欲しかったもの
「ドロウ」
巻物の上部が光り、ティアは強い力でゲイリンの長机へと引き寄せられた。体が宙に浮き、彼を見下ろす形になる。
左手に握っていたココがいない......左を見ると、ココも一緒にそこで浮いていた。
「なにをするのよ! 離して――」
「契約中の妖精は再契約できない。だからお前たちの契約を破棄させる」
――その言葉に、一瞬思考が停止する。ティアがゲイリンを凝視すると、彼は巻物を広げたままココを見据えた。
「バル・アポルテムノ」
巻物の下部が光った。そこに書かれた大量の小さな文字が、ぼんやりと青白く光っている。
ゲイリンがずっと書いていたのは、この巻物の計算式だったのか......光はふつふつと巻物から浮かび上がり、ティアとココのまわりに集まってくる。
そのままふたりを取り囲むと、くるくると周囲を回転しはじめ......そして、突然ふつりと消え去った。
「......なんだ?」
ゲイリンは巻物を見つめて困惑した表情を浮かべる。
「なにがあった? 式が間違っているはずは......」
ティアは右手に力をこめると、思い切り振り上げた。隠し持っていたガラスの破片を、ゲイリンに向かって力いっぱい突き立てる。
「――っ!?」
ガラスはゲイリンの頭をかすめ、左耳を切り裂き、肩に突き刺さった。そのままティアは、かろうじて彼の左耳にひっかかっている精石の耳飾りを引きちぎる。浮いていた体がどさりと床に落ちた。
「ぐぅっ――」
「ああああ!」
ティアは満身の力でゲイリンを突き飛ばし、よろめいたところを椅子で殴りつけた。無我夢中で、目についたありとあらゆるものを使って殴りつづける。
「あなたに――妖精は――ひとりも渡さない!」
「調子にのるなぁっ!」
ゲイリンはティアを振り払うと、頭をつかんで長机へと叩きつけた。首が折れるかと思うくらいの力で机に押し付けられる。目の前には引きちぎった耳飾りが落ちていた。
「この小娘が! 大人しくしていればいいものを!」
ティアは精石の耳飾りをつかんだ。強く握りしめる。この中にも妖精が閉じ込められている......ココと同じ風の妖精だ。そう思うと胸が張り裂けそうだった。
巻物をたぐりよせ、ゲイリンはティアの背中に叩きつけた。
「バル・アポルテ――」
「何度やったって無駄よ」
ティアは冷たく言った。いつのまにか涙が鼻梁を伝っている。
「なんだと?」
「その魔法はわたしたちには効かない」
「......どういう意味だ!」
ゲイリンの力はどんどんと強くなる。背中がみしみしと音を立てている気がした。
「あなたには......理解、できないわ......」
「答えろ!」
「......わたしと、ココ、は......」
――とっくに契約破棄されているんだから。押さえつけられて息が出せず、その先は言葉にならなかった。
「ティア......」
頭の上から声がした。ココの声だ。首をひねって必死に上を向く。
今にも消え入りそうな程度の光だけをまとったココが、ふらふらと浮いていた。そのぼんやりとした両目は、ティアではなくゲイリンを見ている。
ココからぶわりと風が巻き起こり、直線状にゲイリンへと放たれた。頭と背中からゲイリンの手が離れるのを感じる。
ティアは振り向いた。ゲイリンは強い風にあおられてのけぞり、それでも耐えている。上半身をかばうように突き出している両腕の間から、その渇望するような両目で、ココを睨みつけながら。
「あああああ!」
ティアは耳飾りを握ったまま手を固く握り、ゲイリンに向かって振り上げた。殴りつけ、突き飛ばそうと思った――その右手から、吹き上げるような大きな風が沸き起こる。
まとった風はゲイリンを巻きこんで、向かいの壁まで吹き飛ばした。激しい音を立ててキャビネットに激突し、床にくずおれる。
「はあ、はあ、はあ......」
部屋は突然静寂につつまれた。その静寂の隙間を縫うようにティアの呼吸音だけが聞こえている。ゲイリンは倒れたまま、動かない。
机上にはココが横たわっていた。小さな体がまとう光はいよいよ消えかかっている。
「ココ......」
ティアは震える手でココの体を起こすと、そっと顔を寄せた。
「どうして......どうしていつもわたしを助けようとするの? ココはいつも......」
涙が止まらない。もうこれ以上どうしようもないということが、ココの輝きを見れば明らかだった。
いつも美しくきらめいていたその手足も、羽も、もはや輝きとすら呼べないほんのわずかな光しか残っていない。
「......どうしてなの......ただ、そばにいてくれるだけでよかったのに......」
まるでランプの油が尽きる瞬間のように、光は徐々に消えていく――その時、ふと気づいた。ティアの右手に淡い光が灯っている。
いや、手ではない。光っているのはずっと握っていたゲイリンの耳飾りだった。深い青色の、精石の耳飾り。
耳飾りはパリン、と小さな音を立てて、ふたつに割れた。てのひら全体が静かな風で包み込まれる。
ティアはたしかに見た。割れた精石の中から、長い髪をなびかせた風の妖精が出てくるのを。
彼女は淡く光る両腕でココを抱きしめると、その頬に口づけをして、そしてティアを見つめた。ココと同じ、宝石のような美しい双眸で。
「わたしを想って、助けてくれてありがとう」
そう一言ささやくように言うと、ふわりと舞い上がり、虚空へと溶け込むようにさらさらと消えていく。
すべては一瞬のできごとだった。部屋には静寂だけが戻っている。
彼女が消えてしまったあとを呆然と見ていると、手の中のぬくもりがわずかに身じろぎした。
「ン......」
「......ココ!」
ティアは思わず息をのんだ。光が消えかけていたココの手足も羽も、ほんのりと明るさを取り戻している。
ココは気だるげに細くまぶたを開いた。ゆっくりと顔を持ち上げ、その澄んだ瞳でティアを見つめる。
「ティア......だいじょうぶ......?」
――いつもこれだ。ココはいつだってティアを心配している。
二年前のあのときも、リュネ湖でも、地下水路でも、そして今も。
そのいつもどおりの声を聞いて、ティアはもう言葉にならず、大声で泣いた。わあわあと子どものように泣き、小さなココにすがって、また泣いた。
「......それは......」
いろいろな感情がまぜこぜになって泣きわめいていて、背後から聞こえた声に反応したときには、すでに遅かった。
はっとして振り向いたそこにはゲイリンが立っていた。左半身を血に濡らし、怒りに満ちた目で、そして右手に精石を握っている。
「それは......大妖精シルフは、わたしのものだ!」
叫びとともに、彼の右手から炎がほとばしり出た。熱波とともに炎は膨れ上がり、一瞬でティアを包み込む。
ティアはとっさに手の中のココを背後に投げ捨てた。両腕で顔を覆い、きつく目を閉じる。そのままゲイリンに向かって突進した。
彼にぶつかる感触がしたあと、ガタンという大きな音が聞こえ、ティアはまた弾き飛ばされた。横ざまに倒れこみ、床に転がる。
倒れた衝撃で思わず息を吸ってしまい、そこで炎がすでにないことに気づいた。目を開き、顔を上げる――。
「精石を置くのです、ゲイリン!」
その凛とした声の主は、タラサだった。
これだけの騒動の中で一度も開くことのなかった扉が開け放たれ、そこにタラサが立っている。左手を前に突き出し、厳しい表情でゲイリンを見据える。
「邪魔をするな!」
精石を手にしたまま睨みかえすゲイリンに、タラサは一切の笑みを浮かべず、まっすぐに彼と対峙した。
「これは看過できない事態ですわ。なぜ彼女がこの船にいるのです?」
「お前には関係ない......」
「星の都を一歩でも出た以上、この船も船員もわたくしの管理下にあります。利己的なふるまいは慎み、星の発展に寄与すると同意したのを忘れたのですか!」
「わたしは妖精を調査対象とする許可を得ている。しゃしゃり出るな!」
ゲイリンはタラサに向かって右手を伸ばす。だがその手からふたたび炎が飛び出す前に、タラサが左手を振った。バシンという強い音がして、ゲイリンが弾かれるように後ずさる。
「同胞に黒星を向けるつもりですか? 最後の警告です。精石を置きなさい!」
ゲイリンの目は怒りに滾っていた。彼は手にした精石をタラサに投げつけると、背後の寝台へと足早に近づき、床からなにかを拾い上げる。
「......だめ!」
寝台の下には精石が落ちている。ティアはとっさに立ち上がったが、ゲイリンのほうが早かった。
いつの間にか、ココがティアの肩に寄り添っている。ゲイリンは渇望するように見開いた両眼で、まっすぐにココを睨み据えた。
「わたしのものだ!」
彼は両手に乗せた精石をティアに向けた。その手から白い靄がほとばしり、ティアの鼻先に痛みが走る――それが凍てつくような冷たさだと気づいたとき、同時にタラサの澄んだ声が響いた。
「スティラ・ゲイリン・ルヴェル」
タラサの左手から光の帯が伸びて、一瞬でゲイリンを取り巻いた。ティアの鼻先まで伸びていた白い靄は、光の帯に引きずり込まれるように、急速に縮んでいく。
そして帯と一緒にゲイリンの全身を覆ってゆき、ティアが瞬きをした一瞬のあいだに、彼の体は白く固まっていった。
「え......」
ゲイリンはティアに向けて手を伸ばした格好で、凍り付いていた。両手に精石を乗せ、目を見開き、ココを凝視したまま。
彫像のように動かない、ゲイリンの形をした氷の塊......それはてのひらから微かに靄を零しながら、そこに直立していた。
「ティア......」
ココが不安げに頬にすり寄ってくる。きらめきごと彼女を抱きしめて、ティアは呆然とゲイリンを見た。
「リスフェリアの幼子よ。傷を負っているようですわね」
タラサがゆっくりと歩いてくるが、ティアはなおもゲイリンから目が離せなかった。
「なにを......なにをしたの? ゲイリンは......凍ってるわ!」
「彼自身の仕業ですわ。己の術で封じられたのです」
「己の術?」
そのとき、タラサの左手に白銀の星が浮かんでいることに気づいた。星の宣託で手にしていたのと同じものだが、いまは回転することなく静かに浮いている。
タラサはたおやかに、白銀の星へと視線を落とした。
「わたくしのスティラには、過去すべての宣託の軌跡が刻まれています。140年前、彼がはじめて星の都へと足を踏み入れた際の軌跡も例外ではありませんわ」
そう言って、タラサは氷の塊となったゲイリンを見た。
「スティラの導きのもと軌跡を刻まれた者は、わたくしたちの友人です。友人を信じ、礼を尽くし、敬意を払うのと同時に......その信頼を裏切る者を、星は決して許しません。ゆえに、スティラの名のもとに、ゲイリンの軌跡を止めました」
「......軌跡を......止めた?」
「ええ。わたくしは警告をしました。それに従わず、止められると分かっていて、なおも妖精を使おうとしたのは本人の選択。この結果は星の答えに相違ないでしょう」
相変わらず、タラサの言っていることはよくわからない。軌跡を止める......それが言葉どおりの意味だとしても、なにが起きているのかティアには理解できなかった。
「彼は......ゲイリンは、死んでしまったの?」
「いいえ」
タラサはまっすぐにゲイリンを見た。
「ですが、今はこのままがよいと思いますわ。彼はあなたとその妖精を前にして、冷静ではいられないようですから」
ティアとココを交互に見て答えたタラサの言葉に、心の奥で安堵するのを感じた。妖精にあれだけ非道な仕打ちをするゲイリンを知ってもなお、彼の死を望まない自分がいる......それに驚いて、手の中のココをぎゅっと抱きしめた。
「しかし、それもまた本人の問題です。わたくしたちにとっては詮なきこと。それよりも......」
タラサは、もう一度ティアとココを上から下までゆっくりと見て、次いでぐちゃぐちゃの室内をぐるりと見まわし、そして背後を振り向いた。
「レイノスローム――すべてつまびらかに。説明をしていただけますわね?」
ティアにかけた声音とは違い、その声は冷たく冷え切っていた。
タラサの背後......開いた扉の向こう側では、レイがうつむき、諦めたような顔でぽつりと立っていた。