リュネ湖
「なに? ピーターが?」
ロイドは驚いたように顔をあげると、インク筆を机に置いた。
「ええ。かなりの剣幕だったわ」
翌日、ティアは港湾ギルドに来ていた。ピーターについてロイドの見解を聞きたかったからだ。
ロイドは今日も書類仕事に明け暮れていたようで、机には紙の束が積まれている。彼は刻まれた眉間のしわをさらに深めると、むずかしげな表情でティアを見た。
「まさか、信じたわけじゃないよな?」
「信じようがないわ......根拠は彼の頭の中の説だけなんだから」
「ならいいんだが」
そう言って背もたれに体を預けると、腕を組んで長いため息をつく。
「ピーターはな、水に取り憑かれてるんだ。そもそもあいつの親父が港湾ギルドの元職員でな。俺の同僚だった」
「えっ」
ティアが驚いて目を見張ると、ロイドは苦々しげな表情で机を見つめた。
「北部の魔法都市ダフネで水魔法の研究をしてたとかで、ここ西部に移住してからも水にかかわる仕事がしたいと言ってな。それで水利管理局に入ってきたんだ。だがある日、とんでもない事故を起こした」
「事故?」
ロイドは背後の窓を指さした。窓の向こうには船からおろした荷物を保管するための倉庫が立ち並んでいる。
「港にはあらゆる荷物が持ち込まれ、それを市内や市外へと運び出さなきゃならない。あいつはその荷運びを、豊富な水を利用して効率化できないかと考えてたんだ。港から商業区と市場区までをつなぐようにして地上に水路を作り、そこに魔法の手助けで荷物を浮かせて水の流れで運ばせる......そうすればどんなに重い荷物でも楽に運搬できると言っていた」
たしかにそれが叶えば効率的な荷運びができそうだが、ロイドの表情は暗い。
「ひとまず港に簡易水路を作って試験運用しようとして......結果は大失敗さ。あいつが作った水路からは爆発的な勢いで大量の水があふれ出して、ここら一帯は大洪水になった。届いたばかりの荷物がすべて海に流されて......結果、あいつはクビだ。それきり姿は見ていない。風の噂で、どうやらすぐに死んだらしいということは聞いたが」
「死んだ? どうして?」
「なぜなのかは知らん」
ロイドはこちらに向きなおると、机に両肘をついてティアを見据えた。
「わかるか? ピーターは死んだ父親の影を追ってるんだ。魔力水なんてものを作りあげてそれが認められれば、親父の無念が晴れると思ってるのさ。だがそうじゃない。あいつがやるべきことは親父の後始末じゃないんだ。自分の人生を生きなきゃならない」
そう言うロイドの顔には、疲れと、そして怒りがにじんでいるように見えた。
「あんたもエルフなら知ってるだろう。水に魔力なんて宿っちゃいない」
「ええ、それはわかってるわ。魔力は人が持つもので、自然界には存在しない」
「そうだ。ちょっと教養があれば誰でも知ってることさ。魔力水なんてのは、全部ピーターの願望なんだよ」
ティアは考えた。
やはりそうなのだろうか。昨日ピーターから受けた説明は、客観的に見て根拠がない。
新説というのは、ただ自分が正しいと思っているだけでは認められない。第三者に検証されることではじめて世間に受け入れてもらえる。
ピーターは、誰からも相手にされていないがゆえにその機会が得られていないだけなのか、それとも......。
「わかったわ。ただ、彼のこととは関係なく、一度湖を調べてみようと思ってるの」
「湖......リュネ湖か?」
「ええ。記録を見ていても、やっぱり湖は気になるわ。水質や水量がこれだけ安定しているのがなぜなのか......あの石板と関係があるかはわからないけど、水源のリュネ湖を直接見てみたい」
「ふむ。俺たちはそういうもんなんだと思って気にしたこともなかったが......エルフたちを呼ぶか?」
「必要ないわ」
彼らは、王都から連絡が来るまで船で待つと自ら決めている。
それに昨日のレイとのことも気になった。できれば今は顔を合わせたくない。
「わかった。いずれにしろ、タラサテユールが星の休息日に入るとかで、数日は動けんと言っていたからな」
「星の休息日?」
「よくは知らん。何日か部屋にこもって出てこないらしいが......」
そういうことか。タラサの監視がはずれたのでレイが自由に動きまわっていたのだろう。
「しかしリュネ湖へ行くなら、徒歩だと半日はかかるな。貸馬車を呼ぶから乗っていけ」
「手配してくれるの?」
「ああ。昨日レイノスロームを押しつけた詫びだ」
ロイドは「あいつがあんまりうるさくてな。悪かった」と言うと、少し苦笑いをしてインク筆を手に取った。
ティアがかもめ荘に戻ると、とんでもないことになっていた。
二階にある四人部屋を借りているのだが、ココがその部屋を水びたしにしてしまっていたのだ。
部屋の中に小さな木桶があり、ココは桶の中で気持ちよさそうに水浴びをしていた。まわりには魔力水の小瓶が数本散らばっている。昨日帰りがけにピーターから強引に渡された魔力水だ。
「このお水ね、すごく気持ちよさそうだったから! なんだかティアと一緒に寝てるみたい」
ココはそう言って、なおも桶の水をばしゃばしゃと羽で散らした。
部屋を掃除し、ココを厳重注意してから、今度は水魔力研究所へと向かう。ロイドはああ言っていたが、やはりティアはピーターのことが気になっていた。
地下水路へ行くわけではないと知ると不満そうだったが、リュネ湖へ調査に行くと伝えた途端、ピーターは鼻をヒクヒクとさせて、大慌てであの散らかった居間に戻っていった。
ガチャガチャ、ドタンバタンと大きな音がしたあと、膨れあがった鞄を肩から斜め掛けにして出てきて、「ボクも行く!」と興奮した様子で耳を揺らした。
ロイドに手配してもらった貸馬車に揺られながら、ティアは景色を見ていた。小型の二輪馬車で屋根もないが、さわさわと肌をなでる風にココも気持ちがよさそうだ。
セレスト港を離れるにつれてところどころにあった人家も減っていき、牧草地が見えてくる。遠くに見える丘陵を越えた先には森があるようだ。
「リュネ湖には昔行ったことがあるんだ。かなり小さい時だったけど」
ピーターは緊張した面持ちで耳を伏せ、手をぎゅっと握っている。
「ボク、その時に湖に落ちちゃってさ。ホントに怖かったよ......死に物狂いで手足を動かしてたら、いきなり体が軽くなって、ふわふわっと泳げたんだ。それで助かったんだけど」
がたがたと揺れる馬車から守るように鞄を抱えながら、
「ボクらラビット族は泳げないから、あの時なんで泳いで岸まで辿りつけたのかわからない......けど、また湖に落ちたらと思うと怖くって、これまでひとりではリュネ湖に行けなかったんだ」
そう言ってちらりとティアを見ると、恥ずかしそうにうつむく。
「そう。じゃあ、今回は良いきっかけだったのね」
「うん......あのさ。それで、魔力水は飲んでくれた?」
突然のピーターの問いに、ティアは顔が引きつるのを感じた。
渡された魔力水は、ココが全部だめにしてしまった。なんと答えよう。
「どうだった?」
期待半分、不安半分、といったピーターの表情を見て、ティアの頬を汗がつたった。
「まだ......飲んでないの。ちょっといろいろあって」
これは嘘ではない、事実だ。
ピーターはわかりやすくがっかりすると、なにも言わずに景色へと目を向けた。
牧草地を抜けて、丘陵を越え、森のわきを走りつづけると、ついにリュネ湖が見えてきた。
木々の隙間からやっと姿をあらわした湖は、想像していたよりもずっと大きかった。向こう岸はぼんやりとかすんでいて、湖の端がどこにあるのかはっきりとわからない。
まわりを囲む木々でさえ、水面の大きさを引き立てるように小さく見えた。
「すごーい......大きな湖だよ!」
嬉しそうなココの声も水面に吸い込まれるように感じるほど、リュネ湖はしんとして静かだ。
風がやさしく湖面をなでると、光を受けた水がきらきらと揺れる。水は深くまで澄んでいて、湖岸近くなら水底の石まで見えるほどだ。
ざわざわと風が木を揺らす。遠くの木の葉がかすれる音まで聞こえる。なのに、湖は静かだった。
ティアはゆっくりと湖に近づいた。遠くまで続く水面を見る。
右手沿いの湖岸に石造りの建物がある。おそらく港湾ギルドの管理施設だろうが、今はどうでもよかった。
目を閉じてゆっくりと息を吸い込む......この感覚に覚えがある。懐かしい。
「ココ」
そう声をかけるまでもなく、ココもじっと湖を見つめていた。
彼女も感じているのだろう。ここには間違いなくいる――妖精が。
ティアは湖に視線を向けたまま装備を脱いだ。弓を置き、マントを取り、革鎧もブーツもすべて脱ぐ。
「ど、どうしたの?」
戸惑うピーターの声が背後から聞こえてくる。
ティアは素足になると、ゆっくりと湖面に右足を伸ばした。指先が触れ、水面に波紋が立つ。左足も伸ばす。波紋が立つ。
全身にココの風を感じる......風が体を包み込んでいく。
ティアの体は、水に沈むことはなかった。波紋をたてながら、一歩一歩ゆっくりと水面を歩いていく。
すでに水の底が見えない位置まで来ていた。
足の下にはどこまでも深い青が溶け込んでいる。深く、明るく、暗い青......その中にゆらめきがあるのが見えた。
ゆらゆらと揺らめく影――いや、光だ。
「わたしは、リスフェリアの森のセレスティア......あなたの名前を教えて」
ティアが語りかけたその言葉に呼応するように、水面から突然水しぶきがあがり、ヴェールのようにティアの体を包みこむ。
ティアはそのまま、一気に水の中へと落ちていった。