そして…
ゆっくりと港が近づいてくる。ティアは白銀の帆船の甲板に立って、海風を浴びながらそれを見ていた。
昼過ぎの青空には白い雲がいくつも漂っていて、その下の海は射すような太陽の光をきらきらと反射している。
港に並ぶ無数の船に、南門の向こうに広がる大きな街並み。船は静かに、セレスト港へと近づいていく。
ごうん――という音とともに船が桟橋へ横づけされると、船体の後ろにある大きな扉が開いた。扉の前に控えていたエルフが手をかざすと、カラカラと音を立てて船体から白銀の板がせりだしてくる。それは幅広の階段となり、桟橋へと長く伸びていった。
最後の一段が桟橋に触れる。すると階段をふちどっていた模様に光が灯り、そこから手すりが伸びてなめらかに船体と桟橋をつないでいった。
ティアが階段を降りて桟橋に立つと、遠くから誰かが駆けてくるのが見えた。つやつやの濃い毛並みに長い耳、大きな肩かけ鞄......もちろんピーターだ。
「ティアぁぁぁ!」
彼はくしゃくしゃの顔で走ってくると、そのままの勢いでティアに飛びついた。
「うわぁぁん! ティア、ボク......」
「ピーター......じゃあ、ついに港に入れるようになったのね?」
抱きとめてティアが聞くと、ピーターはびっくりした顔で言葉を止めた。
「第一声がそれ? ボクがどれだけ心配したと思ってるのさ! あいつらに連れて行かれちゃって、何日も帰ってこなくて......」
「でも、入れるようになったんでしょ? 港湾ギルドとは和解できたの?」
「あ、うん......ボク、目が覚めたらギルドの保安牢に閉じ込められててさ。逮捕されちゃってたんだ。勝手に地下水路に入り込んだから、不法侵入だって言われて」
「逮捕?」
驚いて聞くと、ピーターは耳を伏せてこくりと頷いた。
「でも、ボク必死に言ったんだよ。ティアとココと一緒に来たんだって、三人でやっと石板の謎を解いたのに、エルフたちが来てティアを連れて行ったんだって! 最初は取り合ってもらえなかったんだ。でもロイドが来て、ボクの話を信じてくれて......」
ちょうどその時、ピーターの背後からロイドが歩いてきた。
「おう。船旅はどうだった?」
相変わらず疲れた顔をしているロイドは、苦笑いをしながらそう言った。
「二度とごめんだわ」
「だろうな」
「ピーターの話、信じてくれたのね」
ロイドは苦笑を浮かべたままピーターを見ると、腕を組んでうなずいた。
「レイノスロームから、地下水路の謎が解けた、途中で侵入者を捕らえたと報告を受けて、はじめは信じていたんだ。だがこの小僧があんまり必死に言うもんでな。少し聞き込みをしたら、宿屋のおかみはお前が数日前から戻ってこないと言うし、エルフたちと一緒に船に乗り込むのを見たというやつは出てくるし......」
「わたしが一緒に乗り込んだ?」
「ああ。ふらふらしながら後をついて行ったという話だった。それを聞いたときには、遺物についての確認や翻訳も済んだあとで、エルフたちはすでにセレストを発っていたんだが、どうにも腑に落ちんくてな......水路の見取り図を見たいと言ったきり、俺に一言もなく突然ロストデールに向かうなどいくらなんでも妙だろう。ピーターの話のほうがよっぽど辻褄があう。で、上に掛け合ってたんだが」
そう言ってロイドは肩をすくめる。
「外交問題になるだの、エルフ同士意気投合したんじゃないかだの、放浪者がひとり消えたくらいで大げさだのと......ま、役所ってのはそういうところなのさ。それで、どうするかひとりで頭を抱えていたところに、タラサテユールから連絡が入ったってわけだ」
ティアは背後の船を見た。
エルフの帆船からは、降りてきた白銀の階段も手すりも消えて、船体側面の大きな扉もすでに閉じられている。
巨大な船の甲板を見上げると、白銀の帆の前にタラサが立っていた。光に透ける長いプラチナブロンドの髪が、彼女のローブと一緒に風に揺れている。
あの船上での戦いの後、ティアはタラサに保護された。彼女はティアの傷や火傷を手当しながら、「このような幼子を略取し蹂躙せしめるなど、知の探究者である星の都にとって恥ずべきこと」と、それは激しい怒りようだった。
タラサの尋問にレイが語ったのは、実に幼稚な怒涛の言い訳だった。
「こんなことになると思わなかったんだよ。だってゲイリンがあの状態で、ティアを連れていくって言って聞かないしさ、俺ひとりで止められるわけないじゃん。いや、タラサに言えったって、俺がティアを視たって知ったらタラサ絶対怒るじゃん――ほら、怒ってる! そんでさ、まあロストデールに連れてくなら、あっちでは俺が面倒みてあげればいいかなって思って......え? だって落ち着いてちゃんと説明すれば、ティアも諦めて俺と友達になってくれるんじゃないかなって思ったんだよ。だからさ、わかる? 俺はティアを傷つけるつもりなんてこれっぽっちもなかったの! ゲイリンがあそこまで暴走するとは思わなかったんだって。本当だよ! だから俺、さすがにやばいと思って、ちゃんとタラサに事情を話しただろ?」
レイが言うには、あのときタラサが部屋に飛び込んできたのは、ただならぬ破壊音を立てるふたりに焦って、レイがタラサに事態を打ち明けたからだということだった。
当然、だからといってタラサの怒りが収まるはずもなく、ティアもまた許す気にはなれなかった。
結局レイは個室での謹慎を命じられた。沙汰(※善悪を判断し処分が決まること)が下るのは国に戻ってからのようだが、レイやタラサの様子から察するに、おそらくさほどの罪にはならないのだろう。だがティアにとってはどうでもよかった。もう二度と顔も見たくない。
ティアはセレスト港に送り届けてもらうまでの間、タラサの部屋で彼女とともに過ごすこととなった。それはそれで疲れるものだったが、ひとつだけ得られたことがあった。
「大妖精について、わたくしは聞いたことがあります」
そう語ったのは、彼女の古い記憶だった。
「この話はゲイリンと同じ、リスフェリア出身の放浪者から聞いたものですわ。彼女の軌跡もまた、わたくしのスティラに刻まれています」
「リスフェリア出身の放浪者?」
「弓を背に、純白の髪を外套で包んだ、しなやかで美しい戦士でした。その名をライール・トルキン」
タラサはその名とともに左手に白銀の星を浮かせながら、記憶を語った。
「純白の放浪者は契約妖精をつれていませんでした。しかし彼女もまた、大妖精を探していましたわ。すべての大妖精と面会し、話がしたいと......それが彼女の今生の目標だと。そして、大妖精シルフとはすでに会話を終えたとおっしゃっていました」
「ココと?」
「あなたの妖精が大妖精シルフであるのなら、そうなのでしょう。記憶がないということでしたわね」
ティアに寄り添うココを見ながら、タラサは柳眉を髪の隙間からのぞかせ、笑みを浮かべる。
「今から話すのは、大妖精について彼女が語ったことですわ。そう思って聞いてください」
そう言って目を閉じると、タラサは静かに息を吸った。左手の白銀の星がくるくると回転しはじめる。
「――森羅を統べ、あらゆる恵みの象徴で、慈愛の化身......それが大妖精である。ゆえに、己自身と引き換えにして奇跡を成すことができる唯一の存在。生物ではなく、生への執着もなく、究極の慈愛と献身によってエルフに恵みをもたらすもの。その祝福を受ける者には責任がある」
「責任......?」
「大妖精を背負う責任とは、自然に調和をもたらす責任とも同義。それを成せる者こそが、大妖精に選ばれるのだ、と」
自然に調和をもたらす責任を成せるものが選ばれる......心のうちで反芻してみても、ティアにはよくわからなかった。
祝福を受けたのは赤子のころなので、なにも覚えていない。物心がついたときにはもうココと一緒だった。リスフェリアを出るまで、たとえほんのひとときでも離れたことはない。
ココとともに生きることは、当たり前で、疑いようのない日常だった......それがあの日、ティアの選択が引き金となり、引き裂かれてしまった。
責任といわれても、ティアにその責任とやらが果たせるとは思えない。自分は一度失敗したのだ。
ティアのすぐそばに寄り添うココを見る。
ココはタラサが用意してくれたティーカップからたちのぼる香りを、幸せそうに嗅いでいる。
大妖精は、己自身と引き換えにして奇跡を成すことができる唯一の存在。言葉をそのまま受け取るなら、二年前のあの日、ココは自分自身を犠牲にしてティアを蘇生させたことになる。では、今ここにいる、まるで別人のような記憶を失ったココは......。
妖精はエルフの願いを叶え、恵みを与える。
あの日、あの森で、ティアが心から強く願ったこと。迫りくる死への拒否と――そしてもうひとつ。
それを思い返して......ティアはそっと目を伏せた。
「わかったわ。ありがとう、タラサ」
ココを見つめるタラサの瞳は、いつものおだやかな微笑みをたたえている。
ティアには大妖精を背負う責任は果たせない。その資格もすでにない。だが......そんなティアにも、ひとつだけできることがあるような気がした。
「ティアー!」
ふと意識をもどす。驚いた顔のピーターとともに振り返ると、海の向こうからきらきらとしたきらめきが飛んでくるところだった。煌々と海を照らす太陽にも負けないくらいの、美しい光。
ココは光の軌跡を描きながら、ティアのもとでふわりと舞い上がった。
「あれっ、ピーターだ!」
「ココ! ずいぶん元気になったんだね!」
きらきらとしながら羽ばたくココに、ピーターが目を丸くする。
「えへへ......アタシ、たーっくさん海を飛んだんだ。海の風とお友達になったんだよ!」
「みんなとお別れしてきた?」
ティアがそう聞くと、ココはくるりと回転して嬉しそうに笑みを浮かべた。
「うん! みんな、自分の好きな場所があるんだって。ちゃんとおうちに帰っていったよ!」
「みんなって、誰?」
不思議そうに聞くピーターに、ティアは小さく笑みを浮かべた。
「あとで説明してあげる。ねえ、それよりお腹がすいたわ。ピーター、一緒にかもめ荘に行かない?」
「えっ、ボクも?」
「ええ。きっとソノが喜んでおいしい料理をふるまってくれるわ。そこで話をしましょう」
「ピーター、かもめ荘はすごいんだよ。ゴハンがすっごくって、おフロもあるし、かもめも時々やってくるんだよ!」
ティアがロイドも誘おうかと思って見ると、彼は肩をすくめて港湾ギルドを指さした。なるほど、仕事が溜まっているらしい。
あの地下の超巨大魔法陣が見つかったことで、良いか悪いか、ロイドの仕事も増えているのだろう。いつか彼も落ち着いて、その眉間のしわが薄まる日が来るといいのだが。
久しぶりの港町の空気を胸いっぱいに吸いこみ、ティアは青空を見上げた。晴天の中、南門は今日も大きく開かれている。その門を越えていく下船客や荷車も、以前とちっとも変わらない。
セレスト港の日常を目にうつしながら、ティアは得も言われぬ感情を胸に宿し、かもめ荘へと足を向けた。