01:日常の侵食
深夜の街を女性が『ナニカ』に追われていた。
――ストーカー?強盗?誘拐犯?
どれだけ走っても、どれだけ声を上げようとも、街の誰も彼女に気づく様子はない。
いや、女性はただ声を上げたつもりになっているだけで、実際には声など出ていないのかもしれない。
数十分前まで、彼女は賑やかなバルで友人たちと笑い合っていた。
ふわりと揺れる白いプリーツスカートも、首元が広く開いたオフショルダーのブラウスも、女子会の楽しい余韻と共に彼女を華やかに包み込んでいたはずだった。
だが今、そんな楽しさとは打って変わって、深夜の街を彼女は一人走っていた。
背後から迫る『ナニカ』の気配。ハイヒールが地面を打ち、カカカッと音を響かせるたびに足首に食い込み、ジンジンと痛んでいる。
家までは十五分ほど。友人たちを駅で見送ったあと、彼女は「このくらいの距離なら大丈夫」と本気で思っていた。その判断を今、彼女は激しく後悔していた。
それでも――足を止めることなどできない。
振り返ってはいけない。もし後ろから一定の距離を保ってついてくるあの『死の気配』と目が合ってしまったら⋯⋯。
ストーカーや強盗なんて生やさしいものではない、本能的な恐怖が限界に達した体を無理やり動かし続けていた。
「はあっはあっ⋯⋯!」
しかし、走り続けるにも体力の限界がある。
女性は息も絶え絶えになりながら、そして、必死に今の自分が助かる方法を考えながら、走った。
そして彼女は救いの光を見た。
それは深夜営業のコンビニエンスストアの明るい店内の光だった。
これでようやく⋯⋯あの『ナニカ』も諦めてくれるだろう。
なんだったら店員が警察に通報してくれるだろう、そう思って女性はコンビニエンスストアに飛び込んだ。
「助けてください! 何かに追われているんです!」
店内に入るなり、女性は助けを求める叫び声を上げた。
しかし、それに応えてくれる者はいなかった。
店内は明るいが、客も店員も、誰一人としていないのだ。
「そ、そんな⋯⋯だ、誰か、誰か助けてよぅ⋯⋯!」
コンビニエンスストアで救われると思った彼女は暗い絶望が迫ってくるのを感じ、恐れおののいていた。
――その時、コンビニエンスストアの自動ドアが開く。
音に気づいた女性がドアの方を見た時......彼女は赤い光を浴びる。
そして、その顔からは恐怖の色が消え、瞳から光が失われた。
❖ ❖ ❖
清々しい朝の日差しが、街の裏通りにひっそりと佇むレトロな喫茶店の窓から差し込んでいる。だが、その穏やかな空気を濁すように、遠くからけたたましいパトカーのサイレンが断続的に響いていた。
「おや⋯⋯? 何か事件でもありましたかな?」
この喫茶店『ガスライト』の店内で、マスターと思われる初老の紳士は、カウンターでのんびりとダブルエスプレッソを飲む制服姿の少年に、やや焦れた様子で声をかけていた。
「若、そろそろ時間ですぞ」
『若』と呼ばれた少年の名は神月亮。
美男⋯⋯というほどではないが、整った顔立ちをしている。
しかし特筆すべきは容姿ではない。彼から感じるのは鍛え上げられた獣とでもいうべき気配。
一度彼を知ったらなかなか忘れられない存在感があった。
「あぁ⋯⋯うん、いや、準備はできてるんだけどさ、俺、高校なんて行く必要ないんじゃないかな?」
エスプレッソをちびちび飲んでごまかそうとしていた亮だったが、マスターに急かされてついに諦めたのか、心底嫌そうな様子で返事をした。
「何をおっしゃいます! せめて高校くらいは卒業して頂きませんと、この静馬、亡き継一郎さまや、灯花さまに申開きもできませぬ!」
(いつの時代の武将だよ⋯⋯)
ガスライトマスター、月守静馬の、まるで、どこぞの戦国武将の家臣のような対応に、亮は顔をしかめた。
「わかった、わかったって⋯⋯卒業もなにも、俺まだ高校二年だけどなぁ⋯⋯ところで準備中のままでいいの? 普通に営業してれば良かったんじゃないの?」
「そうはいきません。昨晩あれだけ自主退学するだのなんだのおっしゃられては、若が学校にお出かけになるまで、しっかり目を光らせておかねばなりませんからな⋯⋯」
両親のいない亮にとって、後見人である静馬のことは親も同然に思っていた。
それもあって、多少は反発することはあっても、完全に突っぱねるということもできなかった。
「はぁ⋯⋯おやっさんも頑固だなぁ⋯⋯わかったよ。いってきまーす」
ついに根負けした亮は、店の扉に手をかけた。
「いってらっしゃいませ、若」
「若はやめろっていっただろ!」
カランカラン――。
亮の背中を見送るように、ガスライトのドアベルが鳴り響いた。
彼は不満を抱えたまま通学路を歩く。根負けしたとはいえ、納得がいかない気持ちはまだ残っていた。
「静馬のおやっさんの顔を立てて学校には行くけど⋯⋯正直勉強することもないんだけどな。まぁ⋯⋯いつものように屋上でアイツとダベるとするかね⋯⋯」
そのようにぶつくさと文句を言いながら、亮は学校へと向かっていた。
しかし、その彼の歩みを遮るかのように、通学路の途中にあるコンビニエンスストアには人だかりができていた。
「ん?なんだあれ?⋯⋯警官が整理しているな」
「はい、下がって―! 近づかないで―!」
そのコンビニエンスストアは亮も利用したことのある、ごく普通のコンビニ。
大通りに面したその店の入口には黄色い規制線が引かれ、多くの野次馬が集まっていた。周囲にはパトカーが何台も停まり、大勢の警察官が動員されている。
「規制線張られてるけど、事件かな?」
「真夜中に何かあったらしいわよ。殺人事件かしら?」
「いやいや、東京の⋯⋯こんな街中で?」
そのような野次馬たちのひそひそ声が亮の耳に届いた。
騒ぎの中心となっているコンビニエンスストアの奥を覗き込もうとするが、制服姿の警官に制されて見ることはできなかった。
「なんでも全身の血が無くなっていたとか⋯⋯」
「はぁ? 吸血鬼? 都市伝説じゃあるまいし」
「でも、死体が干からびていたって⋯⋯」
それは通常なら笑い飛ばされる程度のゴシップにすぎない、彼らの無責任なやりとりだった。
だが亮は、その特異な体質から、それが単なる噂話で終わるとは思えなかった。
「なんだか⋯⋯妙な匂いがするな⋯⋯?」
亮の鋭敏な感覚は、その場にいた誰にも感じ取れない微かな異臭を捉えていた。それは、鉄錆のような血の匂いと、甘くもあり刺激的でもある薬品のような匂いが混じり合ったものだった。
(この匂い⋯⋯殺人だろうな。なら、血の匂いは当然か⋯⋯ただ、甘い薬品の匂いは、ちょっと気になるな)
(『吸血鬼』⋯⋯ね。野次馬たちの噂、普通なら笑うところだが⋯⋯)
亮は、自分が感じた異様な気配、そして野次馬たちが噂している奇妙な事件について、若干の興味をもった。
(一応⋯⋯探ってみるか?)
彼は右手の人差し指と中指を立てて他の指を握るという、奇妙なハンドサインを作り、その指先を軽く額に当てて目を閉じた。
(被害者は⋯⋯女か。⋯⋯殺意の気配は⋯⋯微かに感じる程度しか残ってないな)
(犯人は⋯⋯この程度の微かな気配じゃ、特定は出来そうにねぇな)
亮はゆっくりと瞼を開き、手を元に戻した。
そして、何気なく見た腕時計を見て少しだけ顔を青くする。
「やっべ、こんな時間か! 遅刻したらまたおやっさんのお小言だ」
頭の中に渋い表情をした静馬の顔が浮かんでいた。
静馬は身寄りのない亮を、ここまで育ててくれた恩人でもある。その彼を悲しませることは亮の本意ではない。
「⋯⋯まあ、知り合いが巻き込まれたってわけでもないしな。俺が関わることでもないか」
亮は警察の規制線と人だかりを迂回するようにして、再び学校への道を進み始めた。
彼が立ち去った後も、そのコンビニエンスストアには、わずかながらも異質な空気が静かに留まっていた。