた殺人事件、そして瀬島桜華の「過剰なまでの弟への保護欲」が気になっていた。
亮は、下校する一年生の集団の中に桜華の姿を見つけると、彼女に気づかれないように、そっと気配を消して距離を取りながら彼女を見守ることにした。
「はぁはぁ⋯⋯ゆーくん、まだ小学校に残ってくれてるかな。事件が近くであったんだから、一人では帰らないで⋯⋯」
彼女にとって、彼女が「ゆーくん」と呼ぶ『弟』――正確には従弟だが――は、16年間の人生のすべてだった。幼い頃から世話をしてきたその『ゆーくん』こそが、彼女の世界の中心だったのである。
その小学校は科戸学園から20分ほど歩いた場所にあった。
傾きかけた太陽が街の影を長く伸ばしていることに気づき、早く『弟』と合流したいという思いが、彼女の足を速めていた。
「えっ⋯⋯集団下校?」
桜華は弟の小学校に到着し、校門に立っている守衛に話しかけた。
家族であることを伝えたが、守衛からは、ほとんどの児童はすでに帰宅しており、該当の児童も下校済みだと告げられた。
「さすがに近くで殺人事件があって、まだ犯人が見つかっていない、という話ですからねぇ。朝の職員会議で決定したそうですよ」
「そうですかー⋯⋯」
「でもひょっとしたらまだ追いつけるかもしれませんよ。ご自宅の方に向かってみてはいかがですか?」
「あ、そうですか! わかりました!家に向かってみます! ありがとうございます!」
守衛に頭を下げ、弟と合流するために桜華は急いで帰路についた。
桜華が自宅へと急ぐ道のりには森を擁する公園があった。集団下校のルートならば、児童たちは公園の中を通らず、その外周を歩いて帰るはずと桜華は考えた。
「⋯⋯この公園を突っ切れば、追いつけるんじゃないかしら?」
桜華の頭の中で、守衛の言葉がリフレインしていた。
――ひょっとしたらまだ追いつけるかもしれませんよ――
(集団下校だから安全? そんなわけない⋯⋯!)
相手は全身の血を吸い出すという噂の、まるで『吸血鬼』のような殺人犯だという。
もし凶器を持った男が襲いかかってきたら、引率の教師や子供たちの集団など、格好の標的でしかない。
(人の良いゆーくんだったら⋯⋯幼い下級生を庇ってしまうかも⋯⋯)
最悪な状況の想像が彼女の焦燥感を強く煽り、冷静な状態であれば絶対にしないであろう選択へと、彼女を駆り立てた。
公園の外周を歩く集団下校の列を想像し、ショートカットすることで一秒でも早く弟と合流できる、と彼女は直感的にひらめいた。
そして、その直感に従い、桜華は公園の中に足を踏み入れたが、血のような赤い夕焼けの光は生い茂る木々に遮られ、公園の内部はすでに夜のような濃い影が落ちていた。
整備された遊歩道ではなく、舗装されていない木々の間を縫うようにして、彼女は一目散に駆け抜ける。
しかし、公園に入った途端、彼女の胸の奥で、何かがざわついた。
(あれ⋯⋯なんか、変な匂い)
朝、亮が感じたのと同じ、微かに残る異質な気配。それは、生温かい、鉄錆のような血の匂いと、甘い香水と薬品のような刺激臭が混ざったような、不快なものだった。
それに加えて、さらに不快感を煽るように、ピチャピチャピチャと水に濡れたような、あるいは何かが液体をすすっているような音がしていた。
桜華は思わず立ち止まり、周囲の木立を警戒した。
(まさか、動物? でも、こんな森の奥じゃない、ただの公園なのに......)