ラ・ミュレ(前編)
「リスフェリア? ずいぶん遠くからきたのね」
ささやくような声がすぐ耳もとで聞こえた。
水の中でも不思議なくらい、はっきりと聞こえる。
「あたしはラ・ミュレ。久しぶりだわ」
冷たい水が耳をなでていく......ティアの体は水の中で、渦巻くような奔流に包まれていた。
――なにが久しぶりなの?
「ヒトが落ちるのが」
ラ・ミュレは楽しそうにクスクスと笑っている。彼女の冷たい手がティアの体に触れるのを感じた。
「ずっと退屈してたのよ。なかなか誰も来てくれないの。あたしはずっと、ずっとここにいるのに......」
――ミュレ、あなたはいつからいるの?
「ずっとよ」
水流の遠い向こうで光がきらめくのが見えた。
水の中でまたたくような、小さな光。
「あたしはここの水が好きなの。だからずっといるわ。ここがリュネ湖なんて呼ばれる前から」
――前はなんて呼ばれていたの?
「さあ? でも、あたしはミュレ湖って呼んでる......」
冷たい手はティアの体をするするとなでて、そのまま包み込むように抱きしめた。
「だって、あたしの湖だから。この水もヒトの魔力も、全部あたしのものよ」
また光のきらめきが見えた。さっきよりも近い。
きっとココだ。ティアを探しているのだろう。
――ミュレ、わたしはこの湖を調べにきたの。近くにあるセレストという町とのつながりが知りたい。あなたの知っていることを教えて......。
「ヒトの町なんて知らない。あたしはずっとここにいるのよ。ヒトは魔力を流してくれるだけ」
――魔力を流す?
冷たい手の力が弱まり、ティアはくるりと体が回転するのを感じた。
目の前に顔があった。水の中で揺らめく美しい顔は、微笑みを浮かべている。
「そうよ。とっても気持ちいい......あたしはここの水が好きなの。だから、ここはあたしだけのミュレ湖」
ミュレの手がするりとティアの頬をなでる。その冷たさを、はげしい奔流の中でもはっきりと感じた。
「あの子が迎えにきたわ。ねえセレスティア、あなたともっと話したい......あたしのものになってくれる?」
体中にひと際冷たい水を感じた瞬間、力強い風の息吹がティアを包み込み、体をぐんと押し上げた。
あっという間に水面まで浮き上がり、飛び出すようにして空中に放り出される。すぐにふたたび水面に落ちると、ココがきらきらと羽ばたきながらティアの頬にすり寄ってきた。
「ティア! だいじょうぶ?」
なんとか水面から顔を出し、息をする。
遠くの湖岸でピーターがなにか叫んでいるが、声はよく聞こえない。
ひとしきり呼吸をしたあと、ティアは泳いで岸辺まで戻った。ちょうど倒れていた倒木につかまり、草の生えた地面まで這い上がる。
はあはあと息をついていると、ピーターがパニック状態で走ってくるのが見えた。
「大丈夫!? い、いきなり水に吸い込まるみたいに落ちて、ボク泳げないし、ど、どうしたらいいか、わからなくて......」
完全に耳を倒し、いまにも泣きだしそうな表情のピーターを見ながら、ティアは思い出していた。
ココはかもめ荘で魔力水を浴びながら、気持ちがいいと言っていた。ティアと一緒に寝ているみたいだと。
そしてこのリュネ湖の妖精ラ・ミュレも言った。ここの水はとても気持ちいいと――人は魔力を流してくれる、と。すべて合点がいった。
「ピーター」
ようやく息をついてティアがそう呼びかけると、ピーターは不安そうな顔でこちらを見た。
「湖の妖精と話したわ。リュネ湖の水には魔力が流れてる。あなたの言ったとおりよ......水魔力説は正しい」
ピーターはぽかんと口を開けた。唖然とした表情で、ティアを凝視する。
「あなたの話を信じるわ。一緒に地下水路へ行きましょう」
ティアがはっきりと告げたその言葉に、ピーターはしばらく口を開けたまま、瞬きひとつ、微動だにすらしなかった。
そしてその大きな赤い瞳から、ひとしずくの光の粒がぽろりとこぼれ落ちた。
町よりも高い位置にあるリュネ湖の空気は、ひんやりとして冷たい。
濡れた体をココに乾かしてもらい装備を整えると、ティアは湖岸に建つ石造りの建物へと向かった。
それは小屋程度の大きさで、屋根にはうすく苔が生えていた。そばに立つ石柱には水位をはかるための目盛りが刻まれている。
鍵を開けて入ると、中は半地下構造になっていた。床の半分以上が湖の水に浸かっている。つまりこの建物は、セレスト港へつづく導水管に水を取り込むための、取水施設だった。
ココやピーターと一緒にくまなく探すが、水中へ降りるための石階段やごみ避けの格子、取水槽などがあるだけのようだ。
「ここは、ただ湖の水を導水管へ流しているだけね。魔法にかかわるものはなさそうだわ」
ティアの言葉に、ピーターは首をかしげて腕を組む。
「さっきボクの魔力計測器でここの水を測定したけど、やっぱり魔力が含まれてる。雨水には魔力がないのに、その雨水がたまってできる湖には魔力がある......いったい、どういうことなんだろう?」
「港湾ギルドで資料を見たわ。リュネ湖は大きな川とのつながりはないけど、そうとうな深さがある。森や山に降った雨が地下水となって湖底からわき出る、湧水湖なのよ」
「地下水......町の井戸水も地下水だし、やっぱり地下が関係してるんだ!」
決意を固くするピーターに、ティアは思案した。
ティアは妖精のすべてを信じている。ココやミュレが魔力水や湖水に親和性をもち、さらにミュレははっきりと「ヒトは魔力を流してくれる」と言っていた。この地域の水に魔力が含まれていることは間違いないだろう。
雨や雪が降る。ピーターの測定どおり、この時点では水に魔力は含まれない。
だが、ひとたび地下を経由すると、地上に届くころには魔力が含まれるようになっている。そして町の井戸水よりも、リュネ湖の水のほうが魔力水のバランスを調整しづらいというピーターの話......。
「井戸水とリュネ湖の水......この違いは、距離じゃないかしら?」
「距離?」
「ええ。井戸水はセレスト港の真下の地下水。リュネ湖はセレスト港から徒歩半日の距離にある地下水よ。セレスト港の下層水路には、古代エルフ語で書かれた石板が残されていたの。わたしたちはその調査をしていたんだけど、もしこの石板がなにかしらの理由で地下水に影響しているとしたら......」
ティアの言葉に、ピーターははっとして目を見開いた。
「それでエルフたちが調査に来てたんだね? 地下水路にある古代エルフ語の石板......そして二か所の地下水......魔力水の調整しやすさに差が出ている理由も、きっとその石板にかかわりがあるんだ!」
「そうね......偶然だとは思えないわ。それにピーター、あなたが地下水路に行けば、わたしたちとは違うことになにか気づけるかもしれない」
両方の長い耳をぴんと立て、興奮しているピーターを見る。
「うん。ティア、一緒に行こう。その石板のもとへボクを案内して!」
彼の言葉に、ティアはしっかりとうなずいた。